[#表紙(表紙1.jpg)] DIVE!! 上 森 絵都 目 次  一部 前宙返り三回半抱え型  1 DIVE TO BLUE  2 WHO IS THAT CAT?  3 DEAR FRIENDS  4 CONCRETE DRAGON  5 ENTER SHIBUKI  6 BIG EVENT COMING  7 WHAT DO I HAVE?  8 THE DAYS OF GRAY  9 UNEXPECTED TWIST  10 SHE'S SO SAD  11 DIAMOND EYES  二部 スワンダイブ  1 WHAT HAPPENED TO HIM?  2 THE FIRST HALF  3 THE LATTER HALF  4 FINAL RESULT  5 WHERE TO GO?  6 GOOD-BYE, TOKYO  7 ONLY TWO  8 SO I ENVY YOU!  9 SUMMER VACATION  10 FROM KAYOKO  11 DAY MUST BREAK  12 SWAN DIVE [#改ページ]  一部 前宙返り三回半抱え型 [#改ページ]  少年はその一瞬を待っていた。  夕暮れの空をつらぬく刃のような断崖《だんがい》の絶壁。高さ二十メートルはあろうかと思われるその尖端《せんたん》で、宙にせりだした爪先の合間から猛《たけ》る海を見下ろしながら、少年はただ肌をなぶる風だけに意識をかたむけていた。  カモメはおろかカラスさえも影をひそめる真冬の岬。氷雪が多く、大気も凍るようなこの季節には漁船も出漁を控え、そのうねる海面は水平線の彼方《かなた》まで一点の異物もよせつけていない。目に映るのはただ岩にくだける大波と、しぶく水煙と、その獰猛《どうもう》な海を朱色に燃やす夕映えと——。  潮の香りなんてものではない。生きた魚や死んだ魚。海草や岩や樹や湿った大地。その生命力に満ちみちた匂いを胸いっぱいにたくわえて、少年は上半身をくるんでいたバスタオルをはずした。寒さというよりは痛みに近い衝撃が褐色の肌を駆けぬける。  しかし今、風はない。白いタオルは流されることなく足下に落下した。  今だ!  ほんの一瞬。絶えず吹きすさぶ風が次なる一陣を待って息をひそめるその瞬間を見逃さず、少年は目線を水平線よりも高い空の一点に定めると、深々とかがめた両ひざをバネに凹凸だらけの足場を蹴《け》りあげた。  強靭《きようじん》な肢体が重力に抗《あらが》って宙を舞い、ブルーグレイの空ににじむ夕日と重なりあう。  次の瞬間、その色濃いシルエットは力強い曲線を描きつつ、眼下で白波を散らす海へと急降下していった。 「見つけた……」  女は背後の岩場から少年の飛翔《ひしよう》に目をこらしていた。  女の目には少年が鳥に見えた。  とどろく波が運ぶ冷気に震えながらも、瞳《ひとみ》に異様な熱を宿して虚空をあおいでいた女は、少年の体が豪快なしぶきを上げて海に没した瞬間、歓喜とも狂気ともつかない唇のゆがませかたをした。 「まちがいない。この子だわ」 [#改ページ]   1…DIVE TO BLUE  うごめくブルーを見下ろすプラットフォーム。飛込み台から突きだしたそのコンクリートの先端に立ったとき、知季《ともき》はいつも深い後悔の念に襲われる。しまった、と思う。またこんなところまでのこのこ来てしまった、と自分のうかつさを呪う。  高さ十メートルからの飛翔。  時速六十キロの急降下。  わずか一・四秒の空中演技。  こんな高さからこんな速度に耐えつつ、こんな瞬時に宙返りをしたり体をひねったり入水姿勢を整えたりしなければならないなんて、まったくばかげている。  プラットフォームの先に踵《かかと》をそろえ、きゅっと丸めた爪先を宙に浮かしたまま、知季はちらりと足下をのぞいた。下を見てはいけない。考えこんではならない。迷いだしたら最後、てこでも足が動かなくなる。わかっていながらも知季はときどき「ためらい病」にとりつかれてしまう。  窓からの西日にゆらめくダイビングプール。  無数のつむじがからみあうような透明のうねり。  はるか下方で知季を待ちうける、得体の知れない、とらえどころのない水の世界。  知季が飛込みの選手であることを知ると、だれもが「怖くないのかよ」と言うけれど、大抵の人は飛込み台の高さに気をとられていて、その下にひそむ真の恐怖に気づかない。  水。片時もじっとしていないこの不気味な液体は、時速六十キロのスピードで突っこんだとき、水というよりはもっとたしかな、薄氷のような抵抗を生む。もしも入水に成功すれば、知季はその薄氷を突きぬける快感を味わえるだろう。水はつねに成功者には優しく、やわらかなジェルで包みこむように迎えいれてくれる。  でも、もしも失敗したら? 水は容赦なく知季の体を打ちつける。その衝撃は観ている人間の想像以上に大きい。激しい殴打に意識はくらみ、吐き気のするような痛みをともなって、悪くすると全身が麻痺《まひ》して水底に沈んでいく。知季は現に何度か練習中に気絶して溺《おぼ》れかかり、コーチや仲間たちに救いだされている。 「おい、トモ、なに見てんだ! プールに魚でも泳いでるのか?」  プールサイドから富士谷《ふじたに》コーチの怒声が飛んだ。  いけない。知季はあわてて水面から目を離した。そろりと後ろをふりかえると、順番待ちの階段にはレイジと陵《りよう》のにやけ顔がある。  知季は観念して再び水とむきあい、大きく息を吸いこんだ。もしもここにいるのが自分一人なら、今日はどうも調子が悪いなどと理由をつけて、すごすご階段を引き返していただろう。しかし仲間の手前、そんなのはあまりにもかっこわるいし、第一、富士谷コーチが許しちゃくれない。  知季はもう下を見ずまっすぐ正面をとらえた。下半身に力をため、ぐっと集中して、これから行う種目をすばやく頭でなぞる。  前逆宙返り一回半抱え型。  成功率は悪くない技だ。大丈夫。きっとうまくいく。自分に言いきかせつつ両手を広げ、リズミカルにひざを折りながら勢いをつけて、大きくジャンプ——。  宙に躍りでた知季の体がある一点で静止し、後方に小さな円を描いて急降下していく。頭の天辺で組みあわせた指先が水に触れた次の瞬間、知季の体はややかたむいたまま水中に没し、バシャリと派手なスプラッシュが上がった。  入水の角度が浅すぎた。へんに打ちつけた掌がしびれる。それでも知季はぷくぷくと泡を立ててもぐっていく水の中、いつものあの、なんとも言えない心地よさを味わっていた。  恐怖を克服した達成感と、緊張から脱した解放感。  そして、敵だか味方だかわからない水に抱かれる快感。  プールから上がると、今の演技に富士谷コーチからいくつかの指示がでた。 「踏みきりが甘い」 「肩が力んでいる」 「爪先が水に沈むまでが演技だ。最後まで気をぬくな」  そのひとつひとつに相槌《あいづち》を打ってから、知季はまたふらふらと飛込み台に吸いよせられていく。頭の中は真っ白で、肌にはまだ水の感触が残っていて、ほどよい疲れと奇妙な高揚感の中、プラットフォームへと再び階段を上っていく知季の足どりは軽い。  たぶん、ほんの一瞬。  さっきの一・四秒でつかみかけた何か。  その快感をもっとたしかに自分のものにするために。  知季は何か珍種の動物でも追うように、はるか上方のプラットフォームをめざす。  そして実際、その先端に再び両足をのせるなり、しまった、またこんなところまでのこのこ来てしまった……と、性懲《しようこ》りもなく深い後悔の念に襲われるのだった。 「トモ、さっきはかなり粘ったなあ」 「前のやつがなかなか飛ばないとさ、見てるこっちまでビビッてくるんだよね」  休憩時間、冷えきった体を温めにジャグジーバスへ飛びこんだとたん、レイジと陵が待っていたように声をかけてきた。 「ごめん。なんか、ドツボにはまっちゃってさ。ときどきあるんだよね。なんでかわかんないけど、急に飛べなくなる」  知季が言うと、レイジは大きくうなずいて、 「ある、ある。昨日も今日も飛べたのに、明日になったら急に飛べなくなるとか、ね」 「そんなときにかぎって失敗したときのことばっか思いだすんだよな。あんまりいろいろ想像するのってよくないみたいだね、台の上で」 「想像力は敵だ!」  陵が声色を変えて言う。 「なにそれ、中西《なかにし》コーチの真似?」 「そうそう、あの人、年じゅう言ってたじゃん。プラットフォームに立ったら想像力は捨てろ、はずんでまわるだけのゴムマリになりきれ、って」 「でも富士谷コーチは反対にさ、鳥の気持ちになれとか、魚の気持ちになれとかすぐ言うよな。大切なのは心の演技だ、とか」 「だから合わなかったのかな、あの二人。だから中西コーチはやめちゃって……」  知季の声が沈んだ。 「中西コーチがやめたのは、富士谷コーチとは関係ないよ。うちのクラブがつぶれそうだから、ほかの安全なところに移っただけ」  そう言い返したレイジの声も沈んでいる。  三人のあいだに沈黙が立ちこめた。このところこの話をするたびに沈みこんでいるのに、何を話していても話題は結局ここへもどってきてしまう。 「ほんとにそれだけかな。あっちは有名なクラブだし、強い選手も大勢いるし、月給だってうちよりいいはずだし……」 「そんなんじゃないよ」  知季が陵をさえぎった。 「中西コーチ、お金のためとか、有名とか、そんなんで移ったんじゃないよ」 「そうかなあ」 「そうだって!」 「わかった、わかった。じゃあそういうことにしておくよ」  あやすような陵の言いかたに、知季は子供じみた自分の態度を恥じたけど、それでもやっぱり中西コーチがお金のためにクラブを移籍したとは思いたくなかった。  知季とレイジ、そして陵。三人が在籍しているミズキダイビングクラブ(MDC)は、大手スポーツメーカー『ミズキ』の直営するダイビングクラブで、赤字経営による存続の危機をささやかれながらも、いまだに二十六人の小学生に七人の中学生、そして一人の高校生ダイバーを抱えている。二十六対七対一。この比率が、飛込みを続けていく難しさをそのまま物語っていると言ってもいい。  飛込みとはそんなスポーツだ。怖さだとか、痛みだとか、寒さだとか、絶《た》えず苦しみがつきまとう。大多数が耐えきれずやめていく。そのためになかなかいい選手が育たず、試合も盛りあがらず、テレビや新聞における扱いも地味で、つねに華やかな競泳の陰に隠れている。  無論、低迷の理由はダイバーだけでなく、日本飛込み界の慢性的な指導者不足にもある。たとえ肉体的な適性と強い精神力をそなえた子供が現れたとしても、今の日本にはその素質を育《はぐく》む機関が少ないのだ。  だからこそ、ミズキの会長は六年前、この現状を打開すべく第一歩としてMDCの創設に踏みきった。元飛込み選手だったというミズキ会長は、日本飛込み界の発展に並々ならぬ熱意を抱いていて、大幅な赤字を覚悟の上で、飛込み界の明日を担《にな》うダイバーの育成にのりだしたのだった。立派な志である。  しかし、死んでしまった。持病の肝炎が悪化し、志半ばのうちに今年の一月、その生涯に幕を閉じた。  それからというもの、残されたMDCはミズキにとってただの厄介物になりさがり、もっと一般受けするスイミングクラブに転業するだの閉業するだのの噂が絶えない上、最近、それがたんなる噂でないことを裏づけるように、三人いたコーチの一人が関西のダイビングクラブに引きぬかれていった。知季は信頼していたコーチに見捨てられた上、MDCがそこまで追いこまれていることを知り、二重のショックを受けることになった。 「ぼくも中西コーチを信じる。生活かかってんだからしょうがないよ。不況なんだよ」  レイジが浴室にこもった湿気を払うように言った。 「それに、MDCがつぶれずに生き残ったら、中西コーチだってまたもどってきてくれるかもしれないじゃん」  知季はその声に救われたけれど、陵は「そうかな」と突っかかった。 「おれにはうちが生き残るとは思えないけど。レイジのその自信はどっからくるわけよ」 「要一《よういち》くん」 「要一くん?」 「うちのクラブには要一くんがいる。これから要一くんがばんばん活躍してミズキのイメージアップに貢献すれば、役員たちだってうちをつぶすのが惜しくなるだろ? って要一くんが言ってたからさ」 「自分で?」 「自分で」 「……要一くんって、そういうところがすごいよな」  三人はそろって「ふう」と脱力した。 「ま、たしかに要一くんならかなりの戦力になるだろうけど、でも問題は、それまでうちが持つかだな」  陵の冷めた声をききながらプールにもどると、ちょうどその要一が飛込み台の階段を上っていくところだった。  なみなみと水をたたえる二十五メートル四方のダイビングプール。その周辺にはいつのまにか永大付属|桜木《さくらぎ》高校飛込み部の姿もちらついている。あけぼの湾を映す窓を背にした一メートルのスプリングボードでも、どこかの大学のサークルが入水の練習をはじめていた。  屋外プールの使えない冬期、東京近郊に散在するダイバーたちは皆、否が応でもこうしてあけぼの湾に集まってくる。ここ東京|辰巳《たつみ》国際水泳場が都内で唯一の屋内ダイビングプールを有する施設だからだ。 「富士谷くん、今の種目、今度は七・五メートルから飛んでみて」  十メートルのプラットフォームをめざしていた要一に、プールサイドから桜木高校飛込み部の顧問、阿部《あべ》コーチが呼びかけた。 「OK」  要一はうなずき、七・五メートルの台へと引き返していく。  MDCのエースであり、富士谷コーチの息子でもある要一は、現在、桜木高校の一年生。東京近郊のダイバーがあけぼの湾に群がるように、飛込みを志す高校生の多くはこの桜木高校に籍を置いている。敷地内に専用の屋外ダイビングプールを持っている唯一の高校であるからだ。  もしもMDCがつぶれても、要一くんは桜木高校で飛込みを続けられるからいいよな。  ひがんだ思いを心に押しこめ、知季はプラットフォームの要一をあおいだ。  一流の選手は台に立った瞬間から人を惹《ひ》きつける。要一を見ているとこの言葉の意味がよくわかる。引きしまった肉体。ゆらぎのない姿勢。鋭いまなざし。これから行う演技に彼が何を求めているのか、どれだけ多くを自分に課しているのか、その志の高さがただ直立しているだけでひしひしと伝わってくる。やがて要一のひざがバネのように伸びあがり、全身を宙高く跳ね飛ばした。  後宙返り二回半|蝦《えび》型——。  どうすればこんなふうに飛べるんだろう? 知季はいつもながら感動とも絶望ともつかない思いに駆られた。どうすればこんなに難しい技を、こんなに軽々と、こんなに完璧《かんぺき》にこなせるんだろう?  要一の飛込みは美しい。宙を舞う体の線に一寸《いつすん》の乱れもない。三年連続中学生チャンピオンの実績を誇り、今も高一にしてインターハイの最有力選手と目される要一の洗練された演技を観ていると、知季はどうしても「才能」だとか「血統」だとか「DNA」だとかの言葉を連想してしまう。  元飛込みのオリンピック選手だった富士谷コーチと、同じく元飛込み界のマドンナ的選手だった母親から生まれたサラブレッド。 「うちのおやじさ、昔は体操の選手だったっていばってるけど、たかだか高校の県大会レベルだろ。要一くんとこと比べたら、駄馬だよな」  似たようなことを考えていたのか、横から陵の声がした。 「うちの両親も若いころはスポーツ万能だったって自慢するけど、富士谷ファミリーとはスケールがちがうよ」  と、さらに横からレイジの声。 「うちは二人とも運動音痴のくせに、ぼくには多くを求めるんだ」  と、さらに横から幸也《さちや》の声。 「サッチン?」  知季たちは一斉に声の主をふりむいた。 「なんだよ、おまえ。いつ来たんだよ」 「いたよ、ずっとさっきから」 「どこに」 「いつものとこ」 「ママさんシンクロか」  あきれ顔の三人にむかい、幸也は「うん」と丸い眉《まゆ》をたらした。 「今日、また新しいママが入ったんだ。それが初々《ういうい》しくってさ、いつもみんなよりワンテンポ遅れるんだよね。息つぎがまだなってないんだな。あの調子じゃそうとう足を引っぱりそうだし、リーダー格の鷲鼻《わしばな》ママとの確執が今から心配だよ」  にこにことうれしそうに語る幸也は、知季たちよりもひとつ年下の小学六年生。MDCに通っていながらも飛込みが嫌いで、高さ三メートルの台さえも怖がり、隙があればとなりのサブプールで行われているシンクロ教室の人間模様をウォッチングしている。 「おまえさ、その趣味早く捨てないと、そのうちコーチに見つかるぞ」  陵の忠告にも幸也はまったく動じる様子がない。 「さっき見つかったよ、富士谷コーチに」 「え。富士谷コーチ、どうした?」 「あの怖い顔で、十メートルの台に上がればもっとよく見えるぞ、だって。見えないよねえ」 「見えないよ」 「見えねえだろ」 「見えっこないけど……」  と言いながらも三人の足がつつっと十メートルの台へむかいかけたそのとき、「そうだ」と幸也が思いだしたように言った。 「それで富士谷コーチから伝言。今日は急用ができたから帰るって。一応、練習はここまでにするけど、まだやる気があるなら大島《おおしま》コーチの指示に従えってさ」 「急用? なんだろな。富士谷コーチが途中で練習切りあげるなんて」 「わかんないけど、でも美人と一緒だった」 「美人?」  三人は一斉に視線をさまよわせたものの、プールサイドにそれらしき美人の影はない。 「富士谷コーチが美人とデート」 「おれたちよりも大事な美人」 「おい、まだそのへんにいるんじゃねえか」  身近なスキャンダルの前には、要一のすばらしい演技もMDCの危機もたちまちかすんでいく。  知季たち四人はそわそわ辺りを見まわしながらロッカールームへと駆けこんでいった。 「いた」  濡《ぬ》れた頭を乾かしながら大急ぎで着替えをすまし、四人そろってロッカールームを飛びだすと、探すまでもなく、富士谷コーチはまだ受付前のロビーにいた。たしかに若い女と一緒だ。が、二人きりではない。  あいかわらず冴《さ》えない私服を着込み、とても元オリンピック選手には見えない富士谷コーチの横には、公共プールには場違いなほどかしこまった背広姿の中年男もいた。 「おいおい、三角関係かよ」 「愛憎のもつれか?」  柱の陰から目をこらす知季たちの後ろで、幸也が「あ」と気がついた。 「あの人、ミズキの社員だよ。前にも見学に来たことある。でも飛込みはすぐ飽きちゃったみたいで、ぼくと一緒にママさんシンクロ観てたけど」 「ふてえ社員だな」  その声がきこえたのか、富士谷コーチと立ち話をしていた女がふりむいた。  ゆるくパーマのかかった長髪の合間から、猫みたいな瞳《ひとみ》が知季を射すくめる。暗くなったらよく光りそうな目だ、と知季はとっさに思った。きれいな曲線を描く眉。筋の通った鼻。薄い唇。すべてがバランスよく整っている中で、その光る目だけが均衡を拒否してきわだっている。  歳は二十代のなかばくらいだろうか。やや光沢のあるグレイのパンツスーツに身を包んだ彼女は、さほど身長が高くないわりに妙な威圧感があって、知季は目をそらすことができなかった。  値踏みされている気がした。落ちつかなくて、喉《のど》が渇いた。  実際、彼女は値踏みをしていたのだ。 「おい、おまえらそこで何してるんだ」  女の視線を追った富士谷コーチが知季たちに気がついた。渋い顔でにらまれ、四人がすごすご進みでると、「生徒さんですか?」と背広の男がさほど興味もなさそうに尋ねた。 「ええ、そうなんですが、中学生にもなってまだまだ子供みたいで……」 「中学生以上の生徒さん、あいかわらず少ないようですね」 「いやいや、本当はまだおるんですが、中三になるともう受験で、だめですわ、ちっとも顔をだしません。それから女子もだめですわ、友達が来なくなるととたんに来なくなって……」  背広の男に媚《こ》びた笑みをむける富士谷コーチが、知季には不快だった。この気どった背広をはぎとって水着にすれば、こんなおやじより富士谷コーチのほうが数段かっこいいことはわかっているけれど、くやしいことに世の中の大抵のことはプール以外の場所で起こっている。 「あとは結局、保護者の理解ですかねえ。我々がどれだけ力をそそいでも、保護者の協力がなければどうにもこうにも……」  だれもきいていない説明を続ける富士谷コーチの横で、「ねえねえ」と幸也が無邪気な声を上げた。 「この女の人、だれ?」 「こら、指さすやつがあるか。この人は……」  紹介しかけた富士谷コーチをさえぎり、彼女は自ら名乗りでた。 「私は麻木夏陽子《あさきかよこ》。さっきプールサイドからあなたたちの飛込み、見てたわよ」  猫の瞳がまっすぐ突き刺さり、両わきにいたレイジや陵までもが知季をふりむいた。それくらい夏陽子はあからさまに知季だけを見つめていた。 「あなた、名前は?」  低音なのによく響く独特の声。  知季は動揺し、どぎまぎしながら答えた。 「坂井《さかい》知季」 「飛込みをはじめて何年?」 「五年……と、ちょっと」 「ご両親の身長は?」 「え」 「お父さんとお母さんの身長よ」 「……父さんは百六十八センチ。母さんは百五十ちょっと」 「お二人とも、何かスポーツをされていた?」 「えーと、父さんは野球とサッカーとアイスホッケーと水球と柔道を。母さんは足首を痛めるまでバレエをしてたって……」 「だから体がやわらかいのかな。ね、二重関節って言われたことない?」 「二重関節?」 「生まれつきの体質よ。二重関節だと体が人よりやわらかいの。あなた、きっとそれよ。手足も長い。肩幅も腰幅よりも広い。体型も小柄。そしてなにより……」 「え」 「まあいいわ、なんとなくわかった」  矢継《やつ》ぎばやの質問を終えると、夏陽子は勝手に納得し、腕にかけていたコートをはおった。富士谷コーチと背広の男をうながしながら、つかつかと出口へ急いでいく。 「おい」  知季は発作的にその背中を呼びとめていた。 「あんた、うちのクラブをつぶしに来たのか?」  年上の女性を「あんた」なんて呼んだのは初めてだった。言った自分でも驚いた。  けれども夏陽子は、知季の非礼をとがめようとした富士谷コーチを制して、平然と言ったのだ。 「つぶしに来たんじゃないわ。守りに来たのよ」  雲に覆われた空の下、建ちならぶビルの窓明かりが偽《にせ》の星座でも描くように、遠く近く光っている。車が橋を渡るたび、偽の星座は川面ににじんで二倍の夜空になる。  ラッシュ時をすぎた道路はスムーズで、知季と陵をのせた車のハンドルをにぎる陵の母親も上機嫌だった。 「今日は早く着けそうね。助かるわ」  だれにともなくつぶやく声をきくと、上機嫌の理由は今日、知季たちの練習がふだんより早く終わったせいでもあるらしい。  辰巳から世田谷《せたがや》までは車で小一時間。知季と陵は同じ区内に住んでいるため、毎回、二人の母親が交代で送り迎えをしてくれていた。辰巳水泳場の一般公開日は週に四日ほどで、交代とはいえ、そのつど、車をだすのは大変だろうと知季も思う。が、学校帰りに電車をのりついで辰巳まで行き、二時間びっしり練習して帰ってくる気力が自分にあるかは自信がなかった。辰巳のプールが使えない日ですら、知季たちには基礎体力づくりのための陸上トレーニングが課せられている。適度にサボっているものの、まともにやっていたら休日など永遠に訪れない。飛込みとは、それほどの精進を要するものなのだと富士谷コーチは言うけれど。  陵も疲れているのか、知季のとなりで静かに瞳を閉じたまま。いつもならうるさいほどよくしゃべる陵が、今夜にかぎってやけに無口だった。知季は車にのりこむ前、「よかったじゃねえか、ミズキの美人に気に入られてさ」と唇をよじらせた陵の、どこかしこりのある口ぶりを思いだし、憂鬱《ゆううつ》になった。  あの女のことを考えると妙に胸が騒ぐ。何か厄介なことがはじまりそうな気がする。それを期待しているのか恐れているのかわからないまま、気持ちを鎮めるように車の窓ガラスへ手を伸ばすと、二月の夜景を映すそれは氷のように冷たく、プールでふやけた指先をちくりと刺激した。明日は雪が降るかもしれません、とラジオからは女の機械的な声が流れていた。  車が知季の家の前に停まったときも、陵はまぶたを持ちあげようとせず、知季にはかえってそれがたぬき寝入りの証拠のように思えたものの、陵の芝居につきあい、わざと静かにドアを閉めた。 「なんだトモ、帰ってたんだ。早いじゃん」  家に帰り、食卓で母親の温めなおす味噌汁《みそしる》を待っていると、弟の弘也《ひろや》が階段を下りてきた。 「今日は早く終わったんだよ、練習」 「あら、なんで?」  知季の声に、キッチンから母親の恵《めぐみ》も顔をのぞかせる。 「知らない。でもミズキの社員が来てたから、またなんか話しあいでもあるんじゃないの」 「大変ねえ、富士谷先生も。飛込みのことしか頭にないような方なのに、企業のごたごたにまで巻きこまれて」  気の毒そうに言いながら、恵が大根と油揚げの味噌汁を運んできた。  夕食は練習前にすませていくから、知季は帰宅後、どんなに空腹でも味噌汁しか口にしない。贅肉《ぜいにく》はダイバーの大敵だ。余分な脂肪がほんの少しついただけでも、てきめんに回転の勘が狂ってくる。 「そういえば、未羽《みう》から電話あったよ」  味噌汁に箸《はし》をつけた知季に弘也が言った。切りだすタイミングを計っていたような言いかただった。 「また電話するって。でも、トモも元気があったら電話してってさ」 「うん」 「電話してやんなよ。待ってるから、きっと」 「うーん」  弘也は年子の弟だが、四月生まれの知季からちょうど一年後の三月に生まれたため、双子でもないのに学年が同じで、兄弟というよりも友達の感覚が強い。その弟のような友達のような弘也と、彼女のような友達のような未羽がクラスメイトであることも、知季にしてみればおかしな感覚だ。 「な、電話しろよ。未羽、いつも待ってんだから。ほんっと大変だよな、こういうスポーツバカとつきあっちゃうと」 「うるさいよ、ヒロ」 「どうせつきあうなら、トモよりおれみたいなののほうがいいのにな。うかつだよな、未羽も」 「未羽に言えよ」 「もう言ったよ」 「え」  未羽、なんだって?  ききかえそうとしたとたん、弘也はテレビのリモコンをつかんでそっぽをむいてしまった。スピーカーから盛大な音楽が流れだし、恵が「もっと小さく」と顔をしかめる。恵はテレビの音量だけで知季と弘也を識別できる。  味噌汁を飲みほした知季は、弘也の手前、コードレスフォンを手にして二階の私室へむかったものの、正直なところ未羽への電話は気が進まなかった。  理由はひとつ。話すことがないからだ。 「トモくんのこと、ずっと好きだったの。よかったら彼女にしてくれないかな」  と、未羽から告白されたのは去年の春。中学入学時のクラス分けで、小学六年生のとき一緒だった未羽とちがうクラスになった直後のことだった。  それ以前にも二月のなかばにチョコレートをもらったり、友達からひやかされたりしたことはあるけれど、好きだとか彼女だとか、そんなベタな言葉が飛びだしたのは初めてで、知季はとまどった。中学生になったばかりの知季には、男女のつきあいなどまだまだ現実味がなかったのだ。いつかは自分も恋をして、彼女とよりそったりキスをしたり、もっとそれ以上のことをしたりするのだろうと想像はしていたものの、それは遠い未来のことであるはずだから、そこに行きつくまでの具体的なプロセスなどは考えもしなかった。性欲も人並みにあったけど、今はまだ夢想だけで事足りていた。  にもかかわらず、なぜ自分は未羽の告白に迷うことなく「うん」と答えていたのか、知季はいまだに釈然《しやくぜん》としない。  もしかするとそれはすごく卑怯《ひきよう》な理由だったのかもしれない。未羽を拒むことでまわりの女子から悪人呼ばわりされたくないとか(ひどいわトモくん、未羽がかわいそう!)、知季が飛込みにすべてを捧げてると思っている友達を見返したいとか(なに、トモに彼女ができたって?)、実際、飛込みにすべてを捧げている生活にちょっとした彩りがほしいとか(ぼくだって彼女の一人や二人……)。  本当に未羽とつきあっていいのだろうかと迷いはじめたのは、未羽とつきあいだした直後からだった。つきあうといっても、電話をかけてきたり休み時間の教室に訪ねてきたり、二人が特別な関係であることを思いださせるのはつねに未羽のほうだった。  知季には時間がない。飛込みの練習でいつも忙しい。女の子とのつきあいかたも知らないし、第一、自分が未羽を好きなのかさえもわからない。  かわいい子だとは思う。嫌いじゃないのはたしかだ。でも、今すぐ会いたいとか声がききたいとか無性に抱きしめたいとか結婚したいとか浮気は許さないとか子供が三人ほしいとか地震が起きてもおれが守ってやるんだとか、そんな気持ちは一度も抱いたことがない。  これでいいんだろうか。  ためらいながらもこの日、知季が未羽に電話をかけたのは、いつまた電話が来るのかとびくびくしながら残りの夜をすごしたくなかったからだ。 「もしもし?」  たった一回のコールで未羽の声がきこえてきたとき、知季は彼女がじっと電話を待っていたことを知り、また気が重くなった。 「トモくん?」 「うん。ええっと、あの……遅くにごめん」 「ううん、全然。うれしいよ。トモくん、今日も練習だったのに疲れてない?」 「うん、今日は練習、早く終わったから」 「なんで?」 「え? と……あの、いろいろあってさ」 「いろいろ」 「うん」 「トモくんはいつもいろいろなんだよね」 「……」 「あ、いいの、ごめん。いいんだあたし、トモくんの声だけきければ。そうそう、今日ね、はっちゃんと買い物に行ったんだけど、すっごいかわいいクラゲ人形を見つけたの。それがなんとなくトモくんに似てるから買っちゃったんだけど、トモくんも見たい?」 「クラゲ人形……」  いくたびかの沈黙をのりこえ、五分ほどで「じゃあまた」と電話を切ったとき、知季は十メートルのプラットフォームから百回ダイブしたくらい疲れはてていた。  毎日電話をかけあうカップルたちは、いつもそんなに何を話してるんだろう? いちゃいちゃしてりゃいいんだよと弘也は言うけど、いちゃいちゃって一体どんなんだ? バカだなあ、と笑いながら未羽の額を指先でつつく自分を想像して、ぼくにはできない、と知季は思った。  未羽だって、こんな電話じゃ楽しいわけないのに。  考えながらベッドに横たわると、睡魔とともにどっと自己嫌悪が襲ってきた。  自分は冴《さ》えない、と思う。なんでも中途半端だ。未羽とつきあっていながら飛込みにばかり時間や心をそそいで、でもその飛込みも結局は中途半端で、どっちつかずだった。もっと本気で打ちこんでいたら、今みたいにときどき練習をサボったりはしないし、今日だって富士谷コーチがいなくても練習を続けていたはずだ。でも自分にはそこまでの根気も熱意もない。かといって飛込みなしの生活も考えられず、MDCがつぶれたら自分には何もなくなってしまう……とつねにおびえている。  水深五メートルのダイビングプール。その中はいつもわざとらしいほどさわやかなブルーに満ちているのに、水から上がったとたんに世界は輝きをなくして、くすんだグレイになる。そのグレイの中で知季はあぷあぷとエラ呼吸でもしながら生きている気がする。  水の世界を失うことは、自由な呼吸を失うことだ。  そう考えると、知季は無性にMDCの行く末が不安に思えてきた。  今日、あれから富士谷コーチとミズキの社員はどんな話をしたんだろう?  そして、あの女。麻木夏陽子。  知季は直感的に彼女を油断のならない相手だと感じていた。約束をやぶったり、嘘をついたり、恋人を裏切ったりなんてことも平気でしそうな気がする。  けれど、夏陽子が最後に残したあのセリフ……。 「つぶしに来たんじゃないわ。守りに来たのよ」  あの一言だけは、ふしぎときいた瞬間に信じていたのだ。 [#改ページ]   2…WHO IS THAT CAT?  麻木夏陽子が再び姿を現したとき、知季は「やっぱり」という気がしたけれど、きっとまたどこかで会うだろうと予期していたとはいえ、その再会の意外な形にはやはり目を見張った。  あれから一週間後、またもや辰巳水泳場で顔を合わせた夏陽子は、今回は黒い競技用の水着姿で知季たちを迎えた。  よく焼けた肌。トップでまとめた長髪。細身ながらも良質の筋肉をうかがわせる体つき。まつげの長い猫の瞳《ひとみ》はあいかわらずで、知季を見つけるとまたあの日のように輝いたけれど、そこには秘密の明かされる瞬間を待ちわびる子供みたいにいたずらな光も含まれていた。  そのわけはじきにわかった。  この日、練習前のストレッチ運動が終わると、富士谷コーチが全員を呼びよせ、夏陽子を紹介したのだ。 「今日からうちでコーチをしてもらうことになった、麻木夏陽子くんだ」  予期せぬ新コーチの出現に、小学生たちはわっと歓声を響かせ、知季たち中学生はぽかんと顔を見合わせた。  この女が新しいコーチ?  しかも、夏陽子はクラブを移った中西コーチの後任を務めるという。  MDCにはもともと三人のコーチが在籍し、大島という恰幅《かつぷく》のいい男コーチは小学生の、中西コーチは中学生の専任で、富士谷コーチはその双方を監督するヘッドコーチの立場にあった。つまり、夏陽子は知季たちの担当となるのだ。 「このクラブから有力な選手を送りだせるよう、努力します」  あっけにとられる知季たちを前に、夏陽子が牙《きば》を隠した猫のような挨拶《あいさつ》をすると、富士谷コーチは輪の中にいた要一に問いかけた。 「君はどうする? 今後はこの麻木コーチに指導してもらうか、それとも今までどおり、桜木高校の阿部コーチのもとで練習を続けるか」 「今までどおりでいいです」  要一は間髪を入れずに答えた。 「陸トレは一緒にやりますけど」 「まあ、そうだな。上をめざすなら、やはり年下よりも年上と練習したほうがいい」  もっともらしくうなずく富士谷コーチも、桜木高校に要一の刺激となりうる選手などいないことは重々承知のはずだ。親子でありながらも要一と富士谷コーチは互いに一定の距離を置いていて、知季は妙によそよそしいこの親子をいつもふしぎに思う。 「それでは、解散して練習を開始。あ、それから小学生の諸君に一言。練習中にプールサイドの植木をむしらないように。植木はむしるためではなく目を潤すためにあり……」  富士谷コーチの声を背に、知季たちはのろのろとシャワーを浴びにむかった。 「マジかよ、あいつがコーチかよ、つとまんのかよ、ったく」  この急展開に不服そうな陵のとなりでは、レイジも不安げな顔をしている。 「まさかミズキのまわし者じゃないよね。うちをつぶすために、わざとへんなコーチを送りこんだとか」 「まさか。だってそんな変わった手段をとらなくたって、その気になったらミズキはいつでもうちをつぶせるでしょ。それに……」  それに夏陽子はMDCをつぶしに来たのではなく、守りに来たのだと言った。あれはこういう意味だったのか、と知季は今になって腑《ふ》に落ちた。  とはいえ、夏陽子が本気でMDCを守るつもりなら、それには生半可でない実力と根気を要するはずだ。  飛込みは、コーチの存在が多大な影響力を持つ競技である。プラットフォームやスプリングボードから飛込むとき、当然ながら選手には自分の姿が見えない。自分の体がどれだけ正確に動いているか、入水ではどれだけスプラッシュが上がったか、なにひとつわからない。その欠落を埋めてくれるのがコーチの存在なのだ。水から上がり、今の種目についてコーチの説明を受けたとき、選手は初めて自分がどんな演技をしていたのかを知る。同時に課題や問題点を指摘され、改善の糸口を与えられる。その信頼関係なくしてはいかなるスキルアップもなしえない。 「ま、へぼいコーチならすぐクビだろ。今日はしっかりチェックしてやろうぜ」  戦闘的な態度で飛込み台に臨む陵を目で追いながら、知季もひそかに頭の中でチェックリストを作っていた。  夏陽子はどんな教えかたをするのか。  それは自分に適したものなのか。  第一、あの若さで彼女はどこまで飛込みを知っているのか。  結論からいうと、この日、厳しいチェックに音を上げることになったのは夏陽子ではなく、知季たちのほうだった。 「まずは一人ずつ飛んでみてちょうだい」  夏陽子にうながされ、まず最初にプラットフォームに立ったのは陵だった。見栄っぱりで、試合でも実力以上の大技を選びがちな陵は、新コーチの前でいいところを見せたかったのか、台の先端でいつもよりも長いこと気合いを入れていた。そうしてようやく両手をふりあげ飛びだそうとした矢先、プールサイドから夏陽子が両手を打ち鳴らして言ったのだ。 「もういいわ。わかったから、降りて」 「へ?」 「飛びこむまでもないわ。階段から下りてきなさい」  続いてプラットフォームに現れたレイジは、もともと慎重派のダイバーだ。この日も軽くまぶたを閉じ、これから行う演技に意識を集中していた。すると、やはり実際に飛びこむ前に夏陽子の冷酷な声がした。 「はい、もういいわ、降りてきて」  最後の知季も同様だった。陵やレイジの二の舞を踏まぬよう、台に上がったらすぐさま飛びこんでやろうと気構えていたのだが、先端でいったん静止して三秒としないうちに、夏陽子はそそくさと両手を打ち鳴らした。 「はい、はい、おしまい。さっさと降りて」  こうして屈辱的に台を降ろされた三人は、この日の練習中、一度も水に触れることなく、ひたすらプールサイドで「立ち姿勢」の練習をさせられたのだった。 「正しい姿勢で立つこともできないダイバーに、正しい飛込みなんてできっこないわ」 「首に力が入りすぎ。お尻《しり》はもっと引っこめて。腕はまっすぐに、でもかたくしないで、指はそろえるけど力を入れちゃだめ!」 「上半身はリラックスして、下半身はしっかり引きしめて。お腹の中心に力をためるのよ」 「あんたたち、何年も飛込みをやってきて、ボディ・アライメントすらできてないの?」  ボディ・アライメント——夏陽子のこだわるそれは、一言でいうと飛込みをする際の正しい姿勢のことだ。房の豊かなぶどうを想像してほしい。プラットフォームの上からぶどうを落としたら、房のばらついたそれはあちこちに重心をかたむけ、バランスをくずしたまま醜く着水するだろう。しかし、これがきゅうりだったら? まっすぐなきゅうりは一直線に落下し垂直に水を切る。ボディ・アライメントとは、体のあちこちに力を分散(例・ぶどう)させず、全身を一本の棒のように引きしめて(例・きゅうり)演技を行うことをいう。美しい空中演技やノー・スプラッシュ入水の基本であるそれを、夏陽子は初日から徹底的に教えなおそうとしたのだ。  が、その執拗《しつよう》なやりかたは知季たち三人の反発を招いた。 「プールサイドに立ってるだけで一時間!」 「狂ってるよ、あいつ。正気じゃねえよ」  前半はここまで、十分間の休憩をはさんでまた続けましょう、と夏陽子に告げられ、ダッシュでジャグジーバスに飛びこんだ彼らは、それまでこらえていたものを一気に爆発させた。 「いくらボディ・アライメントが大切ったって、そればっか一時間も二時間もやるバカいねえよな。陸上の選手が一時間、アキレス腱《けん》のばしてるようなもんだよ」 「作戦だよ、作戦。あいつ、初日からなんか変わったことやって、おれらをビビらせようって腹じゃねえの?」 「いるんだよなあ、そういう勘ちがいタイプ。自分に自信がないやつにかぎってへんな裏技を使うんだよ」  調子にのってまくしたてる三人の耳に、そのとき、要一の声がした。 「たしかにいる、いる。そういうタイプ」  ぎくっとふりむくと、ジャグジーバスを仕切るすりガラスのむこうに要一の影が浮かんでいる。 「要一くん……」 「おれも会ったことあるぜ、ああいうタイプのコーチ。中学んときの強化合宿で、アメリカから来た男コーチにあの女とそっくりの教えかたをされたんだ。一日目はボディ・アライメントの徹底。二日目は陸トレ。三日目は助走と踏みきりの練習。で、結局、一度も飛込みそのものは教えてくれなかったわけ。そりゃもう、みんな文句たらたらよ」 「だろうね」  口々にうなずく三人に、「けどな」と要一は言いそえた。 「けど、そのコーチが帰国したあとで、みんなの飛込みが見違えるようになってることがわかったってわけだ。よちよち歩きの赤んぼうがいきなりスキップはじめたみたいだって、日本のコーチ陣は唖然《あぜん》としてたぜ。ついでに、これもあとから知ったんだけど、そのコーチ、アメリカのゴールドメダリストを育てた男だったんだ」 「……」  声をなくした三人のむこうで、要一がバシャリと湯をはねあげて立ちあがった。プールサイドへと引き返していくその影を、知季はとっさに追いかけた。 「待ってよ、要一くん。そのアメリカのコーチ、あいつとなんか関係あるわけ?」 「いやべつに。ただ似てるってだけだよ、コーチングが。ま、あの女もただ者じゃなさそうだけどな」 「なんでわかるの?」 「一流の選手は台に立っただけでわかるって言うだろ。一流のコーチだってプールサイドにいるだけでわかるもんだよ、なんとなく」  要一の視線を追ってプールサイドに目をやると、そこには黒い水着に黄色いTシャツをはおった夏陽子の姿がある。なかなかもどらない知季たちに業を煮やし、小学生の指導を手伝いはじめたらしい。ちょこまか動きまわる小さなダイバーたちに身ぶり手ぶりで指示を与えるその姿は、たしかに独特の貫禄《かんろく》と気品を香らせていた。  ダイビングプール。  メインプール。  サブプール。  この三つからなる館内の喧噪《けんそう》。  方々で吹きあがる水しぶき。  それらすべてを超然と見下ろす飛込み台。  その横でしなりをあげるスプリングボード。  プールサイドを駆けまわる小学生たちの足音。  天井からのまばゆいライト。  プール特有の薬品臭。  一瞬の隙に襲いくるまどろみ——。  慣れているんだ、と知季は思った。こうしたすべてにあの女は慣れて、まるでその一部のように溶けこんでいる。 「いいケツしてるよな」  要一のつぶやきに頬を赤らめながら、知季はあらためて考えていた。  あいつ、何者だ? 「ねえねえ、あなた、坂井くんだっけ? ちょっと待って」  知季が夏陽子に呼びとめられたのは、拷問のような二時間からようやく解放されたあと、陵たちとふらふらシャワーを浴びにむかっていたときだった。 「渡したいものがあるの。帰りの支度がすんだらロビーに来てくれる?」 「はあ」  陵やレイジの視線を意識しながら、知季は極力、興味なげにうなずいた。  渡したいもの?  けれど着替えのあいだじゅう、知季はそのことばかり考えていて無言だったから、本当はただならぬ興味を抱いているのは見え見えだっただろう。  三人で黙々と着替えをすませ、小学生たちのキンキン声が響くロッカールームをあとにする。どこかぎくしゃくとした雰囲気のまま、レイジは迎えにきていた父親のもとへ去り、陵も陵で「先に行ってる」と早々に一階の〈クロスティーニ〉へむかっていった。 〈クロスティーニ〉は、壁一面のガラス窓からあけぼの湾の臨める喫茶店だ。送迎当番の母親は大抵ここで読書でもしながら二人を待っている。  一人残された知季は、香水臭いシンクロママたちがひしめくロビーで夏陽子を待った。 「おまたせ」  二十分ほどで現れた夏陽子は、たばねていた髪をおろしてきれいにセットし、メイクも直して赤い唇をつやつやさせていた。  放課後の練習でくたくたになった中学生を待たせても化粧の手はぬかない。ここだ、この女の信用ならないのはこういうところだ、と知季ははっきりわかった気がしたけれど、口にはださずにそっけなく言った。 「渡したいものって、なんですか」  夏陽子はよく使いこまれたヌメ革のバッグから、クリップでとじた数枚のレポート用紙をとりだした。 「これよ」  受けとって見るなり、知季は絶句した。 「なんですか、これ」 「毎朝の自主トレメニュー」 「だれの」 「すっとぼけないで」 「そんな……冗談」  到底、正気とは思えなかった。夏陽子の作った自主トレメニューは半端じゃない。消化にやたら時間のかかるフランス料理みたいで、フルコースをまともにこなしたら二時間はかかるだろう。それを毎朝、やれという。 「自主トレって、自主的にやるから自主トレなんじゃないですか」 「だって言わなきゃやらないじゃない、あなたたち日本の子は」 「やってるよ、ときどきは」 「ときどきならだれでもやってるのよ、どんな平凡な選手でも。非凡な選手はつねに非凡なメニューをこなしてるわ」 「どうせぼくは平凡です」 「知ってるわ。去年の中学校選抜の関東大会では十二人中十位。全国大会への出場さえかなわなかった。小学生のときのジュニアオリンピックでもめだった活躍はなく、大会の記録にも人の記憶にも残らず終わっている。平凡以下かもしれないわね」  知季はむっとして夏陽子をにらんだ。化粧で武装したその美しい顔は、憎らしいことにしっかりアイラインまで入れていた。 「で、コーチは平凡以下のぼくに自主トレをして非凡な選手になれって言うんですか」 「そのとおり。でもこの際だから確認しとくけど、あなたの考える非凡ってどういうの?」 「それは……日本選手権で優勝、とか」  日本選手権で優勝。あまりにもだいそれたその響きに、知季は言った先から気弱な薄笑いを浮かべた。  けれど夏陽子は笑い返すどころか、大まじめに言ってのけたのだ。 「ケツの穴の小さい男ね」 「え」 「私たちがめざすのは、オリンピックよ」  翌日の日曜日、朝の陽射しに色めく世田谷区内の路上には、飼い犬のチクワをつれて走る知季の姿があった。  チクワは六年前の雨の日、弘也が拾ってきた捨て犬だ。濡《ぬ》れた毛をふいて温め、冷蔵庫にあったチクワをあげたら、その哀れな小犬は喜んで飛びついた。あげればあげるほど、いくらでも食べた。よっぽどチクワが好きなんだな、と弘也が「チクワ」と命名したのだが、あとから思うとあれはたんに腹をすかせていただけだったのだろう。冷蔵庫にあったのがチーズなら「チーズ」と、かまぼこならば「かまぼこ」と命名されていたはずだ。運命ってその程度のものかもしれない、と知季はチクワを見るたびしみじみとした思いに駆られる。  凍てつく早朝の住宅街は人気も少なく、まだ不透明の薄靄《うすもや》に包まれているものの、ときおりすれちがう人々は皆、かたわらを猛スピードですりぬけていく知季とチクワに驚きの目をむけた。  チクワはふさふさの尾をふりまわし、ミルク色の巨体をゆすって喜んでいる。いつも弘也に散歩を押しつけている知季がめずらしく外につれだしてくれ、しかもふだんよりずっと長い距離、速い速度で走らせてくれるのだ。綱をにぎる知季の息がどんなにあがっていようと、その全身がどんなに汗ばんでいようと、そんなのチクワには関係がない。  じっとりと湿った知季のトレーニングウエア。そのポケットには昨日、夏陽子に渡されたメニューが収まっていた。  自分はなぜこんなことをしてるのか。  なぜあんな女の言いなりになってるのか。  わからずにただ走る。チクワに引きずられるように前を行く知季の頭には、昨日、あれから夏陽子に突きつけられた言葉がぐるぐると渦を描いていた。 「悪いことは言わない、ドブにでも落ちたと思って、あきらめて私の言うことをききなさい。まずは毎朝のジョギングから。犬がいるなら一緒に最低一時間は走ること。日常のどんなことでもトレーニングになりえることを忘れないように。家の中ではもちろん靴下なんてはいてないわよね? 飛込みは裸足でするスポーツよ、日頃から裸足の感覚を研ぎすまさないでどうするの?」  一時間のジョギングを終えると、早くもへとへとの知季は部屋へもどり、汗でべとついた上着を脱ぎすてた。休む間もなく、Tシャツ一枚でストレッチ運動を開始。足首から脚、腕、肩、首……と全身の筋肉を隈《くま》なく伸ばしていく。夏陽子に二重関節と指摘された知季の体はたしかによくしなる。 「まずは基本中の基本、基礎体力よ。いい? 飛込みの試合はインターバルが多いし、サッカーやバスケに比べると体力的には一見楽そうに見えるけど、あの長時間にわたる試合で最後まで神経のかよった演技をするためには、人並みはずれた筋力や集中力、そして精神力が必要だわ。それらすべての土台になるのは結局、基礎体力だと私は思ってる」  ストレッチの次は、筋力トレーニング。中学生の知季はまだ体ができあがっていないため、マシンを用いた本格的な筋トレは行っていない。しかし、今後の素地となる最低限の筋力はつけておくべきだと夏陽子は言う。  腹筋と背筋、そして腕立てふせ。それぞれ各五十回ずつを一セットとして三度ずつ。つまりは百五十回ずつ。どこが最低限だよ、と知季はゼイゼイ息を乱しながら思う。 「それから、何度も言うけどボディ・アライメントの徹底。毎朝毎晩、鏡で自分の姿勢を確認しなさい。肩は力んでいないか。お腹はでていないか。お尻《しり》は締まっているか。いい入水をするには最後の瞬間までその姿勢を維持しなきゃならないのよ。そしてその姿勢を維持するには、やはりそれ相応の筋力とパワーが必要なの」  幾度もインターバルをはさみつつようやく筋トレを終えたところで、知季はべったりと床に伏し、動けなくなった。それでも夏陽子のメニューはまだまだ彼を解放しようとしない。  逆立ちをしたまま三十秒の静止×十回。 「プラットフォームで逆立ちをする第六群の演技、日本人は苦手な選手が多いわよね。原因はあきらかに練習不足よ。いい、逆立ちに必要な筋肉は、逆立ちによってしか鍛えられないの。毎日、死ぬほど逆立ちをしなさい。暇さえあれば逆立ち、学校でも隙を見て逆立ち、逆立ち男と後ろ指をさされたっていいじゃない。飛込みはメンタルな競技だから、みんなが苦手とする種目に自信がつけば、それは必ず試合での余裕につながるわ」  知季は余力をふりしぼって身を起こし、がくがくする両手を床について足を蹴《け》りあげた。下半身が重く持ちあがり、ふらつきながらも爪先が天井へ近づいていく。が、まだ筋トレの疲れを引きずる腕には全身を支える力がなく……。  ばたん、と知季は前のめりに倒れて額を床に打ちつけた。  痛い。苦しい。目がまわる。ああ、気持ちわりぃ! 「ねえ、飛込みの選手に必要な資質ってなんだと思う? プロポーションのよさ、優れた脚力に筋力、瞬発力、リズム感、強い精神力に表現力……いくらでもあるけど、一番大切なのは柔軟性だと私は思ってるの。世界のトップを見れば一目|瞭然《りようぜん》だわ。彼らの体はとてもやわらかい。そのやわらかさが演技に美しさと安定感を与えている。柔軟性に関して言えば、あなたは彼らに負けない資質を生まれもっているのよ。そしてそれ以上に……いいわ、これはまた今度にしましょう」  開け放たれた窓から吹きこんでくる風が、汗まみれの肌にひんやりと心地よい。舞いあがる青いカーテンのむこうでは、さらに青い空がきれぎれの薄い雲をたなびかせている。  こうして見ると青空はダイビングプールに似ている、と知季はふいに思った。  四角い枠に囲まれた青。  ぼくはプール以外の世界でもつねに何かに囲まれている……。 「ひとつだけ約束するわ。あなたは確実に伸びる。磨けば磨くほどに上達し、苦しめば苦しむだけ大きな選手になる。もちろんそれは楽なことじゃない。毎朝の自主トレと放課後の練習、そしてあなたには学校の勉強もある。でもね、あなたはがんばったぶんだけ確実にその手応えをつかむことができるの。それは今まで味わったことがないほどリアルで、気持ちがよくて、そしてわかりやすい手応えのはずよ。この生ぬるい国でほかにそんなものを感じられることがある?」  学校でも家でもそれなりに楽しくて、でもなんとなくいつも窮屈でやっぱり枠に囲まれている気がして、しかもそれはものすごく小さいみみっちい枠だから、中にいる自分までもが小さくみみっちく思えて、悲しくなる。  はっきりしない息苦しさだとか、正体不明の憂鬱《ゆううつ》だとか。  それに比べて水の中ではすべてがクリアによく見える。 「頂点をめざしなさい。あなたはそれができる子よ。うんと高いところまで上りつめていくのよ」  高いところまで? 「そう。ずっと上へ」  上へ。 「そこにはあなたにしか見ることのできない風景があるわ」  風景。  ぼくは枠を越えられる——? 「おいトモ、電話」  突然、頭の外から現実の声がして、知季はハッと我に返った。  部屋の戸口に目をやると、半開きの扉から弘也が顔をのぞかせている。  このところ川釣りに凝っている弘也は、今日もこれからどこかの川へ行くのだろう。分厚い紺のダウンジャケットをひっかけながら、「早く、早く」とコードレスフォンを持ちあげている。 「未羽?」 「いや、A組の浩隆《ひろたか》」  知季はほっとし、あちこち痛む体を起こして電話を受けとった。 「もしもし、浩隆?」 「あ、トモ。おまえさ、今日、暇? 石井《いしい》んちにみんなで集まろうって話してんだけど」 「んーっと……それが、今日は午後から陸トレがあって……」  今までの自分なら、迷った末に練習をサボり、浩隆たちと遊びに行っていただろう。  そう思いながらも知季は言った。 「ごめん、だから行けない」 「また飛込みか。じゃあいいよ、ほかのやつ誘うから」 「ごめんな、また今度……」  言い終える前に電話は切れていた。  ツー、ツー、ツー。  冷たい機械音にしばし耳をかたむけていた知季は、やがてその視線をゆっくりと、受話器をにぎる左手から右手へと移していった。  汗で湿った右手には、くしゃくしゃになった夏陽子のメニューがにぎられている。  逆立ち三十秒を十回。続いてジャンプを五十回。最後に整理体操。手首と爪先を中心に全身を入念にもみほぐす。  知季はコードレスフォンを手放し、静かに続きを再開した。 [#改ページ]   3…DEAR FRIENDS  来る日も来る日も五時に起床して二時間の自主トレをこなし、家の中では裸足で歩きまわり、空きスペースを見つけてはせっせと逆立ちし、飛込みの練習も休まなくなった知季に対する周囲の反応はまちまちだった。 「どうせやるならとことんやれ」  と父親は応援し、 「でも再来年は受験よ、勉強はいいのかしら」  と母親は心配し、 「飛込みもいいけど、あんまり未羽をさびしがらせんなよ」  と弘也は釘《くぎ》をさし、 「トモくんがどんどん遠くなっちゃう気がする」  と未羽は声を湿らせ、 「どうせトモは忙しいんだろ」  と中学の友達は知季を遊びに誘わなくなり、皆がそうして遠のいていく中で、チクワだけが日に日に知季へなついていった。  これでいいのか。  今どきこんなスポコンでいいのか。  ときおり不安に駆られながらも知季がそれを続けていたのは、たしかに夏陽子の言うとおり、努力すればするだけの成果を実感することができたからだ。  他人にはわからない微妙な筋肉の変化や、体力の増幅。  空中演技における全身のしなりかた。  逆立ちのバランス感。  自分の体が変わりつつあるのを、知季は単純におもしろいと思った。これまで味わったことのないリアルな手応えがそこにはあった。おまけに、夏陽子がMDCの専任コーチになってからというもの、知季の飛込みは技術的にもあきらかに伸びていたのだ。  夏陽子のコーチングは摩訶《まか》不思議だった。水から上がった知季たちに対し、彼女は決して多くを語らない。たった一か所の指摘。一言のアドバイス。しかし、それがじつに具体的で的を射ているのである。 「タックルを締めるのが遅すぎる! もっと早く、回転に入った瞬間にしっかり両手でひざを抱えこみなさい。落下中に締めようとすると遠心力に阻《はば》まれるし、タイミングが狂えばそのぶんフォームも乱れるわ」 「踏みきりが微妙にズレてるわよ。あと〇・五秒早めに腕をふりあげてみて」 「助走中、視線をあと三センチ持ちあげて」  夏陽子の助言には曖昧《あいまい》さのかけらもない。肩を五ミリ下げろだとか、あごを一センチ上げろだとか、その指示はあくまでも明瞭《めいりよう》だ。それが決して当て推量ではないことは、その指示に従うことで着実に演技がよくなっていくことでわかる。  自分の演技を見ることのできない知季たちにも、いい演技と悪い演技、成功と失敗くらいは判断できるのだ。失敗をするとおかしな体勢で入水することになるから、必ず体を水に打ちつける。腕や背中や尻《しり》や太股《ふともも》、どこかに痛みが走るのである。  夏陽子の指導を受けていくにつれ、知季が練習中に痛みを感じる回数は激減した。帰りのロッカールームで鬱血《うつけつ》した皮膚をさすることも少なくなった。 「自主トレのおかげで筋力がついたぶん、回転にスピードが加わったのがわかる?」  自主トレのことなど忘れたような顔をしていた夏陽子が、練習のあと、ひさびさに知季へ声をかけてきたのは、例のメニューを渡されてから六週間目のことだった。 「回転にスピードが加わったぶん、入水姿勢を整えるのに余裕ができたのがわかる? ただ漠然と体の変化を感じるだけじゃなく、意識的にそれを活《い》かそうとしてる? 私はべつにあなたを体力もりもりの筋肉マンにしたいわけじゃないのよ。大切なのは、自主トレの成果をどれだけ飛込みで活かせるかってこと。二回半の入水に余裕ができたなら、次の目標はおのずと決まってくるわよね」 「次の目標?」 「三回半よ」  三回半——。  知季は大きく息を吸いこんだ。今のところ二回半がやっとの知季に三回半を求めるのは、まだ四肢もないおたまじゃくしにカエル跳びを要求するに等しい。 「むちゃだよ、そんな……中学生で三回半もまわる選手なんて見たことないよ。高校生だってそんなにいないんだから」  はなから不可能と決めつける知季に、しかし夏陽子は鋭く切り返した。 「三回半をまわる中学生がいないのは、FINA(国際水泳連盟)のルールがその可能性を狭めているせいだと私は思っているわ」 「FINAのルール?」 「中学生以下はジュニアの大会で十メートルの台から飛んではいけない。知っているでしょう?」 「それは、まあ……」  成長期の体への悪影響を憂慮してのことか、FINAは数年前からジュニア大会において中学生以下の選手が十メートルの台から飛ぶことを禁じている。そのため、練習では将来にそなえて十メートルの台を使っている知季たちも、試合となると五メートルか七・五メートルの台しか用いることができないのだ。 「十メートルと七・五メートル。このちがいは雲泥の差よ。落下距離が二・五メートル伸びればどれだけ入水に余裕ができるかわからない。つまり、七・五メートルでは不可能だった技も十メートルなら可能になるってこと。私は十メートルからなら中学生にも三回半が可能だと思ってるわ」 「そんな……いくら滞空時間が延びたって、三回半なんてだれにでもまわれるもんじゃないよ。だいたいさ、もしも十メートルからの三回半に成功したとしたって、試合で飛べなきゃ意味ないじゃん」 「意味のある試合もあるんだけどな」  気になるふくみ笑いを浮かべながらも、夏陽子はいったん、話を切りあげた。 「ま、いいわ。この件はまた出張のあとにでも話しましょ」 「出張?」 「大事な用事ができてね、今夜、青森へ発つことになったの。次第によっては長引くかもしれないけど、私がもどるまでは富士谷コーチのもとで練習していてちょうだい」 「はあ」 「ま、とっておきのおみやげを期待していてよ」 「おみやげ?」 「あなたのライバルよ」  いつもながら夏陽子は謎めいたセリフを残して消え、翌日から知季は富士谷コーチのもとで基本種目のおさらいをすることになったのだが、夏陽子のいないプールはかかしのいない田んぼのようで、いまひとつインパクトに欠けていた。ダーツ投げの名手のようにスパッと弱点を衝く夏陽子の声がないと、なんとなく練習にも気合いが入らない。  ある日|忽然《こつぜん》と姿を現し、いきなりコーチになって無理難題を押しつけ、知季がやる気になったところで、なぜだか青森へ去っていく。やっていることはめちゃくちゃだが、それでもやはり彼女の存在感は知季も認めないわけにいかなかった。当然、陵やレイジも認めているものと思いこんでいた。  トモはのんきでおめでたいよなあ、とよく弘也に言われるけれど、たしかに知季にはそういうところがある。どこか肝心なところがぽっかりぬけていて、落ちて初めてその穴の深さを知る。  知季が自分の鈍感さを思い知ったのは、三月の終わり。夏陽子が青森に発った五日後のことだった。  知季の中学校は春休み中で、けれど午後の風はまだ冬休みのように冷たく、知季はその午後、厚手のダッフルコートをはおって練習場へと自転車を走らせた。その日は辰巳水泳場が団体貸出日のため、ミズキスポーツクラブで陸トレを行うことになっていたのだ。  ミズキスポーツクラブは、知季の家から自転車で十五分ほどの距離にある。水色に赤のストライプがほどこされたカラフルな外壁の四階建て。一階には喫茶店とミズキのスポーツ用品売り場があり、二階はテニスコート、三階は会員制のスポーツジムで、四階がMDC専用のトレーニングルームとなっている。  創設者の元会長は当初、この二、三階にダイビングプールを構え、一館まるごとMDC専用の施設とするつもりでいたのだが、それではあまりにも採算が合わないと役員たちの猛反対を受け、やむなくプールをあきらめたらしい。もともとこの近辺には要一の通う桜木高校もあるため、夏期はそこのダイビングプールを借り、冬期は辰巳水泳場を利用することになった。  代わりに陸トレ設備の充実に力をそそいだおかげで、現在、四階のトレーニングルームにはマット、トランポリン、陸上板、スパッティング用の器材などが一式そろっている。飛込みのさかんな国のコーチが来日した際、だれもが口をそろえて「日本に足りないのはダイビングプールではなく、陸トレの設備だ」と指摘する現状を思うと、知季たちは恵まれた環境にあると言える。  が、しかしだいたいにおいてダイバーたちは皆、単調で成果の測りにくい陸トレが嫌いだ。とくに小学生は練習をサボりがちで、つねにはしゃぎ声のエコーしている辰巳水泳場に比べると、ここはいつもがらんと静まり返っていた。  この日も、午後一時からの練習に集まったのはわずか十数人。夏陽子はまだ出張からもどらず、知季たちは小学生担当の大島の指示に従っていた。  時間に正確な富士谷コーチがめずらしく遅れて顔をだしたのは、練習開始から小一時間もしたころだろうか。 「みんなに話したいことがある。全員、視聴覚室に集まってくれ」  いつも渋い富士谷コーチの顔に、この日はさらに深い眉間《みけん》のしわまで刻まれていて、知季はこの時点ですでにいやな予感を覚えていた。  暗幕を開けていてもどこか薄暗い視聴覚室は、トレーニングルームと同じ四階の角にある。本来はビデオなどを用いて飛込みの研究をするために設けられた部屋だが、機械に弱い富士谷コーチはもっぱらミーティングに利用していた。  この日も、陸トレに参加していた全員がパイプ椅子に腰かけたのを確認すると、富士谷コーチはおもむろに話を切りだした。 「じつは今日、うちに通う生徒の親御さんから電話をいただいた。もったいぶった言いまわしは好かんので率直に言うが、早い話、麻木コーチが特定の生徒にのみ偏《かたよ》った指導をしているとの苦情だったんだ」  どきん、と知季の胸がはねあがった。とっさに斜めうしろのレイジと陵をふりかえると、二人は同時に床へ目をそらした。 「正直、驚いたよ。私の目に映るかぎりでは、麻木コーチの指導に偏りがあるとは思えんかったからな。ここにいるだれかの目にはそう映ったのかもしれんが、それならそれで親御さんなどわずらわせずに、今、この場で言ってほしい」  まちがいない。「特定の生徒」とは自分のことだ。そしてクレームをつけたとしたら、夏陽子から直接的な指導を受けているレイジか陵としか考えられない。知季はそう確信し、くっと唇を噛《か》みしめた。  思えばこの数週間、レイジはいまいち元気がなく、陵も帰りの車中で寝てばかりいた。けれどもまさか二人がそんな不満を抱いていたなんて……。 「指導がどうのってより、信頼関係の問題じゃないんですか」  息苦しい室内に涼しげな声がして、だれもがその主に注目した。要一だ。 「あのコーチがうちに来てからもうずいぶんになるけど、おれたち、まだなんもあの人のこと知りませんよね。経歴だとか飛込み歴だとか、ふつうはそれくらい紹介するでしょ」 「通常はな。しかし今回は麻木コーチの希望もあって、あえて話さなかった」 「話しちゃやばいわけでもあるんですか」 「いや、とんでもない。彼女の身元は私が保証する」 「だったら教えてくださいよ。あの人、一体何者ですか?」 「それは……」 「おれたちには知る権利があるでしょう。飛込みはリスキーなスポーツだし、悪くすれば命の危険もある。自分の命を預けるコーチの素性《すじよう》も教えてもらえないんですか」  理路整然と訴える要一も、実際はそれほど小難《こむずか》しいことを考えているわけではなく、たんに夏陽子という女に興味を抱いているだけなのは小さな子供でもわかった。ただ一人、父親である富士谷コーチだけがいつもすべてをまともに受けとめてしまう。 「知る権利、か。たしかに一理あるな」  富士谷コーチは潔さを自らに課すようにして言った。 「わかった。麻木コーチについて知りたいことがあるなら、私が責任を持って答えよう。彼女にはあとから説明する」  すると要一はたちまち興味をなくしたように黙りこみ、視聴覚室には気まずい沈黙のみが残されるのだった。 「じゃあ、あの人のキャリアを教えてください」  と、その沈黙をやぶったのは陵だった。 「麻木夏陽子なんて選手きいたことないけど、やっぱ元ダイバーなんですか?」 「ああ、ジュニアのころはなかなか有望な選手だったようだよ。君らが名前を知らないのは、彼女がアメリカにいたせいだろう」 「アメリカ?」 「いわゆる帰国子女というやつだ。六歳から十四歳までの八年間をニューヨークですごしている」 「ニューヨーク……」  それまで上の空だった小学生たちが一斉に瞳《ひとみ》を輝かせた。「アメリカ」だとか「ニューヨーク」だとか「ホワイトハウス」だとか、なぜだか小学生はそういう単語が好きだ。 「彼女が飛込みをはじめたのは八歳のころ。日本に帰ってからいったんは飛込みから離れたものの、高校卒業後、再び飛込みを学びに今度は単身でアメリカへ渡っている。ただし、今度は選手としてではなく、飛込みの指導を学ぶコーチの卵として、だ。なんのためだと思う?」  小首をかしげる一同に、富士谷コーチは「ここだよ」と足下の床を目で示した。 「いつか日本にもどり、ここ、MDCのコーチに就任するためだ」 「うちのコーチになるため?」 「ああ。どうせだったら日本にはない技術を身につけてきたい、とな。六年間、むこうのクラブで飛込みのコーチングを学んできた」 「でも、なんでわざわざそんな……」 「こんな弱小クラブのためになぜそこまでするのか、か? 他人の心はだれにもわからん。が、麻木コーチはおじいさんの遺志を継ぎたかったのだろうと私は思っている。日本飛込み界の発展を願ってやまなかった会長の遺志を、な」 「会長?」 「麻木コーチは、亡くなられたミズキ会長のお孫さんだよ」 「!」  狭い室内が一気にざわめいた。  麻木夏陽子が元ミズキ会長の孫娘。この突然の告白に、「社長令嬢」だの「御曹司《おんぞうし》」だのの単語も好きな小学生たちはますます色めきたっている。知季ももちろん驚いたけれど、しかし反面、心のどこかで妙に納得しているところもあった。  新任のわりに堂々としたあの態度。だれにも気がねしない自己流の指導法。言いたいことを言うお嬢さま気質。そして、行きたくなったらすぐ青森にも行く——。  MDC創設者の孫娘、となればすべてに合点がいく。 「アメリカで飛込みを学んできたとはいえ、たしかに麻木コーチはまだ指導者になって日も浅い。年齢的にも若いし、行き届かない点もあるだろう。が、しかし飛込みに関する彼女の勘は私が保証するよ。このMDCを立てなおそうという熱意も本物だ。第一、彼女はここを閉鎖しようとしていた役員たちを説き伏せ、条件つきだがクラブを存続させてくれた恩人でもある。どうかもうしばらく長い目で見てやってくれんかな」  富士谷コーチはそうして話を締めくくろうとしたけれど、しかし、要一はわずかな空隙《くうげき》を見逃さなかった。 「クラブ存続の条件、って?」  いやなところをつつかれた。ふりむいた富士谷コーチの顔はあきらかにそう語っていた。 「なんなんですか、その条件って」 「それは……」  再び言葉に窮した富士谷コーチは、もはや言いのがれはできないと腹をくくったようだ。 「オリンピックだよ」  と、改まって一同を見まわしながら告げた。 「来年のシドニー五輪にうちのクラブから日本代表選手を送りだす。それが、MDC存続の条件だ」 「……」  ほの暗い室内は水を打ったように静まり返り、もはやどんなざわめきもきこえてこなかった。小学生たちは当然「オリンピック」や「チャンピオン」などの単語も大好きだが、それは彼らの身に決してふりかからない遠い言葉のはずだった。中学生の知季たちにとっても、高校生の要一にとっても、それは遠いはずだった。  来年のオリンピックまで、あと約一年半。  四月か五月に開かれるであろう代表選考会までは、一年強。  その選考会でシドニー行きの切符を手に入れる選手を、夏陽子は自ら育てるつもりなのか。私たちがめざすのはオリンピックよ。あのセリフはただのリップサービスではなかったのか……。  視聴覚室からトレーニングルームへもどってからも、知季はまるで練習に身が入らなかった。むちゃだ、と思った。要一ならばその実力と努力でいつかはオリンピックの代表権をつかみとるかもしれない。しかし、一年後なんてあまりにも急すぎる。 「不可能だなんて思うなよ」  マットワークの最中、いつのまにかウレタンマットの上でひざを抱えこんでいた知季に、背後から要一の声がした。 「はじめるまえからあきらめるのはやめろ。可能性はだれにでもある。おれにも、おまえにも、な」 「でも、そんな……無理だよ、来年なんて」 「たしかに、これがほかの競技だったら無理かもしれないな。でも、おれたちがやってるのは選手層の薄いマイナーなスポーツだ。だからこそだれにでもチャンスがあるんだよ」  知季の横に腰を下ろし、要一が早口でまくしたてる。要一がこんなにも興奮している姿を見るのは初めてだった。 「いいか、飛込みのシングルでオリンピックに出場できるのは、男女あわせて三人がいいとこだ。そのうちの一人は兵庫の寺本健一郎《てらもとけんいちろう》に決定だろう。あいつは強い、海外のトップとも互角に戦える日本のエースだ。でも、残りの二人になろうとするやつらはみんながどっこいどっこいだ。だれがチャンスをつかんだっておかしくない。それに飛込みは博打《ばくち》性の高い競技だしな、選考会当日の調子次第でいくらでも雲行きが変わってくる」 「でも、ぼくはそのどっこいどっこいの中にも入ってないんだし」 「だったら入れ、急いで入れ、まだ間に合う。日本には飛込みをはじめて三年でオリンピックにでた選手もいるんだぞ。六年目のおまえが代表になって何がおかしい?」  要一は強気に言いきり、「それに」と言いそえた。 「それに、おまえにはあの女コーチもいる」  それも気が重い理由のひとつだった。ついさっき、その女コーチが知季に偏《かたよ》った指導をしているとのクレームを知ったばかりじゃないか……。  要一が立ち去ると、知季は物憂い瞳でトレーニングルームを見まわした。中学校の体育館よりもひとまわり小さな板張りのスペース。レイジと陵は片隅の陸上板で踏みきりの練習をしている。  六年前、知季とほぼ同時期に飛込みをはじめたレイジと、その半年後に入ってきた陵。あのころはまだ大勢の仲間がいて、みんなでわいわい楽しくて、でも、水に体を打ちつけるたびに一人減り、学校の成績が下がるごとに二人減り……結局、最後に残った同級生は三人きりだった。  三人いたから、これまで続けてこれたのに。張りあったり、励ましあったりしながらやってきたのに。  そう思うと無性にさびしくて、やりきれない。迷った末、知季は思いきって二人のもとへむかった。 「あのさ」  知季を前にしたレイジは気まずそうに下をむき、陵は挑戦的にあごを突きあげた。 「前に見せたよね、自主トレのメニュー。おれはただあれを麻木コーチにもらって、勝手にやれって言われてるだけだから。べつに特別扱いとかされてるわけじゃなくって、それだけなんだよ」 「それだけ、かよ」  低くうなるような陵の声がした。 「トモにとってはそれだけでも、自主トレのメニューさえもらってないおれたちにとっては、それだけじゃないんだよ」 「……」 「トモはいつもそうだ。去年の関東大会でも、おれやレイジのほうがトモより成績よかったんだ。でも富士谷コーチはいつもトモのほうを気にかけてたし、要一くんだってトモばっかりをかわいがる」 「そんな……」 「でもおれはずっと待ってたんだよね。いつかばりばりの、見る目のあるコーチが現れて、トモよりおれを選んでくれる。みんなの気づかないおれの才能を引きだしてくれる。そんなのをずっと待ってたんだけどさ、やっと現れたばりばりのコーチは、やっぱりおれよりトモを選ぶんだ」  目を赤くした陵の声が震えた。いばり屋の、プライドの高い陵がここまで自分をさらけだすなんて……。  どうすればいいかわからず立ちつくす知季に、「もういいよ、トモ」と、レイジが言った。 「もういいから、トモは麻木コーチとオリンピックをめざしなよ」  それはたしかに応援の言葉だった。なのに実際は突き放していた。レイジの冷たい瞳《ひとみ》が、ゆがんだ唇が、トモがここにいるとつらいからどこかへ行ってくれ、と訴えていた。 「わかった。でもおれ……」  でもおれ、オリンピックにでたいなんて、一度も言ったことないんだけど。  だれかにきいてほしかった言葉を呑《の》みこんで、知季は二人の前から離れた。そのままトレーニングルームからも離れ、家に帰るとすぐさまベッドにもぐりこんだ。  その翌日、まだほの暗い早朝の坂井家の庭には、なかなか現れないジョギング仲間を呼ぶチクワの鳴き声がいつまでも響いていた。 [#改ページ]   4…CONCRETE DRAGON  四月。桜が花開く季節になると、知季は毎年、思いだす。もう何年も前の春、元飛込み選手だった富士谷コーチの奥さんがぽつりと口にした一言だ。 「桜の木って、へんな形よねえ」  奥さんは満開の桜を見上げてそう言った。あれはたぶん辰巳の駅から水泳場へ続く道なりの桜並木だ。知季も要一もレイジも陵も、だれもが薄桃色の花吹雪を頭にかぶっていた。 「くねくね曲がったり、よじれたり、とんでもない方向にねじまがっていたりして、桜の木って本当にへんな形」  だれもが桜の花に見入っている中で、奥さんだけがただ一人、その変形した幹や枝に目を奪われていた。 「でも、考えてみるとそんなおかしなエネルギーを秘めた桜だからこそ、こんなにもたくさんのきれいな花を咲かせることができるのかもしれないわね。桜自身にもコントロールできない爆発的なエネルギー。それが幹の中でうずまいて、こんなにも曲がったり、よじれたりしてしまうのかも」  当時まだ幼かった知季にはぴんとこなかったけれど、この言葉は年を経るにつれてふしぎな重みを帯びてきた。  美しい花と、その下のゆがんだ木。  その鮮烈な対比。  スポーツの世界でも、美しい花を咲かせようとすればするほどに、どこかにゆがみが生じるものかもしれない、と知季はこのごろ思う。そのゆがみは選手自身の体だとか、心だとか、周囲との人間関係だとかに反映し、何かを損なわせる。何かを奪い去る。  テレビで活躍する世界の一流選手たち。彼らもあの満面の笑顔や、りりしいまなざしや、まばゆい白い歯の下に、激しくよじれた大木を秘めているのだろうか。  切れば、暗い血が噴《ふ》きだすのだろうか。 「トモくん、トモくん」  咲き乱れる桜に魅せられていた知季のかたわらから甘い声がした。  ぼんやり目をむけると、花見に合わせてか薄桃色のジャケットをはおった未羽の不安げな瞳がある。 「あ、ごめん」 「よかった。トモくん、目を開けたまま寝ちゃったのかと思った」 「いや、ちょっとぼうっとしてて……」  ばつの悪さを薄笑いでごまかしながら、仰向《あおむ》けに横たえていた身を起こす。芝に広げたビニールシートの上では、未羽の持参したカラフルなお弁当が、まるで小さな花畑のようにいい匂いをふりまいていた。 「ね、お弁当にしようよ」 「うん」  一日だけ。春休みに一日だけでいいから、と誘われて訪れた昼下がりの代々木公園。花見のシーズンのせいか、園内には至るところにカップルの姿があり、桜のない場所にまで甘い香りが満ちている。あの寒々しいトレーニングルームに比べたら、ここはまるで竜宮城みたいだ、と知季はとなりで堂々とキスをしているカップルを横目に思う。それとも、もしかしたらこれこそが世の中の本来の姿で、自分がこれまで深い海の底にいただけかもしれないけど。 「見て見て、ママと一緒に作ったんだよ。前にトモくんにアンケートした好きなおかずのベストテン」  深い海からちょっと顔を上げれば、そこには気軽な楽しみがころころと転がっている。 「玉子焼き。唐揚げ。ウインナー。スパゲティ。ハンバーグ。チャーハン。焼きそば。おにぎり。クリームコロッケ。ポテトフライ。ね?」  未羽が小分けのタッパーを開けるたび、そこには色鮮やかなおかずが現れる。まるでままごとのようだけど、これってやっぱり幸せなんだろうな、と知季は思う。 「作りながらママが言ってた。トモくんって素直な男の子ね、って。このベストテンを見ればわかるって」  未羽の話をききながら、知季は赤いボックスのハンバーグに割り箸《ばし》を伸ばした。とたん、 「当たった!」  未羽が張りあげた声にびくっとして、あやうくそれを落としそうになった。 「やっぱり一番はハンバーグだった。未羽、ママと賭《か》けてたんだ。ママはおにぎりって言ってたけど、未羽は絶対ハンバーグだって」 「そ、そう……」  多少疲れるけど、それもこれも幸せの代償なのだと知季は自分に言いきかせる。何度も、何度も言いきかせているにもかかわらず、ときおり風がぱらりとビニールシートをめくりあげる瞬間などに、ふと思う。今ごろMDCのみんなはどうしているだろう、と。  知季が飛込みの練習をサボりはじめて、今日で三日がすぎていた。  どうしても練習に行く気になれない理由を、知季は自分自身にすらうまく説明できない。レイジや陵にこれ以上傷つけられたくないのか、レイジや陵をこれ以上傷つけたくないのか、あるいは、自分がすでに十分傷ついていることを二人に見せつけてやりたいのか。 「それでB組の斉藤《さいとう》くんがね、美術の深見先生に放課後、美術室に来いって呼びだされて、なんだろうと思ってオダちゃんとかジンくんとかと一緒に行ったら、おれがモデルにしたいのは斉藤だけだ! って深見先生、真っ赤になって怒鳴ったらしくてね……」  浮かない横顔へ未羽が語りかけてくる学校の話題は、知季にとって何億光年も彼方《かなた》の星の話のようだ。 「ごめん。トモくん、楽しくない?」 「あ、ううん」  楽しいよ、と言いながらふりむくと、いつ見ても不安げな未羽と目が合った。春の陽を浴びた天然ウエーブの髪。いつも眠たげに垂れているまぶた。桜色の唇は花びらのようにしっとりと頼りなく、触れたらはらりとはがれそうだ。  それでも決して触れることのない自分。となりのカップルみたいなことは決してできない自分に妙な引け目を感じつつ、知季は「あのさ」といきなり口早にしゃべりだした。 「あのさ、未羽は自分が囲われてるような気がすることない?」 「囲われてる?」 「うん、なんていうのかな……うまく言えないけど、自分がすごく狭くて浅いところにいるような感じ。もっと広いとこが見たくてテレビとかつけると、えらそうな人たちが映ってるんだけど、そいつらもすごく狭くて浅いところにいるみたいな。一生、こんな囲いの中で生きていくのかって、ときどき絶望的になる。でもおれ、飛込みでならそれを越えられる気がしたんだ」  そう。夏陽子の言うように、知季だって上をめざしたかった。頂点からの景色を見てみたかった。けれどもそれはあくまでも漠然とした上であり、頂点であり、雲の上にそびえる峰のようなイメージであり、そこにオリンピックだとか代表選手権だとかの現実が入りこんでくると、なんだかたちまち息苦しくなってくる。 「おれは、ただそれを越えたかっただけなんだけど……」  それきり知季は口を閉ざした。だれかに言ってみたかったのに、言ったら言ったでひどくつまらない話をしてしまった気がして、急に恥ずかしさがよせてきた。  けれども未羽は息もせず知季を見つめてから、ふいに花のつぼみでもふくらませるように笑みを広げて、言ったのだ。 「いいよ」 「え」 「未羽、そんなふうに飛込みやってるトモくん、すごくいいと思うよ」 「……そうかな」 「うん。未羽たちには越えられないもの、トモくんだったらきっと越えられるよ。未羽たちもそんなトモくんを見て、何かを越えた気分になるんだと思う」  髪に、肩に、頬に、薄桃の花びらをのせて、一言一言、しっかり織りこんで押し花にでもするように伝えようとする未羽を、知季もこのとき初めて、すごくいいと思った。ほめられてうれしかったせいかもしれない。でも愛しいと思った。  もしもこのとき、照れてうつむくだけじゃなく、そんな思いを素直に伝えていたらどうなっていただろう……と、知季はこののち、何度も思い返すことになる。  この日の別れぎわ、 「飛込み、応援してるけど、でもたまには気分転換に遊ぼうね。そうだ、今度ヒロくんとか山ちゃんとかとボーリングに行くんだけど、トモくんも行こうよ」  未羽から誘われたときも、素直に「うん」と答えていれば何かがちがっていたのかもしれないと、何度も何度も思い返すことになる。  素直、と未羽のママにほめられたお弁当のおかずベストテン。  あれは、飛込みの練習で疲れていた知季が弘也に頼んで書かせた、弘也の好物たちだった。 「おかえり」  この日、知季が家に帰ると父親の久志《ひさし》が一人、リビングのパソコンで飽くなき挑戦をくりひろげていた。  インターネットをはじめる、と衝動的に買ったノート型パソコン。なのに久志はインターネットに接続する前にウィンドウズのトランプゲームにはまってしまい、暇さえあればこうして画面にかじりついている。彼がトランプゲームに飽きるときは、パソコンに飽きるときでもあるだろう。 「まだ四時か」  久志が充血した目を壁の時計にむけ、続いて知季にむけた。 「今日も早いな」 「うん。母さんは?」 「町内会の集まり。ヒロは友達と宴会。で、おまえはデートか」 「えっ」  知季はぎょっと両目を見開いた。すると久志もぎょっとして、 「なんだ、図星かよ。参ったな」 「……」 「しかしおまえもアレだな、嘘が中途半端だよな、すぐボロだすし」  耳まで赤くなった知季を横目に、久志がなにくわぬ顔でトランプゲームを再開する。 「あのさ」と、知季はその背中にむかって白状した。「ぼく、昨日もおとといも練習、サボったんだよね」 「ああ、知ってる」 「え、なんで」 「ゆうべ、富士谷先生から電話があったから」  一気に気がぬけた。 「じゃあなに、父さんも母さんも、知っててとぼけてたわけ?」 「とぼけてたんじゃないよ。おまえが相談もちかけてきたら、両手を広げて受けとめてやろうと待ちかまえてたんだ。でもなんも言ってこないから、いじけてゲームなんかしてるわけよ」  望遠鏡の設計、などというかたい仕事をしているわりに、久志にはどこか子供じみた茶目っ気がある。 「そう。それは……悪かったね」 「うん、うん」  とうなずきながらもその目は真剣にトランプを追っていて、どこまで話をきいているのかわからない。  おかげで知季はかえって話がしやすかった。 「あのさ、おれ、このごろ思うんだけど……」 「うん、うん」 「飛込みなんてしてても、ろくなことないよね」 「うん、うん」 「かえって災難ばっかだよ。毎日毎日、怖くて痛い思いしてくたくたになってさ、朝は自主トレでゆっくり寝てられないし、太るからって腹いっぱいに飯も食えないし、ほんとはおれ、プリンとか甘いもん大好きなんだよね、でもいつも我慢してる。底の甘いところさ、カラメルって言うの? ほんとはあそこが一番うまいのに、太りそうだからチクワにゆずってる。身をけずるような努力じゃん。なのに、そうしていろいろ努力しまくったあげく、クラブメイトにはうらまれて、学校の友達もどんどん離れてって、流行にも取り残されて時代おくれのダサイ男になってくんだよ」 「うん、うん」 「なんだこりゃあ、って感じだよ」 「うん……あ、また負けた」  久志が額に手をやった。一秒。二秒。三秒。四秒目で気をとりなおし、背後の知季をふりかえる。 「で、なんだおまえ、クラブの仲間にうらまれたのか」  一応、話はきいていたらしい。しかも、知季が泣きそうになったカラメルのくだりではなく、なんとなくもらした本質のほうを見事にとらえている。 「友達だと思ってたのに、せちがらいよね」  知季がぼやくと、「友達だからだろ」と低い声が返ってきた。 「え」 「友達だから先こされるとくやしいし、うらめしいし、嫉妬《しつと》もするんだよ。赤の他人ならどうってこともないさ」  友達だから、か。  知季がその意味を噛《か》みしめていると、久志が「あ」と思いだしたように言った。 「富士谷先生んとこの要一くんも、その友達の一人か?」 「まさか。要一くんがぼくに嫉妬するわけないじゃん」 「だよな。いや、さっきその要一くんから電話があったからさ」 「要一くんが?」 「五時に白山公園で待ってるって」 「五時?」  要一はときどきこうして相手の都合もかまわず、ごく一方的に呼びだしをかけてくる。そして知季が遅れたり行けなかったりすると、男同士の約束をやぶった極悪非道のおたんこなすのようにののしるのだ。  知季は腕時計に目をやった。四時二十分。まだ間に合う。 「ちょっと行ってくる」  脱いだばかりのパーカをはおりなおし、そのポケットに自転車のキーを放りこむと、知季はダッシュで茜《あかね》色に暮れはじめた夕空の下に飛びだしていった。  知季の家から白山公園までは、自転車を飛ばして三十分。中学の友達なら電車やバスを使う距離でも、知季は体を使うほうを選ぶ。これもトレーニングの一環と思っているからだ。汗ばんだ肌に夕暮れの涼風を受けながら、これだけ練習をサボっていてもなお、まだ無意識に飛込みのことを考えている自分に気がついて、知季は一人苦笑した。  こうして要一に呼びだされたのも、きっとサボりのせいだろう。三日も無断欠席をしたのは初めてだから、何があったのか気にしているのかもしれないし、怒っているのかもしれない。どちらにしろ遅くなれば要一の機嫌が悪くなるのは確実だから、知季は全力で自転車を走らせたけど、途中、一度だけペダルをこぐ足を休めた。  桜木高校のわきを通りかかったときだ。  要一の通う永大付属桜木高校。その敷地内にあるダイビングプールの場所は、探さずとも、高々とそびえる飛込み台が教えてくれる。都心から離れたのどかな町並みにいかついシルエットを刻むそれは、わきの小道から見上げるとまるで珍種の怪獣のようだ。  小学二年生の夏、初めてこの小道を通りかかったときの衝撃を知季は忘れない。  五メートル、七・五メートル、十メートル——三つの頭をブロック塀のむこうから忽然《こつぜん》と現した怪獣は、付近に高い建物がないせいもあり、今にものしかかってきそうな迫力で知季を圧倒した。なんだこりゃあ、と思った。ウルトラマンに挑む竜の怪獣みたいだ。コンクリート・ドラゴンだ!  倒れそうなほど頭をのけぞらせ、知季は大きく息を吸いこんだ。ふくらんだ胸には「わくわく」がつまっていた。と、やがてそのドラゴンに奇妙な影が加わった。  人だ。一等高いドラゴンの頭上に少年が現れたのだ。  八月の太陽に焦がされた肌と、長い手足を持つ少年。顔は遠くてよく見えないが、すらりと締まった体はまるで、この怪獣を制したウルトラマンのように堂々としている。ドラゴンを手なずけた少年。知季が見とれていると、なんと突然、その体がひらりと宙に躍った。  落ちた!  それからの知季は夢中だった。自転車を投げだし、校舎の裏門をくぐり、ドラゴンをめざして全力で走った。あんなところから落ちたら死んでしまう、早く助けて救急車を呼ばなくては、と思ったのである。  けれど知季が中庭や部室のわきをすりぬけ、ようやくドラゴンのもとにたどりついたとき、その目前に開けたのはまばゆい陽射しにきらめくプールと、正面から見るとさらに大きなドラゴンの全貌《ぜんぼう》と、その頭上から次々にダイブする子供たちの活気あふれる練習風景だった。  下にプールがあったのか……。  ブロック塀に隠されていた世界を目のあたりにして、知季はへなりと脱力した。と同時に、ドラゴンの頭から飛ぶ風変わりな遊びに心|惹《ひ》かれた。 「おい、おまえ」  プールサイドに立ちつくす知季の背中に、だれかの声が突きささったのは、そのときだ。  ふりむくと、焼けた肌を水滴で光らせた少年がとがった視線をむけていた。  長い手足。均整のとれた体型。そしてなによりこの黒さ。さっきドラゴンの上にいた子だ、とすぐにわかった。 「あ……あの、ぼく……」  無断で入ってきたのを責められるのでは……と後ずさりした知季に、しかし少年は怒ったような顔のまま言った。 「おまえ、飛びたいのか?」 「え?」 「飛込みがしたいなら、おれがMDCに入れてやる」  飛込み、なんて言葉さえ、知季はまだ知らなかったのだ。けれども子供なりに肝心なところはかぎつけ、「うん」と即座にうなずいた。 「ぼく、それに入る。入ってあれにのる」  知季の無邪気な返答に、仏頂面の少年は初めて白い歯をのぞかせた。 「後悔するぞ」 「え」 「いっぱい後悔して強くなれよ」  と、笑いながら彼——六年前の要一は言ったのだ。  飛込みをやりたい。突然、熱にでも浮かされたようにそんなことを言いだした息子に対して、知季の両親はめずらしく慎重だった。まずはMDCに電話をして入会の案内を受け、続いて富士谷コーチからくわしい話をきくためにミズキスポーツクラブへ足を運んだ。桜木高校にも見学におもむいた。結果、飛込みは彼らが案じていたほど危険なスポーツではなく、注意さえ怠《おこた》らなければ大きな事故に至ることは稀《まれ》であることがわかって、安心したらしい。冬場は桜木高校のプールが使えず、辰巳まで通わなければならないのがネックになったものの、最終的には両親そろって賛成してくれた。 「いいか、トモ。今だから言うが、おれは子供のころ、天才的な運動神経をさずかった神童とうたわれた男だった。が、なんでもやりたがりだったおれは、ひとつの競技に的をしぼれず、やたらあれこれ手をだしてその能力を浪費しちまった。ま、器用貧乏ってやつだな。おまえとヒロを見てると、おまえはおれの運動神経を、ヒロはなんでもやりたがりの性分を受けついだように思えてならないんだよ。そりゃあおまえの人生だから、おまえの好きに使えばいいけどさ、でも何かひとつを最後までやりぬくってのもいいかもしれないぞ」  と、これが飛込みをはじめる知季に父親が贈ったはなむけの言葉だった。  だからというわけではないけれど、知季はMDCに入会するなり、それまで通っていた少年サッカーと英語教室をやめた。夢中で集めていたモンスターカードにも、そのころ好きだった女の子にも興味をなくした。  当時をふりかえりながら桜木高校の飛込み台をあおいでいると、本当にここが運命の分かれ道だったんだなあ、としみじみ思えてくる。あれ以降の六年間、知季だって弘也のようになんでもやりたがりの毎日を送ることもできたのだ。けれどこのコンクリート・ドラゴンに魅せられ、吸いよせられ、ぺろりと呑《の》みこまれてぬけだせなくなってしまった。水の世界の恐怖と快感にはまりこんでしまった。  やばい、時間に遅れる。  自転車をこぐ足にターボをかけながら、知季はなぜ自分が練習に行きたくなかったのか少しだけわかった気がした。  仲間の言葉にいじけたり、いやになったりしながらも、あの青々としたダイビングプールを目の前にしたら、自分は飛込み台へ上らずにはいられなくなる。好意と悪意をなみなみとたたえる水の世界に身を投じずにはいられなくなる。  なんだかんだ言いながらも結局は飛込みが好きで、水から離れられない。そんな自分がくやしかったのかもしれない。 「事情はレイジからきいたよ。いやみなことして悪かったって、レイジも反省してる。陵はまだすねてるみたいだけど、あいつのことだから放っときゃそのうちもとにもどるだろ。しかしおまえもさ、小学生じゃねえんだから、こんなことでサボるなよ、練習」  代々木公園の十分の一もない白山公園は、桜ではなく若芽の緑を夕映えに照らしていた。  今日は公園に縁がある日だと思いつつ石門をくぐった知季は、木陰のベンチに浅く腰かけた要一を見つけた。 「たった三人なんだよね」  知季は要一と肩を並べ、黒いフードつきパーカを脱いでかたわらへよせた。それからおもむろにつぶやいた。 「三人だけなんだよ、今、東京で飛込みやってる十三歳の男って。ぼくとレイジと陵だけ。それって、すごいことじゃん。同い年なんて何万人もいるのに、その中でぼくたち三人だけがまだ飛込みを続けてる。十メートルの台から水に体を打ちつける痛みを知ってる……」  失神したまま水に呑まれる苦しさ。みるみる腫《は》れていく肌。飛びこむたびに強まる耳の奥の痛み。つきまとう腰痛——。 「だから特別と思ってたんだ。性格はみんなバラバラだし、陵なんかとくに飛込み以外でつきあいたいとは思わないけど、でもやっぱりぼくたちは特別な何かでつながってると思ってた。だから、その二人にそっぽむかれてよけいにショックだったんだけど……」  知季の語尾が鈍り、「でも」と再び強まった。 「でも、たった三人だから、あいつらもよけいにくやしかったんだろうな。ぼくもこのごろ舞いあがってて、二人の気持ちまで考えてなかったし、そのへんは反省してるよ」 「反省、か」  要一はふふんと鼻を鳴らした。 「甘いな、おまえも」 「甘い?」 「おまえはただ勝っただけだ。麻木夏陽子は陵やレイジよりおまえの飛込みに目をつけた。おまえの素質を買ったんだ。スポーツにはつねにそうした勝ち負けがついてまわる。だれだってそんなの承知でやってんのに、おまえは勝つたびにそうして落ちこむ気か?」 「いや、勝負は勝負だけど、でも仲間の気持ちも……」 「いいか、トモ」  知季の声をさえぎり、要一が瞳《ひとみ》を波立たせる。ふだんはクールな彼がこんな目をするのは飛込みの話をするときだけだ。 「いつかどでかい会場で十万の観衆をわかせたいと思うなら、そばにいる一人や二人のことは忘れろ。いちいち身近な人間に気を配ってたら、十万の観衆をわかせるエネルギーなんか残らないぞ」  陽が完全に沈んだのか、空の紅が夜の群青に侵《おか》されはじめた。織物がほつれるように少しずつ、少しずつ薄らいでいく。  知季は要一の言葉を頭で反芻《はんすう》し、ふっと口もとで微笑した。いちいち身近な人間に気を配っていたら、十万の観衆をわかせるエネルギーなど残らない。そう言いながらも身近な知季のことをこうして気にしている要一がおかしくて、うれしかった。 「ぼくは要一くんみたいにはなれないけど、でも飛込みは続けるよ。レイジや陵とはどうなるかわかんないけど、とにかくがんばってみる」  とにかくがんばる。三日も悩んだ末、知季がだした結論はこんなものだった。  とにかくがんばる。とにかくがんばる。とにかくがんばる。  いかにも単細胞っぽい結論だが、恥じらわずにくりかえせばそれなりの元気はわいてくる。 「ま、とにかくがんばれよ。おまえが飛込みやめたら、おれも張りあいなくなるし」  要一はさらりと言って、左手のダイバーズウオッチに目をむけた。 「なあ、トモ。おまえ、まだ時間あるか?」 「うん、あるけど」 「じゃあマックでも行こうぜ、おれがおごってやる。ちょっと話があるんだよ」  言いながら要一はすでに立ちあがり、門へと足をむけている。  駅前のマックには陸トレの帰りにときどきよっていた。ふだんは間食を控えている知季も、レイジや陵が一緒のときだけはついつい気がゆるみ、禁断のハンバーガーに手をだしてしまったりする。知季は要一の話より、要一でもときにはハンバーガーを食べたりするのだろうか、という点のほうが気になった。  二人して自転車を走らせ、学生たちで混みあう店内に足を踏み入れる。  要一がカウンターで「コーヒー」とだけ注文したとき、知季はかすかな敗北感を覚えた。「ご一緒にポテトはいかがですか」の誘惑をきっぱり拒んだときには、かなりの自己嫌悪も感じた。飛込み仲間たちが要一を「ドライ」だの「つきあいにくい」だのと敬遠するわけは、意外とこうした日常の積みかさねにあるのかもしれない。  しかし、チープな油の匂いが染みついたテーブルで要一がはじめた話のほうは、思いのほか興味深いものだった。 「おまえ、麻木夏陽子がここんとこ顔をださない理由、知ってるか?」 「青森に行ったんでしょ」 「だから、その目的だよ」 「さあ。大事な仕事とか言ってたけど……。あ、でもなんか、おみやげ持って帰るとか言ってたな」 「おみやげ?」 「ライバルがおみやげよ、とかなんとか」  ライバルがおみやげ。口にだすと滑稽《こつけい》に響くが、要一は笑わずに考えこんでいる。 「要一くん、なんか知ってるの?」  知季が尋ねると、要一は「ここだけの話だぞ」とひじをせりだし、 「津軽《つがる》の沖津《おきつ》だ」  と一言、厳《おごそ》かにささやいた。 「ツガルの……オキツ?」 「ああ、おれの勘が当たってれば、麻木夏陽子がおまえのライバルに仕立てあげようとしてんのはその男だよ。沖津|飛沫《しぶき》。十六歳。幻の高校生ダイバーだ」  幻の高校生ダイバー、沖津飛沫——。  知季がこの名を耳にするのは、正真正銘、このときが初めてだった。にもかかわらず、この名はただ風変わりだからというだけではなく、もっと本能的に知季のどこかを刺激した。要一がこのききなれぬ名を口にした瞬間、知季はなぜだか自分の中に熱いものを感じて、アイスティーの紙コップを両手でぎゅっとにぎりしめたのだ。  紙のボディがへこんで、掌にリアルな氷の感触が伝わってくる。  要一の語る未来のライバルの話をききながら、知季は指先が麻痺《まひ》するまでずっと、そうして薄紙を隔《へだ》てた氷を抱いていた。 [#改ページ]   5…ENTER SHIBUKI 「低いな。水も浅くて、薬のへんな味がする」  それが、生まれて初めて飛込み台からダイブした沖津飛沫が、水から上がった直後になにくわぬ顔でもらした感想だった。  出会いはごく月並みな日常の中だった。  夕暮れの辰巳水泳場。小学生から老年まで、あらゆる年齢層で混みあうロッカールーム。見慣れすぎて色褪《いろあ》せたそんな光景の中で、知季は初めて飛沫の姿を目にとめた。  飛沫は端《はな》から異彩を放っていた。誇張ではなく、本当に全身から何か特殊な色味を発していたのだ。だからこそ、それが沖津飛沫だとは知らなかったにもかかわらず、知季は長いこと彼から目を離すことができなかった。  その強烈な第一印象をどう表せばいいのだろう。  がっしりとした強靱《きようじん》そうな大男。でも、そこいらにいる大学生の巨体とはどこかがちがう。よく日焼けしたココア色の肌。でも、プールで焼いた知季たちの肌とは何かがちがう。きりりと太い一文字の眉《まゆ》に、少しくぼんだ色濃い瞳《ひとみ》。野性的という表現が最も似合いそうだが、サロンやメイクで人工的に作られたタレントたちの野性とは見るからにちがう。  一言で言うと、飛沫は最初から「本物」の貫禄《かんろく》をふりまいていた。  その本物臭をかぎつけたのは知季だけではないらしく、ボタンをはずすのももどかしそうに服を脱ぎ、その黒い肌をあらわにしていく飛沫の一挙一動を、いつしかロッカールームのだれもが目のすみで追っていた。水球の選手たちは彼が水球の選手ではないことを、競泳の選手たちは彼が競泳の選手ではないことを心で願っていただろう。  あまり注目に慣れていないらしい飛沫が居心地悪そうに着替えを終え、足早にロッカールームをあとにすると、知季の足は自然とその背中を追っていた。  シャワーは浴びずに通りすぎ、天井からのライトに一瞬、目のくらむプールサイドへと足を踏み入れる。  むんとした空気と、鼻をつく薬品臭。  飛沫は眉をよせて立ちどまり、不審そうに場内を見渡した。  野生の熊が初めて動物園を訪れたような顔だった。ものめずらしくはあっても断じて愉快な光景ではないし、ましてこんなところの住人になるなど冗談じゃない。敵意を宿したその目が奥の飛込み台をとらえたとき、はたから見ていた知季がぎくっとするほど、飛沫は病的な頬のひきつらせかたをした。 「沖津くん!」  夕凪《ゆうなぎ》のあけぼの湾を背にした窓辺から、やけに軽やかな夏陽子の声がしたのは、そのときだ。  飛沫よりも早く、知季のほうがはじかれたようにふりむいた。  沖津くん? 「早く、こっちよ。みんなに紹介するわ」  二週間も姿をくらませておきながら、夏陽子はまるで辰巳の主のような笑顔で高々と右手をふりあげている。  なるほど。と、知季はあらためて飛沫を見上げ、今さらながら納得した。  たしかに、言われてみるとこの男はまぎれもなく、沖津飛沫だ。  そして六日前、要一にきいた話が本当だとしたら、幻の高校生ダイバー沖津飛沫は今、生まれて初めてダイビングプールというものを目のあたりにしたことになる。 「もうかなり昔の話だけど、昭和の初めかなんかに、天才ダイバーと騒がれた沖津|白波《しらは》って男がいたらしいんだ」  と、あの日、あれから要一は語りだしたのだ。 「映像も写真も残ってないけど、そうとう強烈な選手だったみたいでさ。それまでだれも見たことがなかったような飛込みで一躍脚光を浴びたらしい。活躍した期間は短かったけど、だからいまだに伝説の選手として語りつがれてる。津軽の沖津飛沫は、その天才の孫だよ。そしてその孫に目をつけたのがミズキの元会長……麻木夏陽子のじいさんだった」  飛沫を一流のダイバーとして育てたい。その一心で元ミズキ会長は生前、何度も青森まで足を運んでいたのだと要一は言う。が、飛沫は頑《かたく》なにそれを拒みつづけ、ミズキ元会長は無念のうちに他界した。 「で、今度は孫娘の登場ってやつだ。じいさんの無念をはらしたい、なんとか沖津飛沫をMDCに引っぱりこみたいって、あの女、そうとう沖津に入れこんでるぜ」 「ええっと……天才ダイバーがいて、その天才の孫がいて、ミズキの会長は孫のほうをMDCで育てたかったけど断られたまま死んじゃって、今度はその孫娘が挑戦、か」  じいさんと孫がややこしくからみあう。  が、話の要点は至ってシンプルだ。 「つまり、MDCはじいさんから孫の代まで沖津飛沫にほれこんでるってわけだ」  要一が短くまとめると、知季にもようやくぴんときた。 「それってよっぽどすごいってことだよね、その沖津飛沫が」 「実際にやつが飛びこむのを見た人間はほとんどいないんだけどな。でも死んだミズキ会長は沖津飛沫の飛込みを見て、この少年はいつか白波を超えるって絶賛したらしいぜ」 「へえ。やっぱりすごいんじゃん」 「感心してる場合かよ。そのすごい孫を麻木夏陽子はおまえのライバルにするって言ったんだろ?」 「それは……あの人によくあるはったりだよ。だいたい、その沖津飛沫がそんなにすごいなら、おれより要一くんのライバルになるはずじゃない」  知季の切り返しを、要一は冷めたコーヒーをすすってききながした。 「ま、とにかくまずは沖津飛沫の飛込みをこの目で見ることだな。実際のレベルを知らなきゃ対策も練れない。なにしろデータがまったくないんだからさ」 「え、試合のデータも残ってないの?」 「やつは試合にでたことないんだよ」 「ええっ」 「ついでに言っとくと、やつは生まれてこのかた、一度もプールで飛んだことがない」  知季はあっけにとられて絶句した。混乱した頭はやがてひとつの疑問に行きついた。 「じゃ、どこで飛ぶの?」  素朴な問いがざわついた店内にぽっかり浮きあがる。要一はプラットフォームの上で風がやむのを待つような目をして沈黙し、やがて小さくつぶやいた。 「津軽といえば、なんだ?」 「は?」 「にぶちんが。津軽といえば、日本海。ざぶんと荒波がよせる〈東映〉みたいな海だろが」 「というと?」 「沖津飛沫は海でしか飛ばない。それが、ミズキ会長の誘いを断りつづけた最大の理由だ」  沖津飛沫は海でしか飛ばない——。  知季を仰天させたこの話が事実だとすると、麻木夏陽子は海でしか飛ばない飛沫をプールに引きずりこむことに成功したことになる。  しかも、彼女の祖父がどう手を尽くしてもなしえなかったことを、わずか二週間でやりとげてしまったことになるのだ。 「今日からMDCの一員になった沖津飛沫くんよ。昨日、青森から上京してきたばかりで、四月からは桜木高校に通う予定なの。桜木高校はじまって以来の飛込み推薦転入生。つまりはそれだけの逸材《いつざい》ってことよ」  練習前、かつてないほどの上機嫌で夏陽子が飛沫を紹介したとき、プールサイドに集まっていたクラブメイトたちは皆、好奇心まるだしの視線をその大きな新入りに投げかけた。これが噂の……と、だれもが興味津々だったのである。  富士谷コーチは内密にしていたにもかかわらず、たぶんお調子者の大島コーチあたりが口をすべらせたのだろう。「すごいダイバーがやってくる」との噂はすでにクラブ内を駆けめぐり、二巡目あたりに入っていた。二巡目ともなるとさすがに様々な尾鰭《おひれ》がついてくる。あることないこと騒ぎたて、さんざん楽しんだ彼らが最終的に行きついたのは、「海でしか飛びこまず」「魚としか遊ばず」「海草を腰に巻きつけ」「サメを素手《すで》で倒し」「イルカの背にのってホラ貝を吹く」、海の大将というか、あらくれ者というか、わんぱくぼうずのような沖津飛沫像だった。  ふつう、ここまで期待がつのると、実物の登場はかえって失望を招きかねない。悪くすると反感を買うこともある。にもかかわらず、飛沫がその精悍《せいかん》な容貌《ようぼう》を一同の前に現したとき、そこにはどんな不平の声も上がらなかった。 「よろしく」  飛沫のそっけない挨拶《あいさつ》。にこりともしない無骨《ぶこつ》さ。コーチの指示も待たずに準備体操をはじめる態度の悪さ。実物の彼は前評判に一歩も引けをとらず、なるほど、たしかにこれは沖津飛沫だ、とだれもが了解したのである。 「やっぱし無口」 「さすが海の男」 「魚類にしか心を開かないんだよ」  準備体操のあいだもクラブメイトたちの忍び声が収まることはなかった。中でも人一倍、粘っこい目つきで飛沫の一挙一動を追っていたのが、レイジと陵だ。  三日連続でクラブをサボった翌日、練習に復帰した知季はレイジから「待ってたよ」と迎えられたけれど、まだ完全にしこりが消えたわけではなく、陵に至ってはいまだに口もきこうとしない。  しかたがない、気長にやるしかないよなと思いつつ、知季はそばにいた幸也のひじをつついた。 「ねえサッチン、あの人、これまで海でしか飛ばなかったって、ほんとかな」  シンクロ教室のサブプールを見やったまま、幸也はどうでもよさそうにうなずいた。 「それはほんとじゃないの。クジラに食われたことがあるってのはデマだと思うけど」 「そうかなあ」 「だって、お腹ん中をくすぐってたら、くしゃみと一緒に飛びだしてきたなんて……」 「でもさ、だったらなんで今ごろ、プールで飛ぶ気になったんだろ」  故ミズキ会長の誘いを断りつづけてきた飛沫が、なぜ夏陽子の誘いを受けたのか?  津軽の海を離れる気になったのはなぜか?  準備体操もおざなりに考えこむ知季のわきを夏陽子が通りすぎ、片隅で一人柔軟体操をはじめていた飛沫の前で足を止めた。  飛沫がかったるそうな目つきでそのスリムな体を見上げる。  気がつくとイチ、ニ、イチ、ニ……の声がやみ、だれもが二人に注目していた。 「ねえ、みんなあなたを見てるわよ」  低く響く夏陽子の声。彼女はあきらかに周囲の目や耳を意識している。 「こんなこと海ではなかったでしょう。みんながあなたを見ている。あなたの飛込みに期待してる。ねえ、どんな感じ? 肌の内側がざわざわしない?」 「ざわざわ?」 「そう。血管がね、満ち潮みたいになって血が暴れだすの。体が熱くなって、力がみなぎって、今の自分ならなんでもできそうな気がする。本当はわかるでしょ、そういうの。嫌いじゃないんでしょ、注目されたり目立ったり、みんなの前でかっこいいとこ見せたりするの、本当はあなた大好きで……」  最後まできかずに飛沫は立ちあがった。 「ざわざわってより、むかむかするんだよ。あんたといると」 「で、どうする気?」 「帰る」 「どこに? 津軽? 約束はどうするの」  ロッカールームをめざしていた飛沫の足が止まった。 「約束じゃない。契約だ」  憎しみの瞳《ひとみ》で夏陽子をふりかえる。  夏陽子はその憎しみごとすくいとるように、小麦色の腕を持ちあげた。すらりと伸びた指先は背後にそびえる飛込み台を示している。 「台へ上りなさい。私に契約を守らせたいなら、まずはあそこから飛ぶことよ」  立ちつくす飛沫の背後から、「飛べよ」とそのとき、もうひとつの声がした。  飛沫がふりむくと、そこには要一を中心とした桜木高校飛込み部一同の姿があった。 「桜木高校はじまって以来の飛込み推薦転入生、あんたをみんなで歓迎に来た。ま、歓迎するかどうかはあんたの飛込み次第だけどな」  赤いタオルを肩にかけた要一は、軽く体をそらし、暴れ牛とむきあう闘牛士のように飛沫をにらんでいる。 「あんた、だれだ?」  飛沫が素朴な問いを投げると、そのしかつめらしい顔ににんまりと不敵な笑みが広がった。 「富士谷要一。こんなこと言うと人間性にケチがつきそうだけど、飛込み界でおれを知らないやつがいたらモグリだよ。ま、人間性で飛んでるわけじゃないからいいけどな」  挑発的な物言いに、飛沫は一瞬、面食らった様子で黙りこんだ。が、すぐににんまりと笑いかえして言った。 「悪いな、おれ、モグリなんだ」 「ああ、津軽の海にもぐってたんだろ」  飛沫の表情がほぐれたのを見て、要一はくりかえした。 「台に上れよ。あんたのダイブを見たい」  それはそこにいた全員の思いを代表した声だった。知季もレイジも陵も、桜木高校飛込み部の面々も、まだ飛込み歴の浅いMDCの小学生たちも、だれもが飛沫の演技をひとめ見たいと待ちわびている。  彼らのそんな思いを確認するように、飛沫はゆっくりと全員の顔をながめまわし、それからおもむろに踵《きびす》を返した。  飛込み台のほうへ。  十メートル。最も高いその台上に立ったとき、経験の浅いダイバーは恐怖心から足下のプールをひどく小さく感じるものだという。理屈ではありえないとわかっていながらも、自分の体が二十五メートル四方の枠外に墜落するのではないかとの妄想にとりつかれるのだ。  飛沫が十メートルの台に姿を現したとき、知季はべつの意味でプールを小さく感じた。幅二メートルはある頑丈なプラットフォームも、飛沫がのるとまるで薄っぺらいスプリングボードのようだ。海のイメージがつきまとうせいかもしれないが、水上の飛沫は息を呑《の》むほどに大きく、勇壮で、そして自然だった。かえって陸上での彼が不自然に思えてくるほどに、飛沫には水がよく似合った。  が、海でどれだけ見事な飛込みをしていたにしろ、屋内の舞台で彼がどこまで通用するかはまだまだ未知数だ。ダイバーとしては破格に大きいその体は、観衆の注意を引きつけるのに役立ちはしても、実際の演技では動きが鈍重に見られがちで、回転技でも小まわりがきかずマイナスに働くものなのだ。  プラットフォームの先で両足をそろえてから、飛沫が飛びだすまでにはかなりの時間を要した。MDCのコーチもクラブメイトたちも、桜木高校の飛込み部一同も、だれもが微動だにせず台上の飛沫をあおいでいた。 「まだ慣れていないのよ」と、なかなか踏みださない彼を弁護するように夏陽子がつぶやく。「平らなプラットフォームにも、コンクリートの感触にも、ジャスト十メートルの高さにも、空をさえぎる屋根にも、観客にも、あの子は慣れていない」  言われてみればたしかに、飛沫にとってはすべて今日、初めて出会ったものである。 「あの子はこれまで凹凸の激しい岩の上から飛んでいた。切り立つ断崖《だんがい》や、絶壁の岩山……だれかが定規で測った高さなどひとつもなかったわ。そこにはいつも風が吹いていて、鳥の鳴き声が響いて、空はきっと青々と……」  夏陽子の声がとぎれた、そのとき。  突如、台上の影が消え、津軽の風や鳥や空を頭に描きつつ一同がハッと見上げると、飛沫はすでに高々と宙を舞っていた。  遠い北国の荒波にもまれた肉体が、人工のライトを浴びて勇ましい黒鳥のシルエットを描きだす。  その瞬発力。  踏みきりの強さ。  ジャンプの高さ。  なんだこりゃあ、と知季は仰天した。水を正面にして飛びだし、体を後方に回転させる前逆宙返り。ひとつまちがえばプラットフォームに後頭部を打ちつける恐れのあるこの種目で、かつてこんなにも大胆な踏みきりをしたダイバーがいただろうか?  頂点まで伸びあがったフォームが沈んだ瞬間にはじまる蝦《えび》型の二回半でも、飛沫の演技は見ている者たちの度肝をぬいた。巨体は不利だとの定説をくつがえし、飛沫は巨体ならではの豪快な回転を見せつけたのだ。長身で恰幅《かつぷく》のいいダイバーがその体型をフルに活かすと、平凡な二回半でも息を呑むほどに力強く、スケールの大きなものとなる。飛沫の演技はまさにその証明だった。  とどめは最後の入水である。  まるでクジラが尾をふりあげたかのようだったのだ。  飛込み競技では、通常、水しぶきを上げないノー・スプラッシュ入水が理想とされている。演技後の水面は静かであればあるほど望ましい。が、しかし飛沫の入水はだれもがぎょっとするほどに、やかましかった。飛沫はバシンと氷河を蹴散《けち》らすような音を立て、そのあとに噴水さながらのスプラッシュを吹きあげたのだ。静寂を乱し、水面を荒らし、プールサイドにまで白いしぶきを散らして。  豪快な空中演技と、破天荒な入水。  あまりのことにだれもが言葉を失った。  屋内プールを嵐が駆けぬけたようだった。 「ねえ、もしもこれが試合なら、今の演技にジャッジは何点つけると思う?」  何事もなかったようにプールから上がり、濡《ぬ》れた肌をセージでぬぐう飛沫を遠目に、最初に口を開いたのは夏陽子だった。 「私なら、点数カードを放りだしてロッカールームへ直行ね。プールサイドのジャッジはたっぷり水しぶきをかぶったはずだから」  言い終えるなり、盛大に両手を打ちならして爆笑する。甲高い声が静寂を裂き、張りつめた空気をゆるませた。それは決して自暴自棄な笑いではなかった。  つまり、夏陽子は飛沫のダイブを気に入ったのだ。 「低いな。水も浅くて、薬のへんな味がする」  あの豪快な演技のあとで飛沫のもらした一言をきいたとき、胸をえぐる敗北感を覚えたのは知季一人ではないはずだ。要一も、レイジも、陵も、新しいライバルが予想以上の強者であったことへのショックを隠そうとしなかった。結果、この日の練習は皆不調で、凡ミスが多く、へんに力んだり気がぬけていたりの連続となった。知季は要一がこんなにも乱れる姿をひさびさに見た。  ひさびさといえばこの帰り、あいかわらず沈黙だらけの車内で、知季はひさびさに陵の声をきいた。 「上には上がいるもんだよな」  まるでひとり言のようだった。しかも、ききようによっては知季へのいやみとも受けとれる。が、知季はそうは受けとらず、本当に世の中、上には上がいるもんだと感慨深く思った。  要一と飛沫。二人の飛込みは今のところどちらが上なのか、そんなことは知季にもわからない。演技の美しさや正確さ、技術の高さでは要一のほうが圧倒的に勝っているだろう。けれど飛沫には要一にはないパワーと個性がある。要一に長年のキャリアがあるとすれば、飛沫には底知れぬ可能性がある。どちらにしても、自分はまだまだ比べものにならないほど下にいるのだ。そう思うと、知季の胸は無力感とともにへんな安堵《あんど》感にひたされた。  窓の外は細い雨。高層ビルのネオンが濡れてにじんで美しくゆがんでいる。最近は半乾きの髪で外へでてもさほど冷たくなくなったから、どうやら知季が水の中にいるあいだにもちゃんと春は訪れているらしい。カーラジオから流れる昔の歌謡曲にうとうとしながら、そういえばぼくはもう中学二年生なんだな、と知季はぼんやり思った。  毎朝の自主トレ。学校。放課後の練習。自主トレ。学校。放課後の練習……。新学期になってからはずっとこのくりかえしで、時計はしょっちゅう見ているわりにカレンダーはめくる余裕もない日々が続いている。飛込みが頭の大半を占めている今、犠牲になるのはつねに勉強と睡眠時間で、知季はこのところ一日中うとうとしている。そういえば最近、連絡のない未羽も犠牲のひとつかもしれない。 「なんでおまえがむかつくか、わかるか?」  睡魔にさらわれかけた知季の耳もとで、そのとき、再び陵の声がした。 「おれがおまえの何に腹を立ててると思う?」  今度のはひとり言じゃない、知季は陵の言う意味を考え、あいまいに首をかたむけた。 「それだ、その小犬みたいな目だ。おれはおまえのその無心そうなところがむかつくんだよ。飛込みが好きで、楽しんで飛んでて、試合の結果は二の次でいい……みたいなさ。そういうスポーツマンらしからぬ態度が気に入らねえんだ」  知季に顔もむけず、窓ガラスをつたう雨だれをにらみながら陵が言う。  何がおかしかったのか、運転席でハンドルをにぎる知季の母親の恵がくっと笑いを噛《か》み殺した。 「スポーツマン……らしからぬ?」 「おまえ、まさかスポーツマンがさわやかだなんて、マジで思ってんじゃねえだろうな。あんなの嘘だよ、大嘘だよ。スポーツマンなんてみんな強欲で、ジコチューで、いつも一番でなきゃ気がすまないんだ。だからみんながライバルに見えるし、嫉妬《しつと》もする。もやもやしたもんをいっぱい抱えてる」  知季は小さくうなずいた。  桜の花と、ゆがんだ木。 「要一くんなんてさ」と、陵は勢いづいてきた。「要一くんなんて小学生のころ、熱があるのに試合に出場して、生まれて初めて負けて、怒って泣いて海パン脱いでダイビングプールに投げ捨てて帰ったんだぜ。何に当たればいいかわかんなくて、つい海パン脱いじゃったんだろうな。今の要一くんじゃ考えらんないけど、おれ、あのとき初めて要一くんのこと好きになったよ」 「うん、おれも憶えてる。あの海パン事件」 「要一くんでも負けるとこうなるんだって、それがわかってほっとしたんだよ。でも、トモにはそれがないじゃん。トモはおれのこと、べつにライバルとも思ってないし、勝っても負けてもどうでもいいって顔してる。そんなやつにだけはおれ、負けたくねえんだよ」  陵は怒り声で言い、「でも」といまいましげにつけたした。 「でも、テレビや漫画じゃ、いつも最後に勝つのはトモみたいな無欲のアホ面なんだよな」  知季は返す言葉につまってうつむいた。闘志が足りない、と責められるのは初めてのことじゃない。似たような文句は夏陽子にもさんざん言われてきた。あなたには気迫が足りないのよ。なにがなんでも勝とうっていう意気込みが! 「ライバルとか、嫉妬とか、闘志とかさ」  陵を家の前で降ろしたあと、二人きりになった車内で知季は恵にぼやいてみた。 「そんなものがなきゃ勝てないなんて、なんか、せちがらいと思わない?」 「さあ、どうかしらね」  恵はくすくす笑っている。 「そんなのなくても勝てるんなら、なくて勝ちたいよね」 「そうね。それが理想的ね」 「でも、それってむかつく?」  知季がきくと、バックミラーに映る恵の笑いじわがさらに深まった。 「いいえ、私からすれば理想的な息子よ」 「ふーん」  知季は急にしらけてため息を吐きだした。母親から理想的な息子などと言われてしまう男は、はたから見ればたしかにむかつくんだろうと、陵の気持ちが少しだけわかった。 [#改ページ]   6…BIG EVENT COMING  飛込みのシーズンである夏の到来を、最初にかぎつけるのは自分の血液だろうと知季は思う。  ふつふつする感じ。赤みが増す感じ。一気に加速する感じ。  苦しい練習の成果をようやく披露するときがきたのだと、血はまるで連絡係のように浮かれはしゃいで体内を駆けめぐる。まあ待てよ、とそれをなだめるのが脳の役目だ。気持ちはわかるが、ちょっと待て。おまえはまだ試合のエントリー種目も決めていない。新しい技を入れるのならもっと練習が必要だし、試合までのコンディション調整にも気を配らなきゃならない。  そうした一人二役の高揚と鎮静の中、年に一度の晴れ舞台へむけて、MDCの練習も次第に加熱していく。  国内大会の場合、知季たち中学生を対象とした主な大会は、中学校選抜とジュニアオリンピックカップだ。実力のあるダイバーは両大会とも出場し、どちらでも好成績を残すため、表彰台に上る顔ぶれはだいたい決まっている。表彰台になど触れたこともない知季は、今年も中学校選抜だけに的をしぼるつもりでいた。  要一ら高校生を対象とした国内大会は、高校総体と国体のジュニアの部。また、日本選手権には年齢制限がなく、エントリー種目が規定の難易度を満たしていればだれでも出場することができる。要一は今年、高校総体と国体、それに日本選手権の三試合に出場する予定だった。  もしも夏陽子があの過激な計画を打ちたてなければ、知季にも要一にも、例年通りの夏がめぐってきたはずなのである。 「ひとつ、みんなに提案があるの」  と、夏陽子がその計画を打ちだしたのは、飛沫をつれて帰京した翌日の午後。スカウト成功の喜びにひたる間もなく、彼女はトレーニングルームで陸トレをしていた知季、レイジ、陵、幸也、要一、そして飛沫の六人を視聴覚室に集め、ただちに次の仕事にかかったのだ。夏陽子はつねに走っている。 「富士谷コーチにきいたわ。私がこの中の一人を特別視してるって話がでてるそうだけど、それってどういう意味かしら。私があなたたちのだれかに特別な指導をしてるってこと? 特別時間をかけてるってこと? 私のコーチングに不満があるのなら、次からはもっと具体的に指摘してちょうだい。あごを五ミリ持ちあげろだとか、〇・五秒早く踏みきれだとか、私がいつも言ってるみたいにね」  クレームの件に関して夏陽子はまったく動じていなかった。自分が元ミズキ会長の孫娘だと知れてしまったことも、この際、どうでもいいらしい。 「それより、もうひとつの話。富士谷コーチがあなたたちに打ちあけたMDC存続の条件について、今日はきちんと話をしておきたいの」  MDCの存続。結局のところ、夏陽子の心を占めているのはこれだけなのだろう。 「どのみちいつかは話す気でいたのよ。よけいなプレッシャーをかけたいわけじゃないけど、MDCを存続させるためにはどうしてもオリンピックの代表権が必要なの。あなたたちのだれかがそれを手に入れなければ、このクラブはなくなってしまう。それが現実だわ」  夏陽子は飾り気のないストレートな思いをぶつけてくる。  その直球を見極め、痛いところへ打ち返したのは要一だった。 「MDC存続のため、か。つまりあんたはMDCのためにおれたちをシドニーへ行かせたいわけだ。いや、それとも死んだじいさんのため? 自分の職を守るため?」  夏陽子は腕を組んでしばし考え、やがてふふんとほほえんだ。 「そうね、MDCのためでもあるし祖父のためでもあるし保身のためでもあるかしら。でも、それがなんなわけ?」 「なにって……」 「じゃあきくけど、富士谷くん、あなたはオリンピックへ行きたいの?」 「そりゃあ、もちろん」 「だれのために?」 「……おれのために」  要一が目を伏せると、夏陽子は「そうよ」とこっくりうなずいた。 「あなたたちにとって大切なのは自分自身の気持ちで、私の気持ちじゃない。シドニーへ行くのがあなたたちなら、そこで得る賞賛も感動も、すべてはあなたたちのものよ。そこを忘れないで。この件についてほかに何か言いたい人は?」 「あの……」と、幸也がおずおず手をあげた。「まさかぼくもシドニーをめざす、とか?」 「まだ五メートルから飛んだこともないあなたが、いきなりオリンピック代表っていうのは難しいわね。あなたにはみんなのサポーター役として一緒にシドニーをめざしてもらいたいと思ってるんだけど、どうかしら」  サポーター。具体的な役割は不明だが、幸也はその響きが気に入ったらしい。にっこり笑ってうなずいた。 「ほかには? なかったら本題に移るわよ」  こうして夏陽子はあの計画を語りだしたのだ。 「本題っていうのはつまり、オリンピックへむけての提案のこと。率直なところ、このままじゃ難しいと思うのよ。飛込みは長年のキャリアがものを言う競技だし、日水連はいちかばちかの大勝負にでるよりも安定した選手を無難《ぶなん》に選びがちだし。いくら富士谷くんが強いといっても、海外での試合経験はまだまだ浅いし、ね。よほどのことがないかぎり、中高生のあなたたちに代表権がまわってくることはないと考えたほうがいいわ」  だから、と夏陽子は猫の瞳《ひとみ》を光らせて言った。 「よほどのことをしてほしいのよ」 「よほどのこと?」 「知季くん、陵くん、レイジくん。あなたたち、今年の中学校選抜を捨てられる?」 「えっ」 「要一くん、あなた今年の国内大会三つ、すべて捨てられる?」 「え」  あまりにも突飛な提案に、知季たちはふいをつかれて絶句した。  毎年の目標である中学校選抜を捨てる?  要一ならば上位入賞まちがいなしの国内三大会を捨てる?  それは彼らに桜のない春を、花火のない夏を、紅葉のない秋を、雪のない冬を送れと言うようなものだった。 「大きな合宿があるのよ、八月に北京で」  しかし、夏陽子にもそれなりの理由があった。 「アジア各国の有望な中高生ダイバーを集めての、二週間にわたる強化合宿。参加人数は男女各三名。そのメンバーを決めるための選考会が、七月末に辰巳で開かれるの」 「七月……」 「日水連は、その六人の中からオリンピック選手を育てる気よ」 「!」  マジかよ、とだれかのつぶやきがもれた。こくっと息を呑《の》む音もした。最後列で居眠りをはじめた飛沫を除くと、知季たちは皆、目の色を変えて夏陽子の話にききいっている。  アジア合同強化合宿——今回、このイベントを提唱し、実現にこぎつけたのは中国の飛込み界だが、アジアの国々が飛込みの向上に力を合わせるのはこれが初めてのことではなかった。各国の飛込み関係者たちは昔から指導法を伝授しあったり、飛込みの交換留学生を送りあったりして交流を深めてきた。そうでもしなければ追いつけないほど、アジアは欧米におくれをとっていたとも言える。  もともと飛込みはスウェーデンに起こり、イギリスで試合の形をなして全世界へ広まった競技である。その檜舞台《ひのきぶたい》でスタイルのいい欧米人と戦うため、アジア人は小柄な体型を活かしたアクロバティックな技を磨き、彼らの〈美〉に対して〈技〉の演技を追求する必要があった。それを見事になしとげ、世界の頂点にまで上りつめたのが中国である。彼らは中国人の肉体的特質を活《い》かした飛込みの研究や、幼少時からの徹底した教育体制によって、一躍世界のトップに躍りでた。その奮闘により「弱いアジア」の固定観念はくずれ、飛込み競技会の表彰台は欧米人だけのものではなくなったのである。中国に続こうとするアジア諸国にとっては願ってもない新時代の幕開けだった。  が、得てして時代は王者に試練を用意する。国家体制の変化やそれにともなう指導力の低下、十四歳以下は五輪に出場できない等の新ルール、アメリカやロシアの猛追——様々な要素が相まって中国飛込み界にかげりが見えはじめた今、ややもすると飛込みは再び欧米選手の独壇場《どくだんじよう》となりかねない。「弱いアジア」のイメージが浸透してからでは遅いのだ。それは国際試合においてジャッジにメンタルな影響を及ぼし、試合を不利に導く悪因となる。アジアは一団となって「強いアジア」を守らねばならない。  今回の合宿開催を中国飛込み界が提唱し、それにアジア諸国がこぞって共鳴した背景には、そのような危機感がひそんでいた。ジュニア選手の育成はどの国にとっても急を要する命題である。 「日水連がめずらしく今回、もろもろの出費を度外視して合宿への参加を表明したのも、まさしく危機感の表れってところでしょうね。やっぱり一時は水泳大国として名をはせたプライドのせいかしら、日本はこれまでアメリカからは貪欲《どんよく》に技術を学ぼうとしながらも、同じアジアの中国に対して背中をむけてきたところがあった」  でも、と夏陽子は吐息まじりに続けた。 「ぶっちゃけ、そんなことも言ってられなくなったのよね。日本は、このままでは完全に世界から置いていかれる。そんなあせりがプライドを上回ったってわけかしら。もちろん、孫《ソン》コーチと日水連との信頼関係も大きく響いてるとは思うけど」 「孫コーチって……あの有名な?」 「ええ、中国の飛込み界をあそこまで引っぱりあげた立役者の一人よ。親日家の彼はここ数年、しばしば来日して日水連とのコミュニケーションを深めてきたの。今回の合同合宿ではその孫コーチが総指揮をとることになっている」 「あの孫コーチが……?」 「ちなみに、日水連はオリンピック代表の選考に関しても、孫コーチにアドバイザーとして協力をあおいでるって話よ」  知季の後ろでパイプ椅子が軋《きし》みを上げた。先刻から要一がそわそわと身じろぎをするたびにこの音が耳につく。毎年、夏休みを利用してアメリカでの短期合宿に参加している要一は、資金や練習環境さえ都合がつくなら中国へ渡りたい、あの孫コーチの直接指導を受けたい、と口癖のようにくりかえしていたのだ。 「合宿メンバーを決める選考会があるって言ったな」 「ええ、六枚の切符をめぐってね」 「その選考会の参加資格は?」  要一が待ちきれず尋ねると、 「まずは中高生のダイバーであること。そしてエントリー種目が一定の難易度を満たしていること。大丈夫、あなたたち五人は全員クリアしてるわ。ただし、選考会が開かれるのは約四か月後の七月二十九日。もうあんまり時間がないのよね」 「七月……」 「中学校選抜の関東大会が近いわ。両試合とも出場するには調整が難しいと思う。なんとしても合宿メンバーに入りたいなら、やっぱり中学校選抜は捨てて選考会一本にしぼるべきね。それに、もしも北京へ行くことになったら、八月の国体にも高校総体にも出場できなくなる。危険な賭《か》けではあるのよ」  そう言いつつ、夏陽子は強気な姿勢をくずさなかった。 「でもね、賭けるだけのことはあると思うの。合宿メンバーの六人に入りさえすれば、自動的に孫コーチにも顔を売ることができる。まだ無名のあなたたちがオリンピック候補にすべりこむには、荒い道だけどこれが一番の近道なのよ。そして来年のオリンピックは、近道でなきゃ間に合わないほど近くまできている」  定例の国内大会を捨てて選考会一本にしぼる。  夏陽子はその決断を一同に迫っている。  しかし、要一はともかく、中学校選抜の全国大会にも出場したことのない知季たちが、日本中の中高生が集まる選考会で六本の指に入ることなどありえるのだろうか? 「選考会まであと四か月。私があなたたちを引っぱりあげる。約束するわ。もちろん、決断するのはあなたたちだけど」  知季はうつむいて暗い足下をながめていた。  レイジと陵は互いの思いを探るように顔を見合わせていた。  要一は身じろぎもせずに夏陽子を見すえていた。  飛沫はすうすうとのんきな寝息を立てていた。  しかしこのとき、だれもがすでに心の中で、選考会への賭けにでる決意をかためていたのである。  要一はオリンピックへの野心のために。  知季、陵、レイジの三人は万にひとつの奇跡のために。  飛沫は夏陽子と交わした契約のために。  ——一九九九年、春。MDCの彼らは翌年のシドニーへむけ、最初の一歩を踏みだそうとしていた。  知季が夏陽子から第二の提案を受けたのは、その日のミーティング終了後だった。 「坂井くん、あなた、去年の中学校選抜は高飛込み一本にしぼって出場してるわね。飛板飛込みはパスしている」  夕闇の迫った視聴覚室に知季と飛沫の二人を残し、あとの四人を陸トレにもどすと、深い眠りから覚めてしきりにあくびをする飛沫を横目に、夏陽子はまず知季に言った。 「なぜ?」  これはなかなか答えづらい質問だった。  今さらのようだが、飛込みには高飛込みと飛板飛込みの二種類がある。五メートル、七・五メートル、十メートルのプラットフォームから飛びこむのが高飛込みで、一メートルと三メートルのスプリングボードから弾力を活かして飛ぶのが飛板飛込みだ。  知季は飛板飛込みが嫌いだった。あのゆらゆらした、足場の定まらないボードの感触が苦手で、どうしてもなじめない。板と相性が悪いのだ。もともとコンクリート・ドラゴンに憧《あこが》れてはじめた飛込みだし、できれば高飛込み一本にしぼって試合にでたい、と中一のときに申しでたところ、中西コーチはそれもひとつの作戦だろうと賛同してくれた。  もともと飛板飛込みと高飛込みは別種の技術を要するものであり、中国ではかなり以前から飛板は飛板、高飛込みは高飛込みのスペシャリストを養成している。選手層の薄い日本では、ひとにぎりの有力選手があれもこれも担うしかないのが現状だが、実際はそうした分担制のほうが練習も効率的に行うことができ、大会でも一試合のみに照準をしぼれるというメリットがある。 「それに、飛板はもっと年をとってからでもいいって、中西コーチが……」  元コーチの言葉をそのまま伝えたところ、夏陽子は意外にもすんなり同意した。 「たしかに、キャリアがものを言う飛板と比べて、高飛込みは体が小さくてバネのある若いうちのほうが有利だわ。あなたが今度の選考会でも高飛込み一本に賭ける気でいるのなら、私もそれに協力する。ただし、一本に賭けるからにはそれなりのことをしてもらうけど」 「それなりのこと?」 「前宙返り三回半よ」 「は?」 「憶えてない? 私が青森へ行く前に言ったこと」  前宙返り三回半。そういえば……と、知季はあの突飛な話を思いだした。 「なぜ中学生には三回半がまわれないのか? それはジュニアの大会で十メートルからのダイブを禁じられているから。もちろんほかにも理由はあるけど、これが最大の原因だと私は思っている。でもね、このルールにはおかしな抜け穴があるのよ」 「抜け穴?」 「たしかにFINAはジュニアの大会で小中学生が十メートルから飛ぶことを禁じてる。でも、それはあくまでジュニアの大会のみに適用されるルールなのよ。つまり、ジュニア以外の大会では小中学生だってほかの参加者と同じ条件で十メートルから飛ぶことができるってこと。と言っても、そんな大会は日本じゃ通常、日本選手権くらいだけどね」 「はあ」 「ところが七月の選考会、これ、ジュニアの大会じゃないのよね。ということは……」 「ちょっと待った」と、知季は逸《はや》る夏陽子をさえぎって言った。「やめてよ、そんな、いきなり……そりゃあたしかに七・五メートルと十メートルじゃ滞空時間が全然ちがうけど、でも、だからってもう一回転できるとか、そんなもんじゃないでしょ。十五メートルから飛べば五回半できるとか、そんなもんじゃないでしょう」 「はじめる前から無理だとか言うの、あなたの悪い癖ね。何事もやってみなければわからないじゃない。すべてはこれからよ」 「これからって……選考会まではあと四か月もないんだよ」 「そしてオリンピックにはあと一年ちょっとしかない。だからなのよ」 「だから?」 「たしかにあなたはこの数か月で急激に成長した。でも、今の時点じゃまだまだ上は大勢いるわ。全国の中高生がしのぎをけずりあう大会で、坂井知季の飛込みをアピールするにはどうすればいい? 三回半よ。歴代の中学生でも数えるほどしか成功させてない三回半を決めたら、ジャッジはあなたに一目置くわ。その印象は必ず採点にも影響を及ぼす」  強いまなざしで射すくめられ、知季は重く押しだまった。本気だ。この女は本気でおれに三回半をやらせようとしている。  知季は選考会で見事、三回半に成功した自分の姿を思い描いた。それはそれはかっこいい、誇《ほこ》らしい一瞬だ。すぱっと鮮やかに水を切り、観衆をわかせる。嵐のような拍手。かつてない快感!  続いて案の定、三回半に失敗した自分を思い描いた。それはそれはかっこわるい、ふがいない一瞬だ。水に打たれた体は赤く腫《は》れあがり、観客席からは白い目がそそがれる。霧雨のような拍手。かつてない屈辱……。 「やるわね?」  夏陽子に決断を迫られた瞬間、しかし知季の頭からは成功した自分も失敗した自分も消えていた。その一瞬、決意というよりももっと本能的な、説明のできない何かが内側からこみあげて、知季の首を縦にゆらしたのだ。 「やります」  それはこれまでつらい練習を積んできた肉体そのものの声だったのかもしれない。心とは裏腹に、体は知季の可能性を試したがっている。 「協力するわ」  夏陽子は満足げにほほえみ、まだ眠たげにまぶたをこすっている飛沫をふりむいた。 「沖津くん、あなたもよ。選考会ではあなたにも高飛込み一本にしぼって飛んでもらう。なんせあなたはまだスプリングボードを踏んだこともないわけだからね」 「どうぞご勝手に」  飛沫は気のない声を返した。 「ただし、契約は忘れるなよ」 「約束は守るわ」 「契約だ」  そっけないやりとりのあと、飛沫は長い昼寝を終えた象のように立ちあがり、さっさと部屋をでていった。その後ろ姿をにらむ夏陽子の目にはめずらしく疲れが見てとれる。  夏陽子と飛沫。二人の交わした契約とは一体なんなのだろう?  飛沫に続いて視聴覚室をあとにしながら、知季は妙な運命のうねりのようなものを感じていた。  つぶれかけていたMDCに夏陽子が現れ、飛沫が現れて、何かが起ころうとしている。  その大きな波にのれるのか、取り残されるのか——。  知季に課せられた新たな試練、三回半。  すべてはその成否にかかっているのかもしれない。 「もしもし、坂井くん?」  しばらく音沙汰《おとさた》のなかった未羽から、ひさびさに電話があったのはこの夜のことだ。 「あ……未羽、久しぶり」  バスルームからでたあと、たまたま電話のそばにいた知季は受話器を持ちあげ、ふと首をひねった。  ナニカガイツモトチガウ気ガスル。  でも、それがなんなのかわからない。 「久しぶり。トモくん、元気にしてた?」 「まあ、あいかわらず」 「飛込み、大変?」 「あいかわらず。なんかさ、このごろいろいろあって……」 「またいろいろ?」  受話器のむこうで未羽の小さな笑いがこぼれる。くすぐったいのをこらえる子供のような声。もしも「じつはおれ、オリンピックをめざすことになって……」などと告白したら、この笑いはぴたりと収まるのだろうか。それともさらに強まるのだろうか。 「そのうち話すよ。もっと話が現実的になったら」 「ん、じゃあ、そのうちきく」  未羽はそれ以上追及せず、学校での出来事だとか友達の話題だとかを話しはじめたけれど、ナニカガオカシイという思いは電話を切るまで知季の頭から離れなかった。  未羽にはいつも無理をしている感じがつきまとう。無理して話題を引っぱったり、無理して陽気にふるまったり。でも、この夜は同じ無理でもなんとなく感触がちがっていた。 「じゃ、もう遅いし、またね」  数分間の会話のあと、めずらしく未羽から電話を切ろうとしたとき、知季はとっさに「あ、ちょっと」と呼びとめていた。 「え、なあに」 「なんかあった?」 「え?」 「いや……ないならいいんだけど」  すうっと息を吸いこむ気配。五秒近くの沈黙のあと、ようやく未羽の声がした。 「べつになんにも」  しかし、知季にはこの返事よりも五秒間の沈黙のほうが気になった。  ナニカガオカシイ。  ナニカガオカシイ。  ナニカガオカシイ。  じゃあまた、と受話器を置いてからも、そのナニカが気がかりでその場から動けない。忠犬のように電話のわきにたたずんでいた知季は、やがて開け放たれた扉のむこうをコードレスフォンを片手に行きすぎていく弘也の姿を見て、突然ハッと気がついた。  最初の一声——いつもは知季をトモくんと呼ぶ未羽が、今夜の電話では開口一番にこう言ったのだ。 「もしもし、坂井くん?」 [#改ページ]   7…WHAT DO I HAVE?  八月のアジア合同強化合宿。是が非でもそれに参加しようという目標ができるなり、知季たちの練習にはがぜん熱がこもり、一本一本のダイブにかける気迫や緊張感がまるでちがってきた。七月末の選考会へむけてだれもが猛スパートをかけはじめたのだ。  中でも、今夏の三大会をすべて投げうつ決意をかためた要一はすごかった。もともと人並み以上の実力をそなえた彼が、このまま人並み以上の練習を重ねれば、合宿メンバーに選ばれるどころか選考会での優勝も夢ではなさそうだ。  知季、レイジ、陵の三人は、エントリー種目の難易度からすると今のところ同レベルで奮闘している。とはいえ、そのレベルは選考会で六位以内に選ばれるか否かのバーからはかなり下にあった。この不利な立場から一発逆転をかけて知季が特訓中の前飛込み前宙返り三回半抱え型は、難易率からすると2・7で、飛びぬけて高度な技ではない。が、やはり中学生が三回半に挑むインパクトは大きく、知季がその種目にとりくみだしたのを知ると、レイジと陵はすぐさま夏陽子のもとへ直談判に訪れた。 「おれたちにも三回半を教えてください」  夏陽子は意外にもあっさりと承知した。 「もちろん、やる気があるなら教えるわ。ただし、三回半はあくまでも挑戦よ。今度の選考会に間にあう可能性は低いと考えて、今の持ち技もしっかり磨いておきなさい」  二人は喜びいさんで三回半の練習に加わった。  新しい種目にとりくむ際、選手たちはプールで飛ぶ前に、まずは陸上で徹底的に演技の勘をつかんでおく。そのために用いるのがスパッティングという特別な器材だ。  トランポリンの上に高さ四、五メートルの鉄棒が渡っているのを想像してほしい。その鉄棒にはロープが通い、それはトランポリン上の選手の腰に固定された円形金具に結ばれている。鉄棒の両サイドにはそれぞれコーチがついていて、ロープの両端をにぎっている。ぐいっ、と両コーチがロープを引っぱるごとに、選手の体は勢いよく宙に引き上げられるのである。その空中における回転によって、動きのコツやタイミングをつかむ。回転の感覚を体に教えこむのだ。  この練習はロープを引くコーチたちと息を合わせるのも大変な上、タイミングを誤れば腰につけた金具が腹に食いこんで痛い思いをすることになる。ふだんは敬遠しがちな知季たちだが、しかし今回ばかりはだれも弱音を口にしなかった。  要一、知季、レイジ、陵。こうして彼らがMDCを盛りたてていく中で、しかし、つねにだれよりも大声を張りあげていたのは、新参者の飛沫だろう。  沖津飛沫。これまで自己流の飛込みをしてきた彼は、型にはまったダイビング・メソッドが肌に合わないのか、MDCの指導法になにかと食ってかかるのだ。 「セービングなんか必要ない。ジジイがそう言ってた。おれはやらない」  夏陽子と衝突するたびに、飛沫は彼の祖父である幻の天才ダイバー、沖津白波の言葉を持ちだした。 「セービングはダイバーにとって最も重要な技術のひとつよ。プラットフォームから飛びこんだとき、水面と垂直に入水すれば水しぶきは上がらない。きれいなノー・スプラッシュが決まるわ。でも、実際はどうしても角度が浅すぎたり深すぎたりして、大なり小なりのブレが起こる。そのブレを水中でコントロールするのがセービングなの」 「つまりはごまかしの技術だ。そんな小手先《こてさき》の技よりも、ジジイはまっすぐな入水を徹底的に教えこもうとしてた」 「それはひと昔前の考え方だわ。故障の原因となる体の負担を減らすためにも、今の選手にはセービングの習得が必要不可欠なのよ」 「おれには必要ない。第一、なんでそんなにノー・スプラッシュをありがたがるのかわからない。飛込みはもともと空中演技の美しさや力強さを競うもんだろう。いつから水しぶきの数をかぞえる競技になったんだ?」 「一九六四年の東京オリンピックからよ。アメリカの選手がこの大会で完璧《かんぺき》なノー・スプラッシュを決めて脚光を浴びた。それ以来、この技術が急速に広まったわけ」 「びくびく水しぶきをたてないように飛ぶようになったわけか。あほくさい」 「世の中にはサッカーの試合を観ながら、なぜ彼らは手を使わないのかってあほくさがる人もいるでしょうね。スポーツってもともとそういうものよ。だれが作ったのかわからないルールや価値観に食らいつき、昇華させて何かをつかみとる」 「ジャッジの質が落ちた。空中演技を見極める力がないもんだから、わかりやすい水しぶきばっかりを重視したがるんだ」  論につまると、飛沫はふてくされてジャッジにケチまでつけだした。試合にでたこともない彼がジャッジの質を知るわけがないから、これも白波の受け売りだろう。  夏陽子は今さらながら飛沫を支配する白波の影の根深さを思い知らされた。飛沫との信頼関係を築くには、まずは一度、その影をとりはらう必要があるのだろう。が、それには相当な荒療治が必要なはずだ。そう思うと、夏陽子はますます行く末が不安になる。  生きている人間は常として、なかなか死んだ人間に勝てないものだから。 『——元天才ダイバーの死 〈一九九一年、八月二十九日。青森県沖に出漁中の小型漁船が台風十九号による大波に襲われ、転覆した。乗船していた沖津白波さんと長男の大海《ひろみ》さんが死亡……〉  先月末に新聞の片隅に載ったこの記事を目にして、ふいに過ぎ去りし日の記憶を去来させたのは私だけではないはずだ。  沖津白波。一度耳にしたら忘れることのないこの名前は、一九四〇年代の日本飛込み界を知る我々にとって大いなる意味を持つ。  彼は当時の日本飛込み界に一大旋風を巻き起こした時代の寵児《ちようじ》であった。順調にいけば間違いなく世界のトップダイバーに成り得たであろう。私は彼の飛込みを一度、第二次世界大戦後の宝塚プールで見たのみだが、その雄大な、鬼気迫る演技は今でも目の裏に焼きついている。あれほど圧倒的な飛込みは後にも先にも観たことがない。沖津白波の演技を一度でも観たことのある幸福な人間は、誰しも同じ感慨を抱いているのではないか。  にもかかわらず、それほどの力を持ちながら、沖津白波は悲劇のダイバーでもあった。  一九四〇年の東京五輪返上。一九四八年のロンドン五輪不参加。第二次世界大戦の余波により、当時の日本は十六年間にも亘《わた》って五輪から遠ざかっていた。沖津が肉体的にも技術的にもピークを迎えていた時代、五輪のみならず日本スポーツ界は軒並み自粛ムードで、到底試合など行える状況ではなかったのだ。  もしもあの時代、沖津がその実力を存分に発揮できる環境にあったとしたら……。天賦《てんぷ》の才を眠らせたまま年老い、無冠のままに帰郷したこの天才の無念を思うと、今でも胸が痛む。日本がようやく五輪へ復帰した一九五二年、すでに三十を越えていた沖津は故郷の空の下、どのような思いでこの遅すぎる祭典を眺めていたのだろうか。  人の一生には運不運がつきまとう。ましてスポーツ選手となれば尚のことだ。が、沖津の不運は彼個人に留まらず、日本飛込み界全体の不運であるように思えてならない。  もしもあの時代、絶頂期の沖津に世界への扉が与えられていたとしたら、彼はそれを開けてどこまでも羽ばたいていっただろう。しかし、その扉は固く閉ざされたままだった。そして日本飛込み界はその後五十余年を経ても尚、いまだに世界へ羽ばたくことができずにいる。  今や扉は全選手へ与えられている。しかし、それを開ける力の持ち主がいないのだ。  津軽の海に眠る元天才ダイバーの霊魂は、我々が冥福《めいふく》を祈る程度では浮かばれないかもしれない。 [#地付き]日本水泳連盟理事 岩本正三』 「すごい。よく見つけたね、こんなの」  テーブルに広げた冊子から目を上げ、知季は感嘆の声をもらした。 「うちのおふくろ、日水連の仕事手伝ってんだろ。この手の会報はぜんぶ保管してるわけ。この前おやじが沖津の話をしてたら、おふくろがこれを引っぱりだしてきてさ」  要一が言って、にごりのないアイスコーヒーをストローですする。  陸トレ後のミズキスポーツクラブ。二人がむかいあう一階の喫茶店〈トップ〉はジム通いの主婦や会社員の姿ばかりで、MDCの見知った顔はない。彼らは安上がりなファーストフードに流れるため、内密の話にはかえってこちらのほうが好都合なのだ。 「で、どう思うよ、その記事」 「どうって……とにかく驚いたっていうか。沖津くんのお父さんとおじいさん、二人とも海で亡くなったんだね」  祖父と父。二人を同時に失うなんて、自分ならどんな気がするだろう。八年前、まだ八歳だった飛沫の気持ちなど知季には想像もつかなかった。  が、要一の関心はもっとべつのところにあるらしい。 「怨念《おんねん》、感じねえか?」 「怨念? だれの?」 「決まってんだろ、沖津白波だよ」 「なんで」 「おまえってほんとにおめでたいよなあ」  話にならない、といった調子で要一が椅子の背によりかかる。 「いいか、この記事からすると、沖津白波はダイバーとして一番いい時代を戦争にとられたんだぞ。ろくに試合にもでれないまま、海外の選手たちと戦うこともできずに年をくってった。おまえならどんな気がする?」 「そりゃあ、くやしいけど」 「だろ。沖津飛沫を見てるとさ、沖津白波は飛込みを憎んでた気がするんだよ。沖津の飛込みはたしかにすごい、スケールがでかくて大胆で、荒っぽいけどそれを補うパワーがある。でも、そのパワーってなんつーか、憎しみとか怒りとかからきてる気がしてしょうがねえんだよな。すげえ才能を持ちながらも報われずに死んだダイバーの怒りだ」 「でも……報われなかったのは戦争のせいだし、べつに飛込みをうらむことないじゃない」 「そんなに簡単なもんでもないだろう。沖津白波はなまじ才能をもっていたばかりに、飛込みのためにすべてを犠牲にするはめになったんだ。いろんなこと我慢して、飛込み一筋に打ちこんで、でもその結果、飛込みは沖津白波になんにも与えてくれなかった。飛込みはやつからすべてを奪い去っただけだった」 「それは……」  深読みしすぎじゃないの、と言おうとして、知季はためらった。要一の言葉は要一自身にむけられたもののようにも思えたからだ。要一もまた、なまじ才能があるばかりにすべてを犠牲にして生きてきたのかもしれない。  友達。勉強。彼女。遊び。プリンのカラメル。さほど才能のない知季でさえ、払った犠牲の数は少なくない。 「たしかに、おれも飛込みなんかやるんじゃなかったって思うことあるけど。ほんとに調子悪いときとかは、マジで後悔するけど……」  知季の語尾がかすれた。六年前、初めて出会った要一に「後悔するぞ」と謎の言葉をつきつけられたときのことを思い返していた。  いっぱい後悔して強くなれよ。  新種目への挑戦につまずくたび、知季は何度この言葉を思い返しただろう。  ふいに黙りこんだ知季を見て、要一はニヤリと片眉《かたまゆ》を持ちあげた。 「三回半、苦労してるらしいな」  あいかわらず勘がいい。 「でもあきらめるなよ。そして忘れるな。おまえに期待してるのは麻木夏陽子だけじゃないってことを、な」 「え」 「うちのおやじが言ってたよ。沖津飛沫の飛込みはたしかにすごいけど、あいつにはダイバーとして致命的な欠陥がある。反対にトモ、おまえには最強の武器があるんだと」 「武器?」 「麻木夏陽子はそれに気がついた。だからおまえに目をかけた」  知季はこくんと息を呑《の》み、両手を見下ろした。テーブルの上で組みあわせたその手には、もちろんどんな武器もにぎられていない。要一に比べれば恥ずかしいほど肉薄で頼りないこの体が、いったいどんな力を宿しているというのか? 「おやじの言うことはほとんどボケてて化石の屁《へ》みたいなもんだけど、おまえに関してはおれも一理あると思ってるよ。おれもトモには何かありそうな気がする。それがなんなのかまだわかんないけど、トモの飛込みを見てると何かが引っかかるんだ。前からずっと引っかかってて、だからおまえをマークしてる」 「マーク?」 「油断するなよ。おれがこうしておまえをかまうのは、いつか足下すくおうとしてるせいかもしんないぜ」  真顔で冗談とも本気ともつかないことを言い残すと、あっけにとられる知季を残して要一は席を立った。  伝票を片手にレジへとむかうその美しい横顔と肉体に、店内の女たちがちらちらと桃色の視線を送っていた。  沖津飛沫にはダイバーとして致命的な欠陥がある。  反対に、知季にはダイバーとして最強の武器がある。  要一に知らされた富士谷コーチの言葉は、その後も長いこと知季の頭を離れなかった。  最強の武器とはなんなのか?  三回半にも歯の立たない自分に、一体、何があると言うのか?  要一には見本のように正確な美しい舞があり、飛沫には型破りな個性を宿した力強い舞がある。  知季は自分が何を持っているのか知りたかった。  ただ技の成功をめざすだけではなく、要一のような、飛沫のような自分だけの飛込みをつかみたいと、初めてそんな思いを抱きはじめていた。 [#改ページ]   8…THE DAYS OF GRAY  まだ春の涼しさを引きずった風が、おぼろな陽射しに瞬く水面をさらりとなでて通りすぎていく。まだらな雲を浮かべた水色の空は、もう一枚だけヴェールをはがすと夏にふさわしい青になる。  新緑に茂る木々の若々しい匂い。  花々のふりまく甘い芳香。  懸命に羽をばたつかせ飛びまわる虫の、手足についた花粉の一粒までが光って香る初夏、六月。  その中旬に桜木高校は今年もプール開きを迎えた。  桜木高校のプール開きは、同校飛込み部だけではなく、MDCの面々にとっても重要なイベントだ。制服を夏服にとりかえるように、かちりと季節が入れかわる一日。冬のあいだははるばる辰巳まで通っていた知季たちも、今日からは桜木高校のダイビングプールを借りることになる。これは知季にメリットとデメリットの両方をもたらした。  メリットは、単純に家からプールまでの距離が縮まること。桜木高校はミズキスポーツクラブと同じ駅の周辺にあり、自転車を飛ばせば知季の家から十分とかからない。往復二時間もかけて辰巳に通っていた冬を思えば格段に近いし、体力的にも精神的にもそのぶん余裕ができる。  デメリットは、寒さとの戦いがはじまること。飛込みとは、はたから見ている以上に寒いスポーツなのだ。水につかっているのはほんの一瞬、残りの大半はプールサイドでの待ち時間で、そのあいだに濡《ぬ》れた肌は大気にさらされみるみる熱を奪われていく。空調の整った辰巳の屋内プールでさえ、飛込み台の階段で鳥肌をさすっているダイバーの姿がめずらしくない。ましてむきだしの屋外プールでは風が容赦なく吹きつけるため、その寒さは屋内プールの比ではなかった。  雨も降る。突風も吹く。夏の陽射しはダイバーの目をくらませはしても、冷えきった体を温めるには気まぐれすぎる。とはいえ、試合はつねに条件のいい屋内で行われるとはかぎらないため、ダイバーはそうした悪条件にも親しんでおかねばならないのだ。  桜木高校飛込み部の顧問と部員たちに挨拶《あいさつ》をしたあと、今夏初の屋外プールへと足をむけながら、知季は今日からはじまる風雨や陽射しとの闘いに心をそなえていた。  無論、敵はそうした環境だけじゃない。今年の知季はそれ以上に巨大な敵に立ちむかわねばならないのだ。  前飛込み前宙返り三回半抱え型。合宿メンバーの選考会を翌月に控えた今になっても、知季はまだ一度もこの技を決めることができずにいたのである。 「最初の一回よ」  落ちこむ知季に夏陽子は何度も力説した。 「たった一度でもこの技を決めたら、あなたはすぐにそのコツを呑みこむ。三回半の景色を瞳《ひとみ》で憶えこむ。あなたならそれができるわ。だから最初の一回だけ、この壁さえやぶればあとは簡単なのよ」  最初の一回。夏陽子の言う意味は知季にもわかった。実際、知季はどんな種目でも一度成功すればあとはスムーズに運ぶのだ。しかし今回はその「最初の一回」がどうしてもできない。  二回半から三回半へ。この一回転の差は知季の想像以上に大きかった。自ら志願したレイジと陵でさえ、練習をはじめて二週間たらずで三回半を断念し、選考会にむけて今までの持ち技を磨く堅実路線へもどった。ふだんは勝負より見栄を選ぶ陵があっさり手を引いたほどだから、三回半の壁はよほど厚かったのだろう。  どうすればもう一回転できるのか?  知季の相談を受けた要一は言った。 「回転を増やす秘訣《ひけつ》なんてもんがあるなら、おれが知りたいよ。頭で考えてもダメだ。死ぬほど練習して死ぬほど失敗して、もうダメだってあきらめかけたときにひょっこりできるもんなんだ、技なんてもんは」  知季は死ぬほど練習したつもりだ。徹底的に行ったスパッティングではある程度、回転の勘をつかんでいたし、プールでも失敗の恐怖と闘いながら何度も挑戦した。  なのに、できない。  これは、落ちこむ。  発揮しているのが五十パーセントの力なら、努力不足のせいだと反省もできるだろう。八十パーセントの力なら、もうひとふんばりだと自分を鼓舞することもできる。しかし、これ以上はがんばりようのない百パーセントの力を尽くしながら、それでも、どうしてもできないときには本当に悲しくなる。自分には才能がないのだと自信をなくして、いっそ飛込みなんてやめてしまおうかと心がぐらつく。荷物をまとめて電車にのって、だれも知らない遠い町まで逃げていきたくなる。  しかし、選考会まであとひと月という六月の末、実際に荷物をまとめて電車にのりこんだのは知季ではなく、彼の両親だった。  天体観測が趣味の恵と、何にでも首をつっこみたがる久志は、二人仲良く「星を見上げる会」のツアーへ旅立っていったのだ。おまけに同じ週末、弘也もクラスの友達とキャンプへでかけてしまった。  結果、どこへも行けない知季だけが一人、チクワとともにがらんとした家に残されるはめになったのだった。  週末、自宅に一人きり。  少々色気づいた中学生ならば、この状況になにかしら甘美なときめきを覚えるかもしれない。もしも彼女などいたらなおのこと、これを千載一遇のチャンスととらえて神に感謝もするだろう。けれど連日の練習でくたくたの知季には、そんな楽しげな想像をする余裕もなく、夕方、練習からもどってチクワに餌をやり、母親が作り置いていたエビグラタンを温め、静まり返った食卓でふと孤独を感じるまでは、未羽のことを思いだしもしなかった。  グラタンのエビが悪かったのかもしれない。くりんとカールしたエビの背は、食事のときくらい忘れていたい宙返りのことをいやでも思い起こさせる。  知季はエビをにらみつけ、ぶすりとフォークを突きさした。そしてその瞬間、ふいにたまらないさびしさを感じた。この日本広し、中学生多しといえども、「三回半」のことで悩んでいる中学生なんて自分くらいだろう。  だれとも共有できない悩み。  一人で抱えこむ重さ。  自力で解決するしかないしんどさ。  飛込みという個人競技を続けてきた中で、知季はこれまで幾度となしにこんな思いを経験してきた。プラットフォームで一人きり風にさらされる孤独より、こうした挫折《ざせつ》時の孤独のほうがよりじくじくと肌を刺す。  一人で黙々と夕食を終えると、しんとした静けさの中で知季は急にだれかの声をききたくなった。話がしたいというよりも、ただ声がききたい。だれかに名前を呼んでもらい、自分がここにいることをわかってほしい。  飛込み、飛込みで学校での友達づきあいも希薄な知季は、めずらしく未羽に自分から電話をしてみようかと思いたったのだが、それにはいくつか気になることもあった。  ひとつ目は、前回の電話。未羽はなぜあの日、自分を坂井くんと呼んだのだろう?  ふたつ目は、その電話以来、未羽からの連絡がぷつりと絶えていること。  三つ目は、最近の未羽は学校で顔を合わせてもどこかよそよそしいこと。  どれもほどけかけた靴紐《くつひも》のように心に引っかかっているものの、それについて真剣に考えるには、知季はあまりに忙しすぎた。何かあったのかな? とは思いつつ、何があったんだろう? とまでは考えずにいた知季がようやく本気であせりだしたのは、この夜、電話にでた母親に未羽の不在を告げられたときだった。 「ごめんなさいねえ。未羽は今、クラスのお友達とキャンプへ行っているの」  キャンプ。  知季は背後の食卓の、いつも弘也が腰かけている席をふりかえった。  弘也はクラスの友達とキャンプへ行っている。  未羽もクラスの友達とキャンプへ行っている。  弘也と未羽は同じクラスだ。  ということは、二人は今、同じキャンプにいる。  ……。  二人が一緒にキャンプへ行ったことよりも、それを知らされていなかったことのほうが知季にはショックだった。  なんだかどきどきした。息まで苦しくなった。これまで未羽にときめいたこともない胸が、こんなときになって盛大に暴れだす。  知季は電話を離れ、部屋中を無意味に歩きまわった。用もなしに階段を上り、やはり用はなかったのでまた下りてきた。わけのわからない不安に襲われ、それはじっとしているとさらに悪化しそうだから、いっそのこと……とチクワをつれて夜の町へ飛びだした。  知季が意外な人物と出くわしたのは、この日、二度目のジョギングの最中だった。  吹きだす汗。速まる鼓動。熱い息——。  地面を蹴《け》りつけ前へ前へと進むほど、頭の中はクリーンな白へと近づいていく。体の苦痛は心の苦痛を麻痺《まひ》させるのに役に立つ。  自主トレをはじめて約四か月、チクワをつれた知季の走りにはだいぶ進歩が見えてきた。最初のうちは一時間を走りぬくだけで精一杯で、途中で挫折することも少なくなかったのに、近頃は坂道や階段をコースに組みこんだり、町の風景を楽しんだりする余裕さえできた。  ふだんは明け方の町を走っている知季にとって、夜のジョギングは新鮮な体験だ。もう午後七時をまわっているのに、空はまだ夕焼けの紅を残してほんのりと明るい。焼き魚。カレー。煮物。味噌汁《みそしる》。シチュー。暖かなライトを灯《とも》す家々の窓からよせてくる「今夜の匂い」を吸いながら、帰宅する会社員たちの波をすりぬけていると、知季もまた地球の匂いのひとつのように透きとおり、しんなりとした空気に溶けていきそうな気がする。  調子よく足を運びつづけた知季が、この夜、異様な人影にぎょっと綱を引いたのは、チクワに水を飲ませようと立ちよった公園でのことだった。  最初に見たとき、知季はそれを亡霊か何かだと思った。  人気のない公園の砂場。その一角にある鉄棒の上にゆらりと立ちのぼる黒い影——。  人だ、とわかるなり、知季は「ひっ」と奇妙な声をもらした。人影はただ鉄棒にのっているだけではなく、その錆《さ》びついた鉄の棒を両手でにぎりしめ、なんと、逆立ちをしていたのだ。ぴんとそろえた両足を高々と天へ突きあげたまま、全身を支える腕をぴくりともさせずに静止している。  十秒。二十秒。三十秒……おそるおそる砂場へ歩みよっていった知季は、四十秒目でようやく人影の顔を見てとり、ハッとした。 「沖津くん!」  鉄棒逆立ち男は飛沫だったのだ。 「お」  知季の声に集中力がとぎれたのか、飛沫はひょいと鉄棒から飛びおり、知季とチクワをふりむいて再び「お」と口を開けた。  十秒、二十秒、三十秒……再び訪れた長い沈黙。練習場以外の場で初めて顔を合わせた二人は、互いになんと声をかけあえばいいのかわからずにいた。 「あの……第六群の練習?」  やっとのことで知季が口を開くと、 「いや、べつに」  飛沫は照れて目をそらし、錆《さび》のついた掌をジーンズでこすった。 「でも倒立してたでしょ。すごいね、こんなところで」 「ただのひまつぶし。家、近いからさ」 「あ。このへんなんだ」  ぎこちなく会話する二人の足下では、チクワが渇ききった舌を垂らしつつ、飛沫の関心を引こうと全力で尻尾《しつぽ》をふりまわしている。彼はさほど考え深い犬ではないから、出会った相手が皆、愛すべき人間であると思いこんでいて、尻尾さえふればだれもが愛を返してくれると信じているのだ。  そのいじましい姿に目をやった飛沫が、「喉《のど》」と一言、つぶやいた。 「喉、渇いてるぞ、この犬」 「あ。水やりにきたんです」 「ふうん」  飛沫はチクワから知季に目をもどし、それから急に緊張の糸を断つように破顔した。 「あんたもな」 「え」 「喉、渇いてんじゃないのか。けっこう走ったんだろ」  知季はカッと頬を熱くした。息もあがっていない。汗もすでに引いている。なのに飛沫は知季がたんなる犬の散歩ではなく、自主トレをかねて走ってきたことを見ぬいている。 「そういやおれも喉、渇いてんだ」  動揺する知季を愉快そうにながめつつ、飛沫はジーパンのポケットから五百円硬貨をとりだした。 「待ってな。なんか買ってくっから」  チクワに水を飲ませたあと、二人は並んでジャングルジムの鉄棒にもたれ、飛沫の買ってきたスポーツドリンクのプルタブを引いた。すきっとしたレモンの香りが鼻から喉へと駆けぬけていく。唇を押しあてごくごく流しこむと、それはもっとたしかな液体となって知季の渇きを癒《いや》した。  津軽から来た天才ダイバーの孫にスポーツドリンクをおごられ、肩を並べて飲んでいる。知季はへんな気分だったけど、しかし夜風は涼しかった。チクワは足下ですやすや寝ているし、空もいつになく澄んでるし、なんだか心地いいからまあいいや、という気分になったころ、 「同居人がさ」  と、飛沫がおもむろに口火を切った。 「やたらよくしゃべる同居人がいて、一緒にいると落ちつかないつーか、むずむずするつーか……で、ときどきここに逃げてくる」  なるほど。とうなずきかけて、知季はふと首をひねった。 「同居人?」 「大島ってやつだよ、小学生教えてる」 「あ……大島コーチと暮らしてるの?」  初耳だった。思えば飛沫はまだ高校二年生で、津軽から上京してきたとはいえ、一人暮らしのできる齢ではない。 「うちは妹がいるからおふくろがついてくるわけにもいかないし、富士谷さんとこは超多忙だし、まさかあの女コーチと暮らすわけにもいかないし、な。その点、大島は独身で身軽だろ。あっちもおれと住めば特別手当がもらえるってんで同居が決まったんだけど、まさかあんなによくしゃべる男とは思わなかった。おれが無視するとテレビや冷蔵庫にまで話しかけるんだぜ。寝言でもしゃべってる。異常だよ」  飛沫のげんなりした横顔に、知季はまじまじと見入ってしまった。 「どうした?」 「いや、その、沖津くんも今日はよくしゃべるなと思って。練習じゃあんまりしゃべらないから」 「ああ。それはまあ、習慣かな。小さいころからジジイと二人でやってきただろ。ジジイが死んでからは一人で飛んでたし、仲間とわいわいって習慣がないんだ。それに……なんつーか、プールってのも苦手でさ。あそこにいると妙に息が苦しくなる」  にわかに表情をこわばらせた飛沫が、知季にはなんだか痛ましく思えた。 「そんなにプールが嫌い?」  小声で尋ねると、飛沫は即座にうなずいた。 「プールは狭くて浅すぎる。窮屈でむんむんしててうるさすぎる。あんたらみんな、あんな小さいところでよくやってられるよな。ジャッジのおやじから何点もらえるとか、減点されるとか、そんなこと考えながら飛んで楽しいか? おれはちがう。おれにとっての飛込みは、ジャッジに媚《こ》びを売るための道具なんかじゃない」 「じゃあ、なに」と、とっさに知季は問い返した。「飛沫くんにとっての飛込みって、なに?」 「おれにとっての飛込み?」 「うらみだとか、復讐《ふくしゆう》だとか、そんなんじゃないよね。沖津くんは飛込みを憎んでなんかないよね」  飛沫は「まさか」と苦笑した。 「おれに飛込みを憎めるわけがない。おれにとっての飛込みは、強《し》いて言うなら、沖津の血ってところかな」 「沖津の……血?」 「飛込みは沖津家に伝わる聖なる儀式だった。沖津の家は代々漁村の網元をしてきたけど、うちの村には昔、不漁のたびに網元が断崖《だんがい》から飛びおりて海神の怒りを鎮める儀式があったんだ。海に身を捧げて大漁を請《こ》うんだよ。そのために、沖津家の男子は小さいころから岩場からの飛込みをたたきこまれる。おやじの代じゃもう時代錯誤だの危険だのって問題になって廃止されたけど、でもジジイは趣味としてならいいだろうって、孫のおれに飛込みを教えつづけた。おまえが沖津の血を継ぐ最後の男だって言いきかせながらさ」  飛沫はその血をたしかめるように、手の甲に浮かんだ青い静脈に目をこらした。 「おれは海神なんか信じない。だけどこの血は信じてる。荒れた海に身を投げる命知らずたちが遠い昔から受けついできた血だ。おれにとっての飛込みは、この血が駆りたてる海への挑戦だった。それがいきなり……プールかよ」  いつしか空からは残映が消えて、深い濃紺に紫のパールを吹きつけたような闇が広がっていた。見上げる木の葉のむこうに星を探しながら、知季はなぜ飛沫がプールを拒みつづけるのかを今、肌でわかった気がした。天井のない空だとか、囲いのない外だとか、舗装されていない土だとか。そうした中にいて初めて飛沫は飛沫らしくいられるのかもしれない。が、しかし……。 「沖津くんが海でする飛込みと、ぼくらがプールでする飛込みは、まったくちがうものかもしれないけど……」  知季は夜空をあおいだまま言った。 「でも、沖津くんのおじいさんは、プールでも真剣に挑戦してたと思うよ。沖津くんのことだって、プールでも通用するダイバーに育てようとしてたと思う」 「まさか。ジジイはプールなんか嫌ってたよ。選手時代のことはジジイにとってぜんぶ悪夢みたいなもんだったんだ。だから津軽の海にもどってきた。おれをプールで飛ばせようなんて思うわけがない」 「じゃあ、なんで沖津くんは前宙返り一回半|蝦《えび》型が飛べるの?」 「あ?」 「後踏切前宙返り二回半抱え型は? 逆立ち前宙返り一回蝦型は? 前宙返り一回半一回ひねりはだれに習ったの? 沖津くんは試合にでたことないから知らないだろうけど、沖津くんの持ち技ってぜんぶ、ダイバーが試合でよく使う基本種目ばかりなんだ。沖津くんは東京に来る前からそれをしっかりマスターしてた。必要なことはぜんぶ身につけてた」  飛沫の色濃い眉《まゆ》が震えた。 「ジジイはおれを試合にだそうとしてたって言うのか?」 「沖津くんを見てるとそんな気がする。麻木コーチがこだわるボディ・アライメントだって、沖津くんは最初から完璧《かんぺき》だったもん」 「そんな……じゃあ、ジジイはおれの飛込みに点数をつけさせたかったっていうのか? ジャッジに気に入られる演技だとかおとなしい入水だとか、そんな飛込みをさせたかったのかよ」  むきになって声を荒らげる飛沫の横で、知季は深く息をついた。飛沫の気持ちはわからないでもない。が、海で育った飛沫に海への思いがあるように、プール育ちにはプール育ちの思いもある。 「たしかに、ぼくたちの飛込みは沖津くんの飛込みと比べて、いろいろ不自由かもしれない。なんせ採点競技だからジャッジがいないと何もはじまらないし、何も終わらない。いつも得点を気にしてるし、減点をビビってる」  でも、と知季は力をこめて飛沫を見あげた。 「でも、それって飛込みだけじゃなくて、なんでもそうなんだよ。沖津くんは広いところで自由に生きてきたかもしれないけど、ぼくたちの生活って、いつもなんか採点されたり、減点されたりのくりかえしなんだ。いろんなところにジャッジがいてさ、こうすればいい人生が送れる、みたいな模範演技があって、うまく言えないけどおれ、そういうのを飛込みで越えたくて……。試合で勝つとか、満点もらうとか、そんなんじゃないんだよ。もっと自分だけの、最高の、突きぬけた瞬間がいつかくる。そういうのを信じて飛んでるんだ」 「最高の瞬間?」 「うん」 「ジャッジは関係ない……」 「うん。でも、どうせそんな瞬間がくるなら、できれば大きな舞台がいい。大きな舞台にでるためには、小さな舞台から勝ち進まなきゃいけない。おれ、今度の選考会もそのひとつだと思ってる」 「大きな舞台で最高の瞬間、か」  ジャングルジムの鉄棒にもたれた背をそらし、飛沫は目を細めた。 「あんたらにはあんたらの最高があるんだろうな。でも、おれの最高は海にしかない」  ではなぜ海を離れたのか。  麻木夏陽子との契約とは何なのか。  知季が思いきって尋ねようとした瞬間、飛沫はふいに右手をふりあげ、空になった缶を大きく宙に放った。  カキン。メッキの空でも突くような音がして、空き缶がブランコわきのゴミ箱に着地する。その音にチクワがぴくりと目を開き、不安げにあたりを見まわしてから、ふああと大きなあくびをした。 「帰るか、そろそろ。うちの同居人、おしゃべりな上に心配性なもんで」  まんざらでもなさそうに愚痴《ぐち》るなり、飛沫は先に立って足を踏みだした。そして二、三歩行ったところで「あんたさ」と、忘れものでもよこすように知季をふりむいた。 「あんたきっと、三回半、まわれるぜ」 「え」 「おれにも少しはプライドがあるからな。なんで中二のガキに三回半を教えて、おれには水しぶきばっかり数えさせるんだ、って麻木夏陽子に文句たれたことがあるんだ。あの女は言ったよ。だってあの子はダイヤモンドの瞳《ひとみ》を持っているのよ、ってな」  ダイヤモンドの瞳。 「それ、どういう意味?」 「わかったらおれにも教えてくれ」  つぶやくと同時に背中をむけ、ひらひらと手をふりながら去っていく。チクワがお愛想で三回ほど尻尾《しつぽ》をふり、再びふああとあくびをした。知季には夏陽子の言った意味など知るよしもないけれど、しかしそれはふしぎな重量感をもって胸の中に残った。  ——だってあの子はダイヤモンドの瞳を持っているのよ。  もしかしたらそれが自分の切り札なのか。要一の言っていた最強の武器なのか。  夏陽子の言葉を頭でくりかえしながら、知季はなにやら底知れぬ力がわいてくるのを感じて立ちあがり、チクワとともに復路のジョギングを開始した。  苦戦していた前飛込み前宙返りの三回半。  知季がこの技に初めて成功したのは、その数日後のことだった。 [#改ページ]   9…UNEXPECTED TWIST  何がきっかけかはわからない。失敗しつづけた理由がわからないように、成功の理由も知季にはわからない。努力の成果と言ってしまえばそれまでだが、努力だけでもなしえなかった気がする。  知季は以前、「天才とは一パーセントの直感と九十九パーセントの汗である」、というエジソンの言葉に感じ入ったことがあるけれど、たしかに、人間の持ち得る能力の限界ぎりぎりに挑むには、なにかしら自分自身の力を越えた偶然の働きが必要な気がする。ほんの少しの体のブレ。あごの角度。一瞬の風。いくつもの偶然が絶妙に重なりあったとき、到底なしえないと思っていた何かを人はなす。  知季がついにそれをなしたのは、重たい梅雨空の続く七月の頭。小雨が降ったりやんだりの冴《さ》えない曇天の下だった。  決まった! と確信した次の瞬間、知季の体は勢いよく水中に没していたけれど、心は天まで舞いあがっていた。  決して完全な演技とは言えない。入水はオーバーしたし、水しぶきも高々と飛び散った。回転のフォームはでたらめで、両ひざもぶざまに割れていた。が、三回半の達成を前にして、それが一体なんだろう? 水はいつもより優しく、そのなめらかな膜《まく》に抱かれた知季の胸を熱くした。水から上がり、濡《ぬ》れた肌を冷たい風になぶられてもなお、そこは依然として熱かった。  世界は〈消音〉のボタンを押したように静まり返っていた。実際はけたたましい音にとりまかれていたのだが、成功の余韻にひたる知季の耳には届かなかった。  まず最初に歓声をあげたのは夏陽子だ。彼女は長い足をもつれさせるように駆けてくると、英語と日本語のごっちゃになった感嘆詞を上げ、知季をいきなり抱きしめた。騒ぎをききつけた富士谷コーチやクラブメイトたちも、こぞって知季を祝福した。これまで知季が重ねた失敗の回数を知っている彼らは、成功の重みも知っている。中には陵のように敵愾心《てきがいしん》むきだしの視線をむける者もいたけれど、レイジは自ら知季へと歩みより、「やったな」と右手をさしだしてくれた。ちょっとくやしげに唇を噛《か》みながら。そのくやしさもわかるぶん、知季はよけいに握りあった掌がうれしかった。  そうしていつにない幸福感のもとで帰宅した知季は、その夜は寝ずに一晩中、成功した三回半の演技を何度も頭で反芻《はんすう》した。  この記憶が薄れないうちに、しっかり脳裏に焼きつけたい。油断すれば皮膚のあいだからすりぬけてしまいそうなあの感覚を、自分の内側へ閉じこめたい。  三回半。  いつもより多い一回転。  地球をもう一周——。  翌日から知季のすさまじい快進撃がはじまった。いったん成功するなり、知季はそれまでの失敗が嘘のように波にのり、日に日に三回半の成功率を上げていったのだ。演技にも余裕が生まれ、フォームや入水に対する細かい注文にもこたえられるようになった。内心、選考会までに三回半を仕上げるのは至難《しなん》の業《わざ》と考えていた夏陽子の目つきが変わったのは、このころだ。 「このぶんだと選考会に間に合いそうね。ううん、それどころか合宿メンバーの枠にもすべりこめるかもしれない」  北京行きが夢ではなくなったとたん、知季の心にも明らかな変化が生じた。はなから無理だとあきらめていたその合宿に、参加したくてたまらなくなったのだ。  アジアのトップジュニアが集結する最高レベルの合宿。  百戦|錬磨《れんま》の中国人コーチによる指導。  次期オリンピックへの第一歩。  そのチャンスをこの手でつかみたい……。  知季の中に芽生えた野心。それは知季にかつてない迫力と勢いをもたらした。陵やレイジが気負いのためか調子をくずし、飛沫も夏陽子と相容れないまま孤立していく中で、知季だけが要一を追ってぐんぐん力をつけていく。日増しに加速していくそのラストスパートにはだれもが目を見張った。  あと三日。  あんなことさえなかったら、知季は選考会までの三日間を、そのまま駆けぬけていったはずなのである。  あいかわらずの梅雨空が続く不安定な一日だった。夏休み中の知季は家で朝食をすますと、すぐさま桜木高校のダイビングプールへ急いだ。好調なときは練習に行くのも体が軽い。雨が降ろうが風が吹こうが全然苦痛じゃない。  しかし天気はくずれる一方で、午後に入ると風雨どころか雷までがとどろきだした。多少の雨なら練習を続けるものの、度を超すと事故の危険が生じる。いっこうに弱まらない雨脚に見切りをつけた富士谷コーチが二時すぎに練習を打ち切った。  激しく傘を打つ雨の重みに耐えながら、知季がびしょぬれになって帰宅したのは午後三時。チャイムを鳴らしても反応がないため、合い鍵《かぎ》で玄関の戸を開けると、そこには見慣れぬスニーカーがあった。靴紐《くつひも》の赤い女物。傘立てには雨粒をしたたらせたピンクの傘もある。  だれか来ているのかなと首をひねりながらリビングへ行くと、食卓の上には『六時頃もどります。母』とのメッセージがあった。ってことは、今、家にいるのは恵の客ではなさそうだ。  リビングをでた知季は、ひとまず鞄《かばん》を置きに二階の私室へむかいながら、「おい、ヒロ、いるのか?」と呼びかけた。  返事はない。が、気配はある。知季の部屋ととなりあわせた弘也の部屋。そこにだれかがいる。 「おい、ヒロ。いるならいるって言えよ」  知季が階上に行きついたところで、ようやく弘也が部屋から顔をだした。 「なんだよトモ、早いじゃん。どうしたよ」 「雨だよ、雨。だれか来てんの?」  弘也が隠すように閉ざした部屋の戸を目で示すと、弘也は「ははは」と何もおかしくないのに急に笑いだし、 「いや、全然。でもトモ、今日はほんとにどうしたよ、こんな時間におかしいじゃん」 「だから雨だって。だれか来てんだろ」 「来てないって」 「でも、靴や傘がさ」 「なんでもないから気にすんなよ」 「気にすんなって……まさかおまえ、彼女でもつれこんでんの?」  冗談半分の問いかけに、弘也は奇妙な半笑いのまま言葉をつまらせた。 「え、マジで?」  知季は一瞬ぽかんとし、それからけたけた笑いだした。色っぽい話にはうとい自分が、めずらしく勘を働かせ、弘也を絶句させたのがうれしかった。 「なんだ。じゃあ隠してないで紹介しろよ」  笑いながら弘也の部屋の戸に手をかける。本気で開ける気はない。ただのひやかしだ。が、それを猛然とさえぎった弘也は本気そのものだった。 「やめろ!」  力まかせに手を払われ、知季がびくっと目をやると、弘也は必死の形相で部屋の前に立ちはだかっている。ようやく完成した砂の城を守ろうと、波打ち際で両足を踏んばっていた子供のころのような顔。こんなに真剣な弘也を見るのは久しぶりだった。その真剣さが知季の胸に薄暗い不安を呼びこんだ。  知季はまじまじと弘也の顔を見た。見れば見るほど不安は広がった。泣きそうな顔の弘也がやがて力尽きたように目を伏せると、知季も目をそらし、再び部屋の戸とむきあった。 「未羽か?」  まさか、という思いでつぶやく。弘也は否定も肯定もせずに足下をにらんでいる。  まさか。まさか。まさか。知季は血の気の引いた指先で再びノブをつかんだ。弘也はもはや止めなかった。カチャリとノブがまわり、扉が動きだす。  知季は室内に目を走らせ、そして静かに了解した。部屋の片隅でひざを抱え、折りたたみ傘のように縮こまって泣いている未羽の姿が、何も語らずともすべてを物語っていた。  未羽はそのまま泣きつづけ、干涸《ひから》びてしまいそうなほど泣きつづけ、やがてその嗚咽《おえつ》もかれて鼻をすする音だけが残ったころ、見ていられなくなった弘也が肩を抱いて部屋からつれだした。肩どころか手をつないだこともない知季にできるのは、消えていく二人の足音や、玄関をでていく気配を感じながら、ただ呆然《ぼうぜん》とそこにたたずんでいるだけだった。  頭がうまく働かない。心の収拾がつかない。自分がなぜこんなにもショックを受けているのかさえもわからない。  知季は自分の部屋へもどってベッドの上に背を丸めた。再び玄関の戸が鳴り、弘也のもどってくる気配がしても、そのまま死体のようにかたくなっていた。時を経て母親ももどり、父親ももどり、やがて階下から「ごはんよ」の呼び声が響いても、知季は動こうとしなかった。世界は音をなくした。色も匂いも失った。それはダイビングプールよりもはるかに深い海底のような静寂だった。  その海に小石が投じられたのは、夜の九時すぎ。部屋の戸をたたく音がして、知季の返事も待たずに扉が開かれた。 「トモ、寝てる?」  弘也だ。  ふだんなら布団に入ると三分で寝てしまう知季は、自分がまだ寝ていないことに半ば驚き、半ば後悔しながら上半身を起こした。  弘也は勉強机の椅子に腰かけ、へんに力んだ顔を知季にむけている。今すぐ泣きだしても怒りだしてもおかしくない表情だ。が、弘也は泣きも怒りもせず、知季を見つめたまま言った。 「未羽が好きだ」 「……」 「ずっと好きだった。未羽はトモのことが好きだったけど、今はおれのほうが好きになった。だからつきあってる」  弘也は知季から目をそらさず、一言一言、重石をつけて海に沈めるように語りかけてくる。その姿はふしぎと堂々として見えた。 「横恋慕」、とたぶん大人の言葉では言うはずだ。もう少しB級的には「泥棒猫」と言ったりもする。未羽とつきあっていたのは知季で、弘也はそこにずるこみをした悪役のはずなのに、なぜ自分より弘也のほうが堂々としてるんだろう?  それはたぶん、悪役でも弘也が勝者だからだ。未羽の心をつかんでいるのは自分だという自信があるからだ。そう思うなり、知季は自分でも驚くほど、カッときた。 「おれと未羽のこと知ってて、よくそんなことできるよな」 「そりゃあ、つきあってるのは知ってたよ。でも、うまくいってないのも知ってた。そのことで未羽がどれだけ悩んでたか、たぶんトモよりおれのほうが知ってるよ」 「未羽とはうまくいってたよ」 「じゃあきくけど、トモは未羽の誕生日を知ってるか?」 「それは……」 「未羽の好きな色や食いものを知ってるか?」 「……」 「そりゃ小さなことだろうけどさ。それくらいで未羽が喜ぶなら、おれはいくらでも憶えるよ。星座でも血液型でも好きな花の花言葉でも、なんだって憶えるよ。でも、トモはそんなの未羽にきこうとさえしなかっただろ」 「だっておれには飛込みが……」 「わかってるよ、それはおれも未羽も。だから未羽は飛込みやめろとか練習休めとか言ったことなかっただろ」  おかしい、と知季は布団をにぎりしめた。悪役は弘也のはずなのに、どんどん旗色が悪くなっていく。 「飛込みのことでは、未羽はいつもトモのこと応援してたよ。おれだってそうだよ。だっておれたちはトモがどれだけ努力してきたか知ってるから。毎日うんざりするほど練習したり、体中にあざ作ったりするの見てきたからさ。でも……でもおれだって未羽のことでこれまで、トモのしてない努力を積んできたんだよ。毎日未羽のこと考えたり、トモのことで落ちこんでる未羽を励ましたり、どさくさにまぎれて告白したり、何度も何度も告白したり……。そういうの、なんもしてこなかったトモに今さらうらまれても、正直言っておれ、ぴんとこないよ」  ぴんとこない、と言ったときだけ、弘也はかすかにすまなそうな顔をした。  未羽に対する努力の量がちがう。だから知季には弘也を責める資格がない。弘也の言いたいのはそういうことだろう。たしかに一理ありそうだと知季も思う。だからこそなおさら、腹が立つ。 「もういいよ。ヒロがどれだけ努力したとか、いつから未羽とつきあってるとか、そんなのききたくないよ。でも、ひとつだけ……」  最後にひとつだけ。やめたほうがいいとわかっていながらも、どうしてもきかずにはいられなかった。 「未羽とキスしたか?」  弘也は幸せを隠しきれずにぴくりと口角を持ちあげた。 「した」  こいつを一生許さない、と知季が心に決めたのはこの瞬間だ。 「あ、でも言っとくけど、おれたち、好きでこそこそやってたわけじゃないからね。ほんとはもっと早くトモに言いたかったんだ」  知季の顔色が激変したのを見て、弘也はあわてて言いそえた。 「でもトモ、もうすぐ大事な試合でしょ。未羽が心配しててさ、とりあえずそれが終わるまでは黙ってようってことにしてたんだ。いや、マジで」 「……」 「未羽、今日も帰りに試合のことばっか気にしてたよ。今でもトモのことすげえ考えてるんだ。ただ、トモよりおれのほうがもっと好きになっちゃっただけで……」 「……」 「試合、来週だろ。未羽が応援に行きたがってるけど、一緒に行っていいか?」 「……んな」 「え?」 「一生、来んな!」  弘也の声をききながらも、キス、キス、キス、キス、キス……とただそれだけしか頭になかった知季は、大声で怒鳴るなりバタンとベッドにうつぶせ、再び死体にもどった。  悲しい。  というよりも、むなしい。  というよりも、とにかく、くやしい。  弟に彼女をとられた。むこうから告白されてつきあうことになって以来、ほとんど自分からは電話をしたことがなく、デートに誘ったこともなく、誕生日も七夕もクリスマスも飛込みの練習で、好きなのかどうかさえわからずにいた彼女を、努力を惜しまなかった弟にとられてキスされた。  なんだかもっともな話だ。自分が未羽でも弘也を選ぶだろう。理屈ではわかる。  でも、くやしい。  ぐやじい……。  何を言っても返事をしない知季のかたわらで、弘也はしばし勉強机の椅子をきいきい鳴らしていたけれど、やがて黙って部屋を立ち去った。  そういえば、弘也を大声で怒鳴りつけたのなんて生まれて初めてかもしれないな、と弘也の消えたあとで知季はふと思った。いや、ケンカをしたことさえ初めてかもしれない。  学年のちがわない年子の弘也。友達みたいな仲良しの弟。その弟に、しつこいようだが、彼女をとられた——。 [#改ページ]   10…SHE'S SO SAD  真っ赤なワンピースに身を包んだ夏陽子が、突然、知季の家に押しかけてきたのは、その二日後。窓辺でゆれる風鈴の音にも耳が慣れ、テレビ画面には梅雨明けを晴れやかに告げるお天気お姉さんや、半裸の人々でごったがえす伊豆《いず》や江ノ島の海水浴場が映しだされる夏のさかりだった。  一人、部屋にこもって湿った梅雨を引きずっていた知季は、その朝、 「MDCの麻木さんが見えたわよ」  階段を上ってきた恵に告げられても、さほど驚きはしなかった。ちらりと窓辺に目をやり、そりゃそうだよな、と他人事のように思っただけだ。  念願のアジア合同強化合宿。そのビッグイベントへの参加権を賭《か》けた選考会は、もう翌日。それなのに、この土壇場《どたんば》になって知季は昨日、無断で練習を休んだのだ。その上、夏陽子や富士谷コーチからかかってきた電話にもでなかった。飛込みのことには口だしをしない両親は知季の好きにさせていたけれど、あの夏陽子が黙っているわけもなく、早々に奇襲をかけてくるのは目に見えていた。  ずかずか踏みこんでくる夏陽子のいかめしい顔つきさえ、知季はつぶさに想像していた。念入りに整えた眉《まゆ》をつりあげ、アイラインにふちどられた肉食獣の目をぎらつかせ、今にも歯ぎしりがきこえてきそうな赤い唇をわななかせて、夏陽子は全身で知季を非難するはずだ。 「あんた、今がどんなに大事なときだかわかってんの?」  実際、夏陽子は一歩部屋に踏みこむなり、案内してきた恵が階下へ逃げだすほどの剣幕で知季を一喝した。  が、それは最初の一声だけだった。 「なにか……」  空虚で、なげやりな瞳《ひとみ》。ゆるみきった口元。張りのない肌。パジャマ姿でベッドに横たわる知季の、三日前とは別人のような姿を一瞥《いちべつ》するなり、夏陽子はにわかに声色を変えた。 「なにがあったの?」  知季はのっそり身を起こし、ベッドの背に立てた枕にもたれかかった。 「なんか、力がでなくてさ」  もしも夏陽子が弱気な女だったら、この時点で合同合宿への夢をあきらめたかもしれない。が、かつて自分の辞書から「あきらめる」の文字を修正ペンで無理やり葬《ほうむ》った過去を持つ彼女にとって、ピンチとは克服の快感を味わうためにあるものだった。 「だれにもあることよ、あなただけじゃない」  恵が用意した椅子にかけ、本腰を入れて知季の様子を観察した夏陽子は、やがて先ほどの剣幕とは打ってかわった声色でやんわりと言った。 「大事な試合まであと少し。その試合に賭ける意気込みが強ければ強いほど、人は自分にプレッシャーをかけてしまうものだわ。なんとしてでも勝ちたい、合宿メンバーに選ばれたい。そんな思いをもてあまして、心のバランスをくずしてしまう。おまけにあなたの場合、今回は三回半というプレッシャーもかかっているんだものね。ついこの前までは二回半がやっとだったあなたが、北京行きを賭けた大舞台で三回半に挑戦する。それだけで十分、すごいことじゃない。試合を前にして腰が引けるのも無理はないわよ」  でもね、と夏陽子は熱っぽく続けた。 「でも、これはだれしもがのりこえなければならない試練なのよ。飛込みはなによりも強い精神力を求められる競技だってことは、あなたも身に染みているわよね。たった一人で台の上に立つ。わずか一・四秒、失敗は許されない。それでも宙に身を投げるイカレた怖いもの知らずの一人じゃない、あなただって。その精神力をもってして、これしきのプレッシャーに耐えられないわけがない。あなたならできる。きっと越えられる。あとはあなた自身が自分を信じてあげることよ!」  夏陽子が力強く語りあげたところで、知季は言った。 「弟に彼女とられたんだ」 「は?」 「つきあってた彼女を、弟に、とられた」  夏陽子の唇がぎこちない形のまま静止した。 「彼女を?」 「ああ」 「弟に?」 「うん」 「とられた?」 「とられた」  夏陽子は大きく息を吸いこみ、再び大きく吐きだした。 「あんた、ばっかじゃないの?」  言われるまでもなく、自分のバカさ加減は知季が一番知っていた。 「告白されて、つきあいだして、その子のことが好きなのかどうかもわからなかったのに、いなくなったら、すごく好きだった気がしてきた」  あきれて声もない夏陽子に、知季がぼそぼそしゃべりだす。なぜこんな話を飛込みのコーチにしているのか疑問に思いながらも、動きだした口はもはや収まりがつかなかった。人は、失恋するとその話を人にきかせたくなるものなのだろうか。だれかれかまわず。 「つきあってて楽しかったとか、恋してる感じとか、そんなのなんにもなかったのに、失恋だけがちゃんと苦しくて、なんか、おいしいとこはみんな弟に持ってかれた気がする」 「失ってみて初めて大切なものがわかったってこと?」 「そう……だと思う」 「嘘よ。失ったとたん、なんとなく大切だったように思えてきただけよ。本当に大切だったら最初から大切にしてるわ、失わないように」 「キツいですね」 「あなたは自分をごまかしているだけ。今、自分にとって一番大切なのはなんなのか、本当はわかってるくせに」 「わかってる。わかってるけど……力がでないんだよ」  夏陽子の言いたいことは百も承知だった。たしかに今は失恋だなんだと言っている場合ではない。なのに、どうしても、未羽のことが頭から離れない。  告白を受け、「交際」をはじめながらも未羽をちっとも大切にしなかった一年間。楽しませることも喜ばせることもしなかった自分。電話もデートも億劫《おつくう》がって、彼氏としてはあまりにも非協力的だった。だから未羽は協力的な弘也に心を移した。未羽を楽しませることや喜ばせることに全力をそそぐ弘也とつきあいだして、二人は瞬く間にキスをした。二人の世界においては完璧《かんぺき》なハッピーエンドだ。知季にはそれを非難する資格もない。  頭ではわかっていた。  なのに、心がどうにも収まらないのだ。  一体どうしてしまったんだろう、と自分でも思う。精神面は強いはずだと信じていた。プレッシャーなんて感じたこともなく、へんな力みからも無縁でいられた。まさかこんなところに落とし穴があったとは。 「月並みな助言だけど……」  夏陽子が思いつめた知季の横顔に言った。 「そうやって悶々《もんもん》としてたって、どんどん深みにはまっていくばかりだわ。気をまぎらすためにも、そろそろ飛込みに気持ちをもどしてみない?」 「飛込み、飛込み、飛込み。あんたはそれだけなんだな」 「失恋、失恋、失恋。あなたはそれだけね」  毒をふくんだ二人の視線がぶつかりあった。 「あんたはおれがどうなったって、飛込みさえやってれば満足なんだ」 「ええ、私はあなたが弟に彼女をとられたって、飛込みさえやっていれば満足よ。だって飛込みのコーチだもの」 「飛込み一筋で生きてきて、ろくに恋をしたこともない。だからそんなこと言えるんだよ」  飛込み、飛込みと夏陽子が言うほどに知季は意固地《いこじ》になり、ついつい言葉もエスカレートしていく。言いすぎた、と思ったときには遅く、夏陽子はすでに席を立っていた。  炎のように赤いワンピースの上で、氷のように冷たいふたつの瞳が知季を射すくめる。そのまま立ち去るのかと思いきや、夏陽子は戸口とは逆の窓辺へと歩みをめぐらせ、カーテン越しにもれてくる薄い朝の光をあおいだ。カーテンを開けばもっとたしかな朝があるのに、開けようとはしない。 「私が初めて飛込みと出会ったのは八つのときだったわ」  やがて形のいい唇から意外な言葉がこぼれた。夏陽子がこれまで封印してきた過去の話だ。 「家族でニューヨークの郊外に住んでたころ、地元の友達に誘われたのよ。飛込みの一日体験教室。行ってみたら、たちまち魅了された。あんなに気持ちがいいこと、あんなに胸が躍ること、なにもかもが生まれて初めてだった。決めた、私は一流のダイバーになるんだって、その日のうちに私、決心したのよ。家に帰ってそのことを両親に話したら、二人はそろって目をまるくしたわ。血は争えない、って。私はそのとき初めて祖父がかつて飛込み選手であったことを知ったの。しかも、元オリンピック選手だなんて……。これは運命だ、天命なんだってすっかり舞いあがって、すぐに地元のDCへ通いはじめたわ。それからはもう飛込み漬けの毎日よ。明けても暮れても飛込み。たしかに恋をする暇もなかったわね。でも楽しかった。ぐんぐん伸びていくのが自分でもわかった。新しい技をひとつ憶えるたび、パスポートのスタンプがひとつ増えたような得意な気分になったわ」  夏陽子はここでようやく知季をふりむいた。 「でも、やがて限界がきた。今でもこれだけは自信があるんだけど、私には飛込みに関する天性の勘があったの。自分で演技をしていても、他人の演技を見ていても、欠点はどこか、どこを直せばもっとよくなるのか直感的にわかるのよ。でも、頭でわかっていても実行できるとはかぎらない。ちがう、こうじゃないんだってわかってるだけに、よけい思いどおりに動かない体が歯痒《はがゆ》いのよ。成長すればするほどに、そんな自分へのいらだちはつのっていった。それでも地元じゃそれなりに活躍して、小さなメダルをいくつかもらったりもしたわ。コーチたちもまだ伸びるって励ましてくれた。でもだめね。だって私自身がだれよりわかってるんだもの、自分の限界を。  十四歳のとき、父の仕事の都合で私たち一家は日本にもどってきた。それを機に私は飛込みから離れたの。もう飛込みはやらないと告げたとき、祖父だけが少しさびしそうな顔を見せたけど、両親はかえってほっとしていたわ。  それからは受験勉強に専念して、無事、都内の高校に入学した。高校生活はそれなりに楽しかったわ。友達と遊んだり、気軽な恋をしたり、アルバイトをしてみたり。でも、それでも私の心が満たされることはなかった。いつも何かが欠けている気がして、いつも何かが物足りなかった。性分なんでしょうね。私にはこう、つねに全力で体当たりできる何かが必要なのかもしれない。  進路も決まらないまま三年生になったある日、祖父が私を呼びだして言ったの。『世田谷にダイビングクラブをつくることにした』って。そのときの私の気持ち、想像できる? パーッと夜が明けて朝がきた感じよ」  言いながら夏陽子は右手を高くかかげ、ブルーのカーテンを開けていった。  ひさびさにむきあう朝の陽光。そのまばゆさに知季が思わず目を細める。 「祖父は言ったわ。飛込みのことを長いこと忘れていた。忘れようとしていたけど、一人の少年と出会って昔の情熱がよみがえった。その少年を育てるためにも、これまでたくわえた財で日本の飛込み界に貢献したい、と」 「少年……」 「私はきいたわ。その少年はだれ? 祖父は答えた。沖津……」 「沖津飛沫」  夏陽子が言うよりも早く、知季がその名を声にした。  夏陽子はふりむき、力の宿った知季のまなざしに気づいて、にっこりした。 「そう、沖津飛沫よ。祖父にMDCを興《おこ》させる原動力となったのは、八年前の彼だった」 「八年前に会長は沖津くんの飛込みを見たってこと?」 「ええ。津軽の海で、たった一人の少年が、飛込みを忘れかけていた元オリンピック選手の胸に火をつけたのよ」  知季はこくんと息を呑《の》みこんだ。八年前といえば、飛沫はまだ小学三年生だったはず。そういえば、彼の父と祖父が海で事故死したのもその当時だった。 「東京にもどるなり、祖父は私に言ったわ。津軽で元天才ダイバーの孫を見た。あの子は伸びる、どこまでも伸びる未知の大器だ、と。そしてその大器を自分の手で育てるために猛然と動きはじめたのよ。  もちろん、MDCを興した理由はそれだけじゃない。低迷の続く飛込み界をなんとかしたいって思いもあったはずだわ。祖父が若いころ果たせずに終わったオリンピックメダルの夢。それを次の世代に託したいとも語っていた。私はその熱意に打たれて一度は離れた飛込みの世界にもどったのよ。  正直、水が恋しくなってたころでもあったのよね。トップダイバーへの夢は絶たれても、どこかで飛込みとつながっていたいって思いは捨てきれなかった。コーチをやってみないかと祖父に誘われたとき、これだって思ったのよ。私が持って生まれた飛込みの勘を、コーチとしてなら存分に発揮できるかもしれない、って。私は一念発起してアメリカに飛びたった。ただ孫娘ってだけじゃなく、MDCに就任するなら自分の核をしっかりと持っていたかったから。  六年間、ニューヨーク郊外のDCでコーチングのノウハウを学んだわ。そのあいだに祖父もMDCを設立し、赤字経営ながらも生徒数を増やしていた。ただし、一人だけ……祖父が何度スカウトにでむいても決して入会しない子がいたの。それが沖津飛沫だった。皮肉な話よね。結局、祖父は一番求めていた彼を得られないまま死んでしまったんだわ。  祖父の急死を知って日本にもどった私は、正直、とほうに暮れたわ。二人三脚で日本の飛込み界を盛り立てていくつもりでいた祖父が逝き、残されたのはミズキが厄介視しているMDCだけ。しかも、肝心の沖津飛沫はいない。そんなお荷物を背負わなくたって、私にはあのままアメリカでコーチングの技術を究《きわ》めていく道もあったのよ。それでも、ニューヨークへもどる前に一度は沖津飛沫に会っておきたいと思った。祖父をあんなにも本気にさせた少年をひとめ見たかった。  葬儀のあと、一人で津軽まで足を伸ばしたわ。そして祖父がかつて見たように、私もこの目で彼の飛込みを見た。荒波のよせる日本海に飛びこむ少年の姿を、ね。  津軽からの帰り道、私はもう迷っていなかった。MDCを引きつごう。祖父の果たせなかった夢……あの少年を私が育てよう。そんな一心で私は日本に留まる決意をしたのよ」  その後の夏陽子は知季も知っていた。夏陽子はMDC存続のためミズキの役員たちを相手に奮闘し、次期オリンピックの出場権をめぐる存続の条件をとりつけたのち、そんな裏があったとはおくびにもださない涼しげな顔で知季たちの前に現れたのだ。 「つまりはぜんぶ沖津くんのためだったわけ、か」  知季の口からうつろな声がもれた。これまで知らずにいた事実、そのすべてが飛沫を中心にまわっていたことに、自分でも意外なほどのさびしさを感じていた。  が、しかし夏陽子の話はまだ終わってはいなかった。 「最後まできいて。MDCのコーチ就任を決めたとき、たしかに私の心の中にいたのは沖津飛沫だけだった。でも、初めてMDCの練習風景を見学に行った日に、思わぬ計算ちがいが起こったのよ」 「計算ちがい?」 「思いだすわ、あの日……富士谷コーチとの顔合わせも兼ねて、初めて辰巳のプールを訪ねた。わくわくしたわ。さほど期待はしてなかったとはいえ、初めて未来の教え子たちと対面するんだもの。MDCははたしてどの程度のレベルなのか。沖津飛沫の刺激となりえる子はいるのか。一刻も早くたしかめたくて、私は勢いこんでのりこんでいった。でもまさかその日、そこで沖津飛沫にも匹敵する……いえ、もしかしたら彼に勝るかもしれない才能と出会えるなんて夢にも思っていなかったわ」 「沖津くんに……勝る?」 「一人は、富士谷要一。言わずと知れた血統書つきのチャンピオン。噂にはきいていたけど、あそこまでずばぬけているとは思わなかったわ。この子がオリンピックの出場権をつかんだとしてもなんのふしぎもない。練習風景を見ながら私は素直にそう思った」  反対に、と夏陽子は知季をふりむいて言った。 「反対に、まったく完成されていない未熟な演技だけど、素質だけは天下一品の少年もいた。坂井知季。あなたよ」 「ぼく?」 「そう。あなた」  すれちがってばかりいた二人の視線が重なりあった。当惑した知季は曖昧《あいまい》なごまかし笑いを浮かべようとしたけれど、うまくいかなかった。 「信じられない? ならいいわ。でも私にはわかるの、あなたはダイバーとしてまたとない天性を持って生まれた。その気になれば天下もとれる素質を、ね。初めてあなたの飛込みを見たときはどきどきしたわ。津軽で沖津くんを見たときと同じくらい胸が高鳴った」 「そんな、ぼくにはそんな……」 「あの日から今日まで、私は自分の直感を疑ったことなど一度もなかった。いいえ、あなたのコーチになってからというもの、その確信は強まるばかりだったわ。まるで天からのさずかりものを育てている気分。三回半なんてまだまだ序の口にすぎなかったのよ。予測もつかない潜在能力をだしきったとき、あなたは世界をもゆるがす最高の飛込みを手に入れる。いまだかつてだれもなしえたことのないスーパーダイブを、ね。それだけの……そんなにも大きなスケールを秘めているのに……」  夏陽子の瞳《ひとみ》に涙がたまっているのを見たとき、知季は彼女がひどく傷ついていることに気がついた。彼女は思い出にひたるために過去を語っていたわけではない。自らの恵まれた天分も自覚せず、のんきに失恋している教え子への怒りに動かされていたのだ。 「なのに、あなたは弟に彼女をとられただけで簡単に飛込みを投げだそうとしてる。飛べるわけがない。こんなへたれに戦えるわけないわ。しょせん、あなたにはその小さな世界の枠を越えることなんてできやしないのよ」  失望しきった暗いまなざし。知季がたまらず目を伏せると、夏陽子はもう用はすんだとばかりに戸口へと身をひるがえした。 「そんなに女がほしいなら、さっさと新しい彼女でも作ってシケこんでればいいわ」  冷たく言い捨て、足早に部屋をあとにする。  荒い足音が階下へ遠ざかると、室内にはよどんだ空気を乱すエアコンのうなりだけが残った。もはやだれも見ていないと知りながらも、知季はなんともいえない恥ずかしさと後ろめたさから、うつむけた顔を起こすことができずにいた。  今こそ海底の最深部にいる。  濃紺のベッドカバーをにぎりしめ、このとき、はっきりと自覚した。  ここがどん底だ、と。 [#改ページ]   11…DIAMOND EYES  あの子は来ないかもしれない。  北京行きを賭《か》けた選考会の当日にあたる翌朝、ふだんより早く目覚めた夏陽子がベッドの上でまず思ったのは、それだった。  雨の音はしない。試合前の練習は予定通りに行えるだろう。生徒たちは朝、いったん桜木高校のプールに集合し、午後からそろって辰巳水泳場へおもむくことになっている。だれもが緊張に顔をこわばらせ、あるいは闘志をむきだしにして集まってくることだろう。が、その中にあの子はいないかもしれない……。  目をかけていた教え子に裏切られるのは初めてのことじゃない。コーチの気持ちなど顧《かえり》みず、彼らは簡単に飛込みをやめていく。怖いから。痛いから。寒いから。勉強がおくれるから。両親が反対するから。飽きたから。だれもがうらやむ宝石のような素質の持ち主でさえ、どこにでも転がっている石ころみたいな理由で飛込みをやめていく。大切なのはすばやく頭を切り替えること。去った選手を引きずらず、残った選手に専心すること。  ハムエッグとトーストの朝食を終えた夏陽子は、手早く支度を整え、この日はふだんよりも三十分早く家をでた。憂鬱《ゆううつ》な日は気持ちを前向きに持っていくため、あえて心とは反対の行動をとることにしている。体のだるい日こそジムへ通い、練習にむかう足の重い日ほど早めに家をでる。いつ休息をとるのかと友人たちに問われるたび、夏陽子は「オリンピックが終わったら」とおどけて笑ってみせた。  休んでなんかいられない。  オリンピックまであと一年。  祖父の築いたMDCを守るため、夏陽子にできるのは動きつづけることだけだ。  MDCを守るため——。夏陽子は初めて辰巳水泳場を訪ねた日、知季にMDCをつぶしに来たのかと問われ、「守りに来たのよ」と啖呵《たんか》を切ったときのことを思いだした。  虚勢でもはったりでもない。富士谷要一。沖津飛沫。そして、坂井知季。この三人がいればMDCを守ることも可能だと、知季の演技を初めて見たあの日、夏陽子は妙な高揚の中で確信したのだ。  桜木高校へとむかう電車の中、夏陽子は知らずしらずまた知季のことを考えている自分に気づいて、歎息《たんそく》した。  体も心もまだ幼い少年。  自分自身の才能にさえも気がついていない未完のダイバー。  彼はこのまま、あの天賦《てんぷ》の才を眠らせたまま水を離れてしまうのだろうか?  忘れよう、あきらめようと思いつつ、むかいの線路をすれちがっていく電車を窓からながめているだけで、夏陽子の胸は知季の卓越した能力———ダイヤモンドの瞳への狂おしいほどの未練ではちきれそうになる。上りと下りの電車がすれちがうその刹那《せつな》、コンマ何秒の一瞬だけで、知季ならば窓越しに見える電車の乗客がどんな服を着ているか、どんな表情をしているか、つぶさに見てとることができるだろう。あるいは、彼らの手にした新聞の見出しまでも瞳に焼きつけてしまうかもしれない。  高速で動いているものを一瞬のうちに瞳でとらえる能力——動体視力。  ハイレベルな技を志すダイバーには必要不可欠な要素のひとつ。  猛スピードで落下しながら空中演技をする際、傍目《はため》にはがむしゃらに回転しているように映っても、そのじつ、選手たちはきっちりとタイミングを計りながら動いている。一回転めの目印、二回転めの目印、三回転めの目印、そのビジュアルを練習中に瞳で憶えこむ。あの赤い屋根が見えたら一回転、窓が見えたら二回転、という具合に。動体視力が弱いとこの目印をとらえきれないため、いくら練習を積んでも回転が安定せず、それが入水の乱れを呼ぶことになる。どうしても「うまくまわれない」のだ。逆に、動体視力に長《た》けた選手には目の前を駆けぬけるすべてが静止画さながらに見てとれるため、自然とうまくまわれてしまう。演技の内容が高度になるほどに両者の差は顕著となる。  後天的な訓練で身につけることの難しい「瞳」に恵まれなかったがために、これまでどれだけ多くのダイバーが泣く泣く飛込みから離れていったことだろう。天恵といえるほどの動体視力をそなえた選手はほんのひとにぎり。そしてその彼らが柔軟性、筋力、脚力、表現力などの要素もあわせもっている確率はまさしく宝くじだ。  知季はまさにその特賞だった。  空中で目が利《き》くことから生まれるしなやかな身のこなし。めったに誤ることのない回転のタイミング。つまらない失敗が多いわりに、ほかの選手ならば致命的となるミスもけろりとカバーしてしまう特殊な能力——。初めて知季の飛込みを目にしたときから、夏陽子は直感的にその稀《まれ》にみる潜在能力を嗅《か》ぎつけていた。そしてそれは彼がたった四か月たらずで三回半に成功したとき確信に変わった。二回半までは勘でまわれても、三回半は動体視力が優れていなければまわれない。ああ、この子はやはりダイヤモンドの瞳を持っているのだ……!  まだ土をかぶったダイヤモンドの原石。だから磨いてやりたかった。磨いて、光らせ、どこまで伸びていくのかを見届けたかった。とうの本人は自分の能力になどまるで無頓着《むとんちやく》で、じれったいほどの迷いや尻込《しりご》みをくりかえしているけれど、しかしこうした選手こそ、ひとたび肚《はら》をくくれば大きく化けると夏陽子は信じていたのだ。  けれどその期待は泡と消え、夏陽子はうつろな思いを胸に、いつもの駅へと降りたった。日中は真夏の陽射しと人いきれで蒸しかえる町も、今はまだ人通りも少なく、朝露の湿り気を残してしっとりと涼しい。カツカツとハイヒールの音を刻みながら商店街をぬけ、古い町並みをまっすぐに進むと、十分ほどで桜並木の続く通学路にさしかかる。ブロック塀のむこうにはすでに桜木高校の古めかしい校舎が顔をのぞかせている。  もうじき創立八十周年を迎える桜木高校。その立派な正門を、これまで夏陽子は一度もくぐったことがない。この日も校舎の裏側にまわりこんで錆《さ》びた裏門をくぐった。うらぶれた裏庭。金網の壊れた鳥小屋の跡。雑草の上にへたりこむ空気のぬけたサッカーボール。くすんだ景色の中をすりぬけていくと、やがて無秩序に枝を投げだした大樹の葉陰から、ひときわくすんだ建物が目に映った。哀しいほどに年季の入った飛込み部の部室。初めてここへ案内されたとき、夏陽子はまわれ右をしてアメリカへ帰るべきかと本気で迷ったけれど、今では愛着さえ覚えるのだから人間はわからない。それどころか、すえた匂いのする部室の戸を開けたとき、夏陽子はこの日初めてほうっとくつろいだ気分になれた。  しかし、長居は無用。ロッカーの棚に鞄《かばん》を放りこむなり、夏陽子はてきぱき服を脱ぎ、競技用の黒い水着を身につけた。その上から白いTシャツをはおり、長い髪をトップで無造作にまとめる。支度を整えた夏陽子は青いスイミングタオルを片手にダイビングプールへくりだした。  MDCのコーチに就任してから約五か月。夏陽子はこれまでプールに一番のりをする爽快《そうかい》さをだれにもゆずったことがない。ぺたぺたと、裸足の感触を楽しみながら青空の下、その青を映す巨大な水たまりへむかっていると、心の澱《おり》もみるみる薄らいで昇天していく気がする。飛沫が嫌うプールの薬品臭さえ、夏陽子にとっては故郷を思わせるなごみの匂いだった。  シャワールームを素通りし、ふだんは水をためている消毒エリアをぬけると、すかんと開けた前方にいつもの光景が広がった。  まだ冷たい朝の水をたたえるダイビングプール。  その片隅で風に震えているスプリングボード。  そして、中央に凜然《りんぜん》とそそりたつ飛込み台。  ひんやりとしたプールサイドにたたずみ、朝焼けを背負ったその飛込み台を見あげたとき、夏陽子は「あ」と小さな声を上げ、その瞳《ひとみ》に全幅の光をとりもどした。  水上にせりだす三つのプラットフォーム。  その頂点にあたる十メートルの台上に、ひざを抱えた少年のシルエットを見たからだ。  ——坂井知季だった。 「初めてこの台を見たときのこと、思いだしてたんだ」  十メートル下の水を見下ろしながら、知季はプラットフォームの先端に張りついたように座りこみを続け、いくら呼びかけても反応がないので夏陽子のほうから階段を上っていくと、かがめた背中のむこうから低い声がした。 「あのころ、ぼくは八歳で、まだ小さくて、飛込み台はデカかった。めちゃくちゃデカかった。地面から見あげるとまるで怪獣だった。ぼくはあれ以来、この怪獣を手なずけるためにいろんなものを捨ててきた。もしも飛込みと出会わなかったら、ぼくだってみんなと同じように遊んだり、勉強したり、旅行に行ったり、恋をしたり……きっとなんでもできたんだ。でも、ぼくはそれを選ばなかった」  知季の声がとぎれた。  プラットフォームの手すりに軽く腰かけた夏陽子は、続きをうながすように「そうね」とささやいた。 「そう、あなたはそれを選ばなかった」 「弘也は……未羽をとってった弟は、ぼくにとって、選ばなかったもうひとつなんだよ。ふつうに友達と遊んだり、いろんな趣味に明け暮れたり、ぼくが心の中で憧《あこが》れて、でも絶対に手に入らないもの。弘也はそのシンボルなんだ。だから彼女までとられてあんなにくやしかったんじゃないかって、いろいろ考えて、そう思った」  朝日を浴びる知季の小麦色の背中は、まだ頼りなくかたむいているけれど、その口調には昨日にはない生気が宿っている。  いまどきの男の子たちはやわらかい。だからすぐに傷つく。けれどふしぎな弾力をもってまたすぐによみがえる。 「でも、もう決めた。選ばなかったもののことはあきらめる。いや、あきらめるんじゃなくて、超越する。超越する、超越する……って、さっきからずっと思ってたんだ」  知季はそこで初めて夏陽子をふりむいた。 「でも、その前にひとつ教えてくんない?」 「なにかしら」 「ぼくの武器って、なに?」 「……」 「だれもやったことのないスーパーダイブって、なに?」  強風が二人のあいだを吹きぬけ、十メートル下の水面にさざ波を広げた。 「大事なことなんだ。要一くんには飛込みの血筋がある。元オリンピック選手の富士谷コーチの血や、やっぱりダイバーだったお母さんの血が流れてる。教本に使えそうなくらい完璧《かんぺき》な飛込みも、抜群のプロポーションも、絶対に乱れない精神力も、要一くんはほんとになんでも持ってるんだ。沖津くんにも日本海に飛びこんできた先祖たちの血や、元天才ダイバーの血が流れてる。それにあの大きな体や、ダイナミックな飛込み。でも、ぼくにはなんにもない。体に流れる血も、有利な体格も、個性的な演技も何もなくて……彼女までなくした」  だから、と知季はすがるように言った。 「だから教えてよ、ぼくの武器を。あの二人と戦うにはこのままじゃだめなんだ。武器があるならどんなものでも使いこなして、二人に勝ちたい」  勝ちたい。知季がこんなにも強くこの一言を口にするのは初めてだった。少年のあどけなさを捨てた勝負師の顔。ああ、この子は化けはじめている!  夏陽子はまぶしげに目を細め、「いいわ」と大きくうなずいた。 「あなたの武器を教えてあげる。ダイバーのだれもがうらやむダイヤモンドの瞳。その力を最大限に活《い》かしたとき、あなたは要一くんにも沖津くんにもないあなただけの飛込みを手に入れるのよ」 「ぼくだけの飛込み……」 「そう。だれにも真似のできないスーパーダイブ——四回半よ」  いつしか空からは朝焼けが消え、金色の陽射しがブロック塀を隔《へだ》てた家並みに降りそそいでいた。知季はぼうっとその光をながめ、それからきれぎれの雲が浮かぶ空へ目を移した。世界のどこかが狂っているのではないかと怪しむような顔だった。  四回半。古今東西を問わず、この大技を公式戦で成功させた選手など、この世にはまだ存在しない。  世界初の四回半。  そんなだいそれたことをなぜ口にできるのか。三回半ですらあれだけ苦労した自分に、何を根拠に四回半など期待するのか。だいたい四回半など本当に可能なのか……。  ききたいことは山ほどあった。  けれど知季は瞳を大きく見開いたまま、無言で夏陽子を見つめつづけた。  やると言ったら、彼女はやる。疑問だらけの中でそれだけはただひとつ、たしかと思えることだったからだ。 [#改ページ]  二部 スワンダイブ [#改ページ]  オリンピックへの第一歩ともいえるアジア合同強化合宿。その参加権を賭《か》けた試合の前夜、物音ひとつしない部屋を前にして、大島|力《ちから》はその扉を開けていいものか迷っていた。  今は亡き天才ダイバーの孫、沖津飛沫との共同生活を買ってでてから約三か月、大島が飛沫にこれほど遠慮を感じたことはなかった。青森から単身で上京したこの無骨《ぶこつ》な高校生と初めて対面したときは、正直、二十八も齢のちがう彼をどう扱えばいいものかとまどいを覚えた。あげく、「ひとつききたい。おれは君を父が息子を扱うように扱えばいいのか? 兄が弟を扱うように扱えばいいのか? それとも、齢の差を感じさせない親友みたいにふるまえばいいのか?」などとまぬけな問いを投げたほどだが、飛沫はにこりともせずにこう答えた。 「コーチが選手を扱うように扱ってください」  ふつうにしていよう、と瞬時に決めた大島は、それ以降、へたな気をつかわずに自分のペースで飛沫に接してきた。  大島の所属するMDCが二人に用意したのは、世田谷のはずれに建つ築十五年のマンションの八階。玄関を開けて右手が大島、左手が飛沫の部屋で、その中間にあるダイニングキッチンがかろうじて二人を隔《へだ》てている。とはいえ、大島は用があればそのキッチンをずかずかと通りぬけ、ノックもせずに飛沫の部屋の戸を開けた。用がなくても暇なときにはなにかとちょっかいをだした。野球だの競馬だの、十年前に別れた妻の話だのをとりとめもなく語る大島を、飛沫は「うざい」とぼやきながらもその戸を閉ざそうとはしなかった。  飛沫は無口だが、かといって人をよせつけないわけではない。「閉ざされている」と思って近づくと、意外と内部は「開かれている」。壮大な自然に抱かれて育った少年とはこういうものだろうか?  しかし、そんな飛沫にも一人でいたい夜はあるだろう。  大島は飛沫と麻木夏陽子が交わした契約の内容を知らない。けれど明日の試合が飛沫にとって重大な意味を持つものであるのはたしかであり、だとしたら今、この扉のむこうで彼はすでに戦いをはじめているはずだ。試合への期待と不安。失敗の恐怖。緊張。大島にも憶えがある。しかも、これまで「海でしか飛ばない幻のダイバー」と称されてきた飛沫にとって、明日の選考会は正真正銘、生まれて初めての試合なのである。  PM九時。もしも寝ていたら、すぐにこの戸を閉めればいい。  大島はじっとしていられず、ついにドアノブへ手をかけた。  飛沫はベッドにうつぶして雑誌を読みふけっていた。 「あ……なんだよ」  大島に気づくとぎょっとしてふりかえり、雑誌を枕の下へ押しこもうとする。  飛沫の顔がみるみる赤くなった。  同時に、大島の顔も赤くなっていった。  なぜなら、飛沫が必死で隠そうとしている『激写! アダルトパラダイス』は、大島が自室の枕の下に隠していたものだったからだ。 「な……なにやってんだよ、おまえは」  青汁を飲んだ直後のような声が、大島の口をついてでた。 「いつ見つけたんだ、そんなもん」  いやちがう、と大島は思った。 「返せよ」  ちがう、ちがう。 「明日は大事な試合だろうが」  これだ。大島はようやくコーチの顔をとりもどした。 「そんなもん見てる余裕があったら、もっとこう……あるだろうが、いろいろとこう、考えることが」 「考えたよ」 「あ?」 「考えて、考えすぎて、もう何も考えたくなくなった」  飛沫は持ち前の瞬発力で飛び起き、ベッドの上にあぐらをかいて大島をにらんだ。 「なあ、ジジイはなんでおれに飛込みの基本種目なんか教えたと思う?」 「基本種目?」 「坂井知季が言ってたよ。おれはこっちに来る前から試合用の技をぜんぶ身につけてた、って。ジジイはいつかおれを試合にだそうとしてたのか? 自分と同じ失敗をくりかえさせる気だったのか?」 「失敗?」 「ジジイが海を離れたのは失敗だった。君ならオリンピックでメダルがとれるとか、飛込み界の救世主だとか、うまいこと言われて上京して、何年も何年もちっこいプールに閉じこめられて……でも結局は戦争でぜんぶだいなしだ。うちの村のやつらはさ、ジジイがオリンピックに行くって信じこんで、応援団の遠征費用までこつこつ積み立てしてたんだぜ。けどジジイは手ぶらで帰ってきた。いらなくなった積立金で村長は小学校の校庭に二宮金次郎の銅像を建てたんだ。おれはガキのころ、薪《まき》を背負った金次郎を見るたびに、ジジイは失敗した、東京へ行ったのはまちがいだった、やっぱ人間はこつこつ勤勉に生きるべきなんだって思い知らされたよ。そのジジイが、なんでおれに試合用の技なんか教えるんだ?」  飛沫はいつになく饒舌《じようぜつ》だった。その追いたてられているかのようなしゃべりが、かえって大島を冷静にさせた。 「落ちつけ。試合前はだれでも興奮する」 「おれは興奮なんかしてない」 「いいんだよ。試合前はだれだってふつうじゃいられないもんだ」 「おれは試合なんか……」 「いいから、落ちつけ!」  大島の怒声が飛沫の口をふさいだ。  床に降ろした飛沫の足は小刻みに振動し、二人の声がとだえると、その神経質な音だけがカツカツと残った。  大島はふうっと息をつき、それから飛沫にむきなおって言った。 「おれは何も知らない。だが推測はできる。問題は、沖津白波がなぜおまえに試合の基本種目を教えたか、ってことじゃない。なぜ基本種目しか教えなかったか、ってことだ」  床を鳴らす飛沫の足が止まった。 「おまえのじいさんは、自分と同じ失敗をおまえにくりかえさせるために基本種目を教えたわけじゃない。自分と同じ失敗をくりかえさせないために、基本種目しか教えなかったんじゃないのか?」 「どういう意味だ?」 「自分で考えろ」  おまえは、と言いかけて声を呑《の》み、おまえの体は、と大島は言いなおした。 「おまえの体はとっくにわかってんじゃないのか、おれの言う意味さ」  飛沫が眉《まゆ》をよせてうつむくと、大島はおもむろに足を進め、枕の下から例の雑誌をぬきとった。そしてそのままなにくわぬ顔で飛沫の部屋をあとにした。  大島のいなくなった部屋には凪《な》いだ夕べの日本海のような、溺《おぼ》れるほどの沈黙だけが残された。 [#改ページ]   1…WHAT HAPPENED TO HIM?  翌日はうだるような真夏日となった。  頭上からは居丈高《いたけだか》な太陽の、足下からはアスファルトの照り返しを受けて、こんな日はプールにでも飛びこみたい! とだれもが思う炎天下。とはいえ、さすがに飛込み台の頂《いただき》から飛びこみたいとまでは思わないだろう。  高さ十メートル。  時速六十キロ。  滞空時間一・四秒。  この無謀なる戦いに挑むMDCの面々が集結したのは、午前九時。彼らは桜木高校の屋外プールで二時間ほど体を慣らしたのち、そろって大島の運転するワゴンバスにのりこんだ。MDCの専用バスではなく、普段はミズキスポーツクラブが会員の送迎用に使っている中の一台だ。 「来年のオリンピックにうちから代表選手がでたら、ミズキも専用バスくらい買ってくれるのかね」  試合前の張りつめた車内に、陵の皮肉な声が響いた。 「そうね。そしてうちからオリンピックの代表がでなかったら、来年の今頃、私たちはバスどころか毎日の練習場さえ失っているでしょうね」  陵の毒に夏陽子が毒の応酬をする。 「やめとけよ」と、運転席の大島が夏陽子を制した。「大事な試合前にへんなプレッシャーかけるなって」 「大事な試合、ね。そんな自覚があるならいいんだけど」  夏陽子の声がさらなる毒をにじませる。夏陽子が暗に飛沫を非難していることは、車中のだれもが気づいていた。最後尾のシートを占領し、どってりと横たわってうつらうつらしている飛沫自身さえも。  この日、飛沫は朝からこの調子だった。大島と一緒に約束の時間には現れたものの、練習中はただプールサイドに寝そべっているだけで、夏陽子が何を言っても動こうとしない。とうとう一度も飛込み台に上がらずに出発の時間を迎え、ワゴンバスの中でなおも大胆に居眠りを続けている。  そして、そんな飛沫のひとつ前のシートには、この日、飛沫とはべつの意味で注目を集めた一人の少年がいた。  坂井知季。  試合の直前になって二日も姿を消していた知季が、今朝、ようやく練習に復帰したとき、クラブメイトたちはほっと安堵《あんど》の息をついた。しかし、その練習ぶりをながめているうちに、彼らの安堵は脅威に変わっていった。  一体、この少年に何が起こったのか?  麻木夏陽子に素質を見いだされた知季の、ここ数か月の急成長はだれもが認めるところだが、この日の彼にはそれを越えた何かがあったのだ。  プールサイドでまどろんでいた飛沫さえ、知季の豹変《ひようへん》ぶりには目を見張った。焼けたコンクリートの上でトドさながらに腹を広げた自分の上に、何か熱い意志の塊のようなものが落ちてくるかのようだった。 「こんな日が来るのを、おれ、待ちながら、ビビッてたんだ」  濡《ぬ》れた足で飛沫のわきを通りすぎるとき、きこえよがしに要一が言った。 「あいつが本気になる日——眠れる獅子《しし》が目覚めるときを、さ」  眠れる獅子——。  飛沫は練習後にその獅子のあとを追い、ロッカールームでつかまえた。 「三回半、やるのか? 今日」  ひと月前、この三回半に行きづまっていた知季と公園ではちあわせて以来、飛沫は知季のことをなにげなく気にかけてきた。いや、夏陽子の口から「ダイヤモンドの瞳《ひとみ》」の一言をきいたときから、すでに心に引っかかっていたのかもしれない。 「うん。やるよ、三回半」  知季は間髪《かんぱつ》を入れずに言った。  迷いのかけらもないその声に、飛沫は思わず意地悪な問いをぶつけていた。 「成功率は?」 「率じゃないんだ」 「え」 「率じゃなくって、気合いなんだよ」  そう言って知季がにっかり笑ったとき、飛沫は東京へ来てから初めてだれかをうらやましいと思った。  厄介な過去も事情もなく、ただその行く手に真っ白い未来だけが広がっている知季がうらやましかった。  だれかとの契約のためではなく、自分の気持ちだけ、ただ飛込みが好きというだけで、あの高い階段を何度でも駆けあがっていける知季が、正直、ねたましいほどだった。  運河に囲まれた埋立地にそびえる東京辰巳国際水泳場。冬期の練習で通い慣れているその決戦の舞台へ一同が到着したのは、午後二時をまわったころだった。  この日は午前十一時から女子高飛込みの試合が、午後四時から男子高飛込みの試合が予定されていた。翌日は男女が逆になり、午前に男子飛板飛込み、午後に女子飛板飛込みが組まれている。合宿メンバーの選考は全試合の結果をもとに行われることになるが、高飛込み一本に的をしぼった飛沫と知季にとっては、正真正銘、今日の結果がすべてだった。  とはいえ、そうしてすべてを賭《か》けるには少々|心許《こころもと》ないところも今大会にはあった。飛込みの試合は通常、予選と決勝を同日に行うのが一般的だが、日水連は今回、時間と経費の削減のため予選を行わないことに決めたのだ。  予選を行う場合、午前が予選、午後が決勝というプログラムで進むため、一種目だけでも丸一日を要する。男女の高飛込みと飛板飛込みをすべて消化するには四日が必要だ。全国の中高生の中から北京行きのメンバーを選抜する大事な試合であるにもかかわらず、今回、参加者がさほど集まらなかった背景には、その四日を二日でやっつけてしまおうとする運営側への不信感もあった。  不吉な話だが、ほんのふた月ほど前、「スポーツは楽しく」とつねづね語っていた日水連の会長が健康不良を理由に急遽《きゆうきよ》、辞任を表明した。代わって就任した新日水連会長は、一部からメダルの鬼ともささやかれ、メダルのためならなんでもする一方、メダルのため以外には何もしないとの悪評が高い人物だった。今回のアジア合同強化合宿にしても、新会長は前会長の意向を引きついだだけで、実際のところ、マイナーな飛込み競技になど力を入れていないのではないか。この合宿メンバーからオリンピック代表を育てるほどの気概はないのではないか。そんな声が関係者たちのあいだを飛び交っていたのだ。  結果、今大会の男子高飛込みの部における参加者は、中高生あわせて十六名。有力選手の三割方は出場を見合わせたことになる。彼らは合同合宿への参加よりも、キャリアとして確実に残る中学校選抜や高校総体のランキングを無難《ぶなん》に選んだのだ。  この数字を知らされたとき、夏陽子はこの選考会に賭けた自分の判断は誤りだったのでは……と一瞬、自信をぐらつかせた。が、かといってほかに選択の余地があったとも思えなかった。  要一。飛沫。知季。レイジ。陵。彼女の率いるMDCの面々は、素質こそあれ、とにかくまだ若い。キャリアも記録もなく、要一以外はまったくの無名だ。そんな彼らがオリンピック代表の座を手に入れるには、リスクを承知でイチかバチかの大勝負に打ってでるほかはない。  アジア各国のトップジュニアが集う合同強化合宿。日水連の動向はともあれ、中国飛込み界を代表する孫コーチが指揮するその合宿に参加し、世界のレベルを体感したら、彼らはきっと何かをつかんで持ち帰るだろう。わずか数週間の合宿で数か月分の成長を遂《と》げる選手を夏陽子はアメリカで何人も見てきた。その可能性に賭けたいと思った。  でも、もしもその賭けに敗れたら?  今回の合宿に彼らが参加できず、あるいは参加したとしても次期オリンピックの座をつかむまでには至らなかったら、約束どおり、赤字続きのMDCを厄介視するミズキの役員たちによって、MDCは閉鎖に追いこまれる運命にある。日本飛込み界の発展のためにその財と労を尽くした元会長の夢は散り、クラブメイトたちはその後の居場所を失ってしまう。  そんな瀬戸際にいる夏陽子の目に、試合の直前までのんきに眠りこけている飛沫が腹立たしく映るのは、まったく無理のない話なのだった。  ワゴンバスを降り、東京辰巳国際水泳場に足を踏み入れても、飛沫はまだのんきな生あくびをくりかえしていた。舞台に立てば少しは気も引きしまるだろうとの夏陽子の期待は、飛沫に緊迫感を与えるにはあまりになごやかすぎる場内の空気に一蹴《いつしゆう》された。  これから運命の一戦がはじまろうというのに、辰巳のメインプールは熟《う》れすぎた夏から逃げてきた人々でにぎわっている。日水連が試合用に借りきっているのはダイビングプールのみのため、そのむかいではごくふつうの一般客たちがごくふつうの夏休みを享受しているというわけだ。無論、そこには試合の幕開けを待つ興奮も緊張感もない。三千五百人を収容できるスタンドにチラついているのも、メインプールで泳ぐ子を待つ母親たちの姿だけ。飛込みの応援団などは影も形もない。 「今はまだあんなにガラガラだが、試合の時間が近づくにつれてみるみるスタンドが埋まっていく、なんて思うなよ」  試合前、飛沫がプールサイドに大の字になってスタンドをあおいでいると、ふいに耳元で声がした。  見ると、大島がかたわらであぐらをかいている。 「飛込みの試合なんてこんなもんだよ。応援団もブラスバンドもいなけりゃ、黄色い歓声も拍手もない。ときたまどっかのスポーツ紙の記者が来ても、写真を数枚撮ってさっさと帰っていく。最後まで観てるのはコーチと選手の家族くらいだ。物足りなけりゃメインプールの客を観客とでも思うんだな」  飛沫は鼻で笑った。 「趣味とか遊びとか、運動不足解消とかのために泳ぎに来てるやつらの前で、こっちは命がけのダイブをするわけか」 「遊びのやつらはまだいいさ、静かなもんで」  大島は笑わずに言い返した。 「競泳の大会とダブった日なんか悲惨だぞ。あっちは応援団をわんさか呼んでガンガンやってるってのに、こっちのスタンドはしーんとしてるわけさ。必死で精神統一して、よし、と踏みきろうとした瞬間に、二百メートル自由形でベストレコードがでました、なんてファンファーレが鳴り響いたりもする」  飛沫の顔から笑みが消えた。 「そんな中で飛ぶのか?」 「そんな中で飛ぶ」 「そんなことが……」 「できるやつしか残らない。飛込みはそんなスポーツだ。おまえが思ってるほど軟弱なもんじゃない」 「……」 「ま、いいさ。じきにおまえもわかるだろ」  大島が飛沫の前髪をくしゃりと乱したそのとき、場内のスピーカーから選手の集合をうながすアナウンスが流れた。  生まれて初めての試合を直前にして、飛沫はますます飛込みというものがわからなくなった。 「ただ今より、男子高飛込みの試合を開始いたします」  午後四時。日水連幹部の短い挨拶《あいさつ》で決戦の幕が切って落とされた。  一列に並んで入場した選手たちは足どりもまばらにプールサイドを半周し、所定の位置で立ちどまる。BGMも手拍子もない行進。スタンドは依然としてがらがらで、選手の紹介がはじまっても歓声ひとつきこえない。  このさびしい舞台で戦う十六人は、事前に抽選で決まったエントリー順に並んでいた。MDCの中で最も前にいるのは、三番の要一だ。続く四番が陵で、レイジは八番、知季は十二番、そして飛沫は十五番——その番号順に全員の名が読み上げられると、この簡潔な開会式は早くも閉幕し、試合本番を前に選手たちには二十分間の練習時間が与えられる。  選手たちが次々に飛込み台の階段を上っていく中、飛沫はこの土壇場《どたんば》になってもなお、岩のように動かずにいた。スタンドの最前列に陣どった夏陽子の顔相がどんどん悪くなっていくのは気づいているけれど、どうしても足が踏みだせない。腰が重い。頭の芯《しん》がだるい。メインプールの喧噪《けんそう》がうざったい。 「調子、よくないみたいだな」  一人立ちつくす飛沫に声をかけてきたのは、すでに幾度か練習を終え、肌に水滴をしたたらせた要一だった。 「土星と木星の影響でな、今日の射手座は調子が悪いんだ」  だから放っておいてくれ、とばかりに身をひるがえす飛沫に、要一はいともあっけなく言ってのけた。 「認めたくないだろうけど、あんた、あがってるんだよ」 「あがってる?」 「ああ」 「おれが?」 「モチ」  冗談じゃない!  飛沫が大声をだしかけたのと、要一が「見ろよ」と右手を浮かせたのと、ほぼ同時だった。  爪までがすらりと美しい要一の指先は、目の前にそびえる飛込み台を示している。 「コンクリート・ドラゴンだ」  コンクリート・ドラゴン? 「知季がよく言ってた。小さいころ、あれを見てコンクリートの竜みたいだと思ったって。言われてみればたしかにそんな感じしねーか? おれたちがくるくる宙返りしたり、しぶきを立てずに飛ぼうと苦労したり、失敗して水にたたきつけられたりしてるのを、いつもふんぞりかえって見下ろしてるコンクリートのドラゴン。そのドラゴンも、今日はやけに他人行儀っぽく構えてるじゃないの」  な、と要一は笑いながらもその瞳《ひとみ》に闘志をたぎらせた。 「ドラゴンでさえそうなんだから、おれら人間があがったり震えたりすんのも無理はないってわけよ」  たしかに、はるか頭上から自分たちを見下ろす飛込み台は、今日はふだんよりも幾分、よそゆきの顔をして見える。たんなるコンクリートの塊のくせに、調子のいい日にはおだやかに、悪い日には厳しく、その日によってころころと表情を変えるドラゴン。なるほど、こいつにしてみればおれたちなんかみみっちい小石みたいなもんだろう、と飛沫は思った。が、しかし……。 「おい、おれがいつあがったり震えたり……」 「OK、OK。あがるのはダイバーとして素質がある証拠だ。大事な試合で緊張もしないやつには感受性がない。感受性がないやつには美しいダイブなんかできない。あんた、合格ってことだ。喜べよ」 「だから……」 「ま、いいじゃないの。緊張してるならその緊張をじっくり味わうべし。気分がのらないなら無理して練習しないほうがいいぜ。麻木コーチは怖い顔してるけど、いやいや飛んで練習中に失敗でもしたら、肝心の本番がだいなしだ。それよか、ライバルの予備知識でもしこんどいたほうがまだマシだろ」 「ライバル?」 「来いよ。あんたをもちっと緊張させるためにも、おれが今日のライバルを教えてやる」  同じ高二で、体は飛沫のほうがよほど大きいにもかかわらず、要一がひとたび口を開ければ飛沫はあっけなくその強引なペースに引きこまれてしまう。相手の心を読み、まどわして引きよせるその術は、心理戦でもある飛込みとどこかでリンクしているのだろうか。  要一は飛沫の肩に手をかけ、練習風景の一望できるプールの側面につれていくと、そこで頼んでもいないライバルの紹介をしはじめた。 「まず最初の一人は、徳島の松野清孝《まつのきよたか》」  二十五メートル四方のダイビングプール。  その青いさざめきを見下ろすプラットフォーム。  空席だらけのスタンドも、一般客のひしめくメインプールも、ガラス越しに見える奥のサブプールまで、すべてを見渡せる十メートルの先端に要一の指さす松野清孝はいた。  硬質の、男気のある顔立ち。がっしりと締まったボディライン。良質の筋肉をそなえたその足がプラットフォームを蹴《け》ると、松野の体は正確なフォームで空中にふたつの円を描いた。 「悪くないだろ? 去年の高校総体は寺本健一郎の圧勝で、二位はもちろんおれだったけど、それに続く三位につけたのがこの松野だ。キャリアが長いぶん試合慣れしてて、安定した骨太の演技をする。基本に忠実だから審判員のウケもいい」  しかし、と要一はうれしそうに言いそえた。 「しかし残念ながら松野の演技には、寺本やおれみたいな華《はな》がない。正確ではあるが、高さやスピードに欠けている。ま、早い話が地味なんだな。その松野と去年の高校総体で三位を争ったのが……」  続いて要一の指がさしたのは、まばゆいショッキングピンクの海パンをはいた色白の優男だった。 「茨城のピンキー山田。本名は山田|篤彦《あつひこ》。あだなの通り、小学生のころからピンクの海パンをトレードマークにしている」  すらりと細身のピンキー山田は、飛込み台の階段から身をのりだし、しきりにボディビルダーのポーズを真似ている。なんのつもりかとその視線を追うと、寒々しいスタンドの一角で女子高生が三人、そこだけ花園のような香気をふりまいていた。ピンキーがポーズをとるたびに、彼女たちはきゃっきゃとはしゃいでカメラのフラッシュを光らせる。 「あんなバカだが、飛込みの筋はいい。クラシックバレエを習ってただけあって、演技も指先まで神経が通ってる。リズム感も抜群。筋力もあれば柔軟性もあるし、プロポーションにも恵まれている。何をとってもおれより……いや、もしかしたら寺本健一郎よりも恵まれた素質を持ってるかもしれないな」  しかし、と要一は楽しそうに言いそえた。 「すべてに優れた人間が優れたダイバーになるわけじゃない。ピンキーはその見本みたいなもんだな。やつには素質があるが、その素質を使いこなす力がないんだ。練習嫌いの我慢知らず。精神的にも弱いんだろうな、試合になると必ず途中から墓穴を掘りはじめる」 「墓穴?」 「やつは試合の途中で絶対、くずれるんだ。集中力が最後まで続かずに、なんでもないようなところでとほうもない大ポカをやらかす。前半終わった時点でトップを切ってたのに、後半が終わるとケツだった、なんてしょっちゅうだよ。結局たいした記録は残せず、あの派手な海パンだけが記憶に残るってわけだ」  次に、と要一は七・五メートルのプラットフォームに目を落とした。 「福島の辻利彦《つじとしひこ》。もともとは器械体操の選手で、小五のときにスカウトされて飛込みの世界へ移った」  小柄でバランスのとれた体型。アイドル的な愛らしさのある顔立ち。一見すると女の子のようにも見える辻利彦は、七・五メートルの台からその体型を生かしたスピーディーな飛込みをしている。 「松野もピンキーも高三だが、この辻はおれたちと同じ高二だ。そのわりに老練っていうか、計算しつくしたセコい飛込みをする」 「セコい?」 「たとえば二回半を飛ぶ場合、十メートルから飛ぶより七・五メートルから飛ぶほうが滞空時間が短いだろ。五メートルからならさらに短い。滞空時間が短ければ短いほど、そのあいだに回転を終えるのが難しくなる。難しいぶんだけ難易率が高くなる。難易率があがればそのぶん得点も上がるってわけ」 「低い台で飛んだほうが有利ってことか?」 「種目にもよるけど、二回半以上は大抵な。でも、だれだってそんなの承知で、それでも十メートルの台まで上っていくんだよ。やっぱ十メートルのほうが高いし、豪快だし、かっこいいしさ。低い台からちまちま飛んでセコく点数かせぐのって、ふつうは抵抗あるじゃんか。でも、辻は抵抗なしにそれができる。それも一種の才能だけどな」  しかし、と要一は得意げに言いそえた。 「それだけセコくがんばる辻を、どんな試合でも大差で引き離してきた恐るべき男がいた。おれだ」 「……」  元飛込み選手を両親にもつサラブレッドの自信家ぶりに、飛沫は本気で鼻白んできた。が、要一はさりげなくその場を離れようとした飛沫の手首をつかみ、「最後に」とあくまで強引に紹介しつづける。 「大阪の平山二郎《ひらやまじろう》。またの名を、炎のジロー」  水平に伸びる要一の視線を追うと、プールサイドに直立し、足下に広げたセームを凝視している一人の選手がいた。水滴をぬぐう青いセームをプールに見立ててのイメージトレーニングだ。 「炎のジローは高一。これまで何度も試合で顔を合わせてきたけど、やつはどんな試合でもだれよりもめだっていた。めだつことにかけて、おれが負けを認めるのはやつだけだ」  ダイバーにしてはやや脂ののりすぎた図体。飛込みよりもパン食い競走などが似合いそうな丸顔に、怪しげなもみあげ。この男のどこに要一は負けたというのか?  いぶかる飛沫に要一は言った。 「あんた、試合のエントリー表を見たか? 炎のジローが自由選択飛びに選んだ種目は、どれも難易率がバカ高いスーパーダイブばっかりだ。前宙返り三回半|蝦《えび》型。後踏切前宙返り三回半抱え型。前宙返り二回半二回ひねり自由型……ぜんぶ成功したら日本一どころか世界のトップもねらえるぜ」  しかし、と要一は満足そうに言いそえた。 「しかし、ジローは成功しない」 「は?」 「今までどんな大会でも、一度たりとも成功したためしがない。それでもやつは試合のたびに失敗率百パーセントのスーパーダイブに挑みつづけるんだ。そして案の定、失敗して思いきり水に打ちつけられる。何度も、何度もな。試合が進むごとにやつの体は真っ赤な炎のように腫《は》れあがっていく」 「炎のジロー……」 「何を考えてるのかわからない」 「まったく」 「いろんなやつがいる」  たしかにいろんな選手がいるようだ。  松野清孝。  ピンキー山田。  辻利彦。  炎のジロー。  初の試合で飛沫を待ちうける一風変わったライバルたち。しかし、競うべき敵はこの四人だけではなく、もっと身近にもいることを飛沫は忘れていなかった。  MDCの知季。陵。レイジ。そして今、目の前にいる要一も、だれもが飛沫のライバルなのだ。  八月のアジア合同強化合宿。オリンピックへの夢をつなぐその参加権を手に入れるのは、この中でたったの三人だけ。 「どうだ、頭がこんがらがってきたか?」  ふいに瞳《ひとみ》をのぞきこまれ、飛沫は反射的にうなずいた。 「よし、大成功。早くも一人、ライバルをつぶしたぞ」  かっかっかっ、と水戸黄門のような高笑いを響かせ、要一が立ち去っていく。  呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見送る飛沫の耳に、そのとき、練習時間の終わりを告げるアナウンスが響いた。 「選手の皆さんは、番号順に整列してください」  飛沫にとって生まれて初めての試合が、今、はじまろうとしている。 [#改ページ]   2…THE FIRST HALF  男子高飛込みの場合、試合では各選手十回ずつのエントリーによってその技と美を競いあう。  前半四回は、制限選択飛び。選手は第一群から六群までの種目の中から四つを選択するのだが、その難易率の合計は定められた規定内に収めなければならない。つまり、ここでは技よりも基本を試されるわけである。  後半六回は、自由選択飛び。選手は第一群から六群までの各群より、それぞれ一種目ずつを選択する。ここでは難易率に上限がないため、選手は自分たちのなしうる最高難度の技を披露しようとする。難易率の高い技に挑めば挑むほど、高得点獲得のチャンスも高くなる。  ところで、この「第一群から六群まで」とはなんのことか、意外と知られていないのではないか。  第一群とは、ごくふつうに正面から前むきに飛びこむ「前飛込み」のことだ。助走があってもなくても、一回転でも二回転でも、蝦型でも抱え型でも、正面から前むきに飛びこむ演技はすべてこの第一群に区分される(ひねりの入った技を除く)。  第二群は、プールを背にして後ろむきに飛びこむ「後飛込み」。  第三群は、プールを正面にして背中から後ろむきに飛びこむ「前逆飛込み」。  第四群は、プールを背にして前むきに飛びこむ「後踏切前飛込み」。  第五群は、ひねりの回転をふくんだ「ひねり飛込み」。第一群から四群までが円形ドーナツ状の回転だとすると、第五群のひねりはツイストドーナツ状の回転といえる。  第六群は、台の先端で逆立ちし、その姿勢からプールへ飛びこむ「逆立ち飛込み」。ふつうに立っているだけでも震えが走る十メートルのトップで逆立ちをする恐怖を想像してほしい。  選手たちはこれら六つの種目のうち、制限選択飛びでは四つの異なった種目を、自由選択飛びでは六つすべてを飛ばねばならない。言いかえれば、この六種目をすべて身につけていないことには試合に出場することができないのだ。「前逆飛込みだけはどうしてもできない」「後ろむきに飛ぶのは恐ろしい」「逆立ちは頭に血が上る」などは通用しないのである。  知季が指摘したとおり、飛沫はその六種目をMDCに入る前からひととおり身につけていた。試合にでたこともない、でる気もなかった飛沫が、試合で戦うための武器をすべて白波からさずかっていたのである。  その飛沫が、今、ひときわ大きな体を十メートルのプラットフォーム上に現した。  制限選択飛びの第一回。  飛沫が挑むのは、はるか昔に白波から教わった前宙返り一回半蝦型だ。ひざをぴんと伸ばしたまま前方に一回半する、難易率1・6の初歩的な技。幼かった飛沫はそれが試合で用いられるものとはつゆ知らず、ただ得意な蝦型であるというだけで喜んで何度も練習した。そして名前も知らずにいたこの技はほかの多くと同様、いつしか日焼けのようにしっくりと彼の肌に染みついた。  この技を試合の初回に選んだのは夏陽子だが、飛沫にかぎらず、制限選択飛びの一回目にはだれもが得意な種目を持ってくる。そのため、よほど緊張でもしていないかぎり大きなミスはなく、大抵の選手が無難《ぶなん》にこなしていく。  現に、飛沫の前に演技を終えた十四人はほとんどノーミスでクリアしていた。前評判以上の出来でトップを切ったのは要一で、知季もキレのある回転で五位という好位置につけた。二位はピンキー山田。三位は松野清孝。レイジは八位で、陵だけが力みすぎて乱れ、十二位と水を開けられた。  そして今、十五人目の飛沫が演技をはじめようとしている。  ざらりとしたコンクリートの感触を足に、飛沫は大きく息を吸いこみながら眼下の人々を見渡した。  プールサイドで目をこらしているライバルたち。まばらなスタンドの観客。夏陽子がいる。大島がいる。富士谷コーチがいる。そして、ダイビングプールの両サイドには七人のジャッジたち。片側に三人、もう片側に四人、あらゆる角度から選手の演技を審査できるよう配置された彼らは、わずかなミスをも見逃すまいといかつい瞳を光らせている。踏みきりのタイミング。腕のスイング。ジャンプの高さ。空中演技の正確さ。美しさ。入水時の姿勢。スプラッシュ。彼らは一瞬のうちに目の前を駆けぬけ、そして二度ともどらないそのひとつひとつを得点という数字に置きかえる。  喉《のど》が渇いたな、と飛沫は思った。  体がだるい。  足が重い。  つんと鼻をつくプールの薬品臭にはいつまでたっても慣れることができない。  天井からそそがれる人工の光が不快だ。  なぜおれはこんなところにいるのか。  なぜ海を離れたのか……。  ——でも、沖津くんのおじいさんは、プールでも真剣に挑戦してたと思うよ。沖津くんのことだって、プールでも通用するダイバーに育てようとしてたと思う。  ——おまえのじいさんは、自分と同じ失敗をおまえにくりかえさせるために基本種目を教えたわけじゃない。自分と同じ失敗をくりかえさせないために、基本種目しか教えなかったんじゃないのか?  知季や大島の声が頭を駆けめぐり、「なぜだ!」と飛沫がさけびたくなったそのとき、演技開始をうながすホイッスルが鳴った。  飛沫は夕凪《ゆうなぎ》の沖を見るように瞳を持ちあげた。そこにはゆれる水平線も船影もなく、ただメインプールの喧噪《けんそう》を反響する壁があるのみだった。  それでも、おれはここで飛ぶ。  飛ぶためにここに来た。  あともどりはできない。  あきらめにも似た思いが飛沫の体を動かした。  肉づきのいい両腕を高々とふりあげ、飛沫の巨体が飛躍する。不安定に放たれた体は支えを失って急降下。その衝撃に抗《あらが》いながら宙返りをするにはスピードと空気圧を力でねじふせなければならない。鍛えあげられた飛沫の肉体は微塵《みじん》もひざをゆるめずに回転し、時速六十キロの中で大きな、力強い弧《こ》を描いた。そしてその体がほぼ直角に水中へ没したとき、水面はたった今、そこに何かを受けいれたことを忘れたような静寂を保っていた。  水しぶきが上がらなかったのだ。  ノー・スプラッシュ——。 「あの子、練習では一度もセービングなんてやらなかったくせに……」  スタンドの夏陽子が目を疑ったのも無理はなかった。飛沫の特徴は豪快な空中演技とこれまた豪快なスプラッシュで、問題はその後者だとだれもが危惧《きぐ》していた。沖津白波の孫がでるとの噂をききつけていたジャッジ陣も同様で、減点すべきは入水であろうと身構えていたのだ。  そこに、この見事なノー・スプラッシュである。  試合前半は点数を抑えがちなジャッジ陣が、飛沫の初回エントリーに存外の高得点をつけたのは、予想を裏切られた入水のインパクトによるところも大きかっただろう。  8・5点。  9点。  8・5点。  9・5点。  8・5点。  9点。  8点。  この判定の結果、難易率1・6という平凡な種目であるにもかかわらず、飛沫の演技は41・76という高得点をマークした。  なんと、その時点で飛沫は要一に続く二位につけたのである。  それにしても、単純に合計すれば61点になるはずの点数が、なぜ41・76という半端な得点になるのか? テレビを観ていてそのカウントに疑問を覚える方も多いだろうが、実際、その計算は体操やスケートに比べるとかなりややこしい。  飛込み競技の得点とは、「七名のジャッジの最高点と最低点を除いた五名の平均点」×「その技の難易率」×三、で決まる。なぜ最後に三倍するのか、が悩みどころだが、ややこしすぎるのでここでは触れない。  前述した飛沫の第一回エントリーの場合、最高点の9・5点と最低点の8点を除いた8・5点、9点、8・5点、8・5点、9点が評価の対象だ。そしてそれらの平均点(8・7)に、前宙返り一回半|蝦《えび》型の難易率(1・6)をかけ、さらにそれを三倍すると、先程の41・76という数字になるのである。  この計算でいくと、もしも飛沫が難易率2・5の演技で先ほどの点数を得ていた場合、その得点は65・25点にまで達していたことになる。難易率3・5のスーパーダイブだったら、なんと91・35点。これほどまでに得点の開きがでることを見れば、わずか1点の差に泣くことも多い飛込み競技において、難易率がどれだけ重要な鍵《かぎ》をにぎっているかわかるだろう。  その点、さほど高度な技を持っているわけではない飛沫にとって、この日の試合は決して有利ではなかったはずだ。しかし、前半の制限選択飛びにおいてはだれもが同レベルの難易率で技を競うため、巨体を活かした大きな演技に入水の妙を加味した彼の演技は着実に得点を積みあげていった。  同様に好調を維持したのは、やはり要一だ。飛沫の予想外の好演技に驚きながらも、要一は乱れず、危なげのない演技で次々と高得点をマークした。  そのあとを追っていたのが松野清孝とピンキー山田の高三コンビ。  そしてその彼らに引けをとらない猛追《もうつい》を見せたのが、なんと、まだ中二の知季だった。  知季は化けた、と朝の練習でだれもが感じたとおり、今日の知季はまるで別人のようだった。そのジャンプの高さ、回転の軽さもさることながら、この日の知季には動きのひとつひとつに電気の走るような気迫が感じられたのだ。それは如実に得点へと反映した。  好調にわく者もいれば不調に泣く者もいる。レイジはややかたくなりながらもなんとか技をこなしていたものの、陵は集中力に欠けた演技でますます差を広げられていった。  ひとつ小さなミスをすると、回を追うごとにそれが雪だるま式にふくれあがっていくのが飛込みの恐ろしさだ。前回の失敗をとりかえそうとあせる。それが全身の力みやリズムの狂いを生んで新たなミスにつながる。この日の陵はその典型だった。  前半の制限選択飛びが終わった段階で、一位は要一の180・12点。  そして、二位はよもやの飛沫。172・61点。  三位は持ち前の華やかさでジャッジを惹《ひ》きつけたピンキー山田。159・19点。  知季はなんと157・55点をとり、松野をぬいて四位に躍りでた。去年の中学校選抜関東大会では第十位、全国大会にも出場できなかった知季が、である。  五位は、手堅く演技をまとめたものの、全体的にやや単調だった松野清孝。  六位は、今日もセコく点をかせいだ辻利彦。  七位は、制限選択飛びではまだ失敗の少ない炎のジロー。  とくにパッとしたところのなかったレイジは十一位に、陵は最下位の十六位に終わった。  波乱が起こったのは、休憩時間のことだった。  自由選択飛びの前に二十分の休憩を与えられた選手たちは、冷えきった体を温めるため、次々にバブルバスへ飛びこんでいった。その波に逆らって一人、プールサイドで体を休めていた飛沫のもとへ、スタンドから憤然と駆けおりてきた夏陽子がつめより、言い放ったのだ。 「あなた、あんな寝ぼけた飛込みをするために、津軽からのこのこ上京してきたわけ?」 「寝ぼけた飛込み?」  飛沫が眉《まゆ》をよせるよりも早く、夏陽子を追ってきた大島が「おい」と口をはさんだ。 「なに言ってんだよ。試合初出場の飛沫がなみいる中高生を相手に制限で二位だぜ。たいしたもんじゃないか」 「たしかに結果は二位だった。無難《ぶなん》に飛んで、入水もまとめて、そこそこ演技もめだってた。でも、それだけのことよ。あんなダイブなら沖津飛沫じゃなくたってできる。観ていて泣けてきたわ、私はあんなへなちょこを育てるためにはるばる青森までスカウトに行ったのかしら、って」  夏陽子の声は例によって飛沫の神経を波立てた。眠っていた細胞のひとつひとつがぴりぴりと青筋を立てて起きあがっていく。 「待てよ、おい。水しぶきを立てるなって言ったのはあんただろ」 「そのために自分を殺せなんてだれが言ったの?」 「自分を……殺す?」 「わかってる。あなたは自分を殺したわけじゃない。ただ自分を生かせなかっただけよ。初めての試合で縮こまっていたのね。体がこわばって、かたくなって、動きが小さくなって、そんな自分にうろたえて……これじゃいつもの豪快な演技なんてできっこないわ。だってあなたは自分がなぜここにいるかさえもわかっていないんだもの」 「やめろ」  大島が夏陽子をさえぎった。 「あんたは何もわかってない。飛沫はいいんだ。いんだよ、これで」 「何がいいのよ」 「無難でもいいんだ。いつもより小さく見えたっていいんだよ。あんたのいう豪快な飛込みはこいつの腰に負担をかける。ダイバー生命を縮めることにもなりかねないじゃないか」  とっさに口走って、ハッとした。  大島がふりむくと、飛沫もハッと両目を押し広げていた。 「腰?」  しまった、という顔でうつむいたきり、大島は何を問われてもその瞳《ひとみ》を持ちあげようとしない。 「なんだよそれ、どういう意味だよ」 「……」 「おい、なんなんだよ。おれの腰がなんだって……」  飛沫は見るからにうろたえていた。おびえていた、と言ってもいい。津軽から単身で上京し、都会の喧噪《けんそう》にも新しい生活にも動じることなくやってきた彼が、今、あまりにも無防備な顔をさらしている。 「私たちはコーチよ」  見かねた夏陽子が言った。 「教え子の故障くらい気がつくわ。たとえあなたがどんなに必死で隠そうとも」 「!」  気づかれていたのか。  一瞬にして表情を凍らせた飛沫に、夏陽子が言葉を重ねた。 「恐らくは頸椎《けいつい》か頸髄の損傷。ダイバーにはよくあることよ、べつにめずらしいものじゃない。とくにあなたはこれまで自己流の、無茶な飛込みをやってきた。言ったでしょう、セービングは体への負担を減らすために不可欠な技術だって」 「……いつから知ってた?」 「富士谷コーチは最初からうすうす察していたようね。あなたの飛込みはたしかに豪快だったわ。だけど水から上がるとき、あなたはいつも一瞬、顔をしかめるのよ。注意して見ていると、日常生活でもさりげなく腰をかばっていた」 「……」  これまで懸命に隠してきた。つもりでいたことをあっさり暴かれた飛沫の胸に、なんともいえないおかしさがよせてきた。バレていた。はなからすべてを見ぬかれていた……。  飛沫は大声で笑いだしたい衝動に駆られ、気がつくと、本当に笑っていた。 「笑うのはかまわないけど」  夏陽子は表情を変えなかった。 「あと五分で試合よ。肝心かなめの自由選択飛び。あなたはどう飛ぶ気?」 「あんたはどうさせたい?」 「前半戦のように無難に飛んで、うまいこと入水をまとめたなら、あなたはいい結果を残せるかもしれない。一位の富士谷くんを上まわるのは難しいとしても、よくすれば今の二位をキープできるでしょうね。生まれて初めての試合で二位なら上出来だわ。それで代表選手に選ばれるかどうかはまだわからないけど、とりあえずあなたはみんなにほめられて、いい気分で家に帰れるでしょうよ。そして二、三日はそのいい気分にひたっていられるわ。でも、それだけよ」 「それだけ?」 「四日目の朝にはあなた、試合のことなんて忘れてる。ジャッジも観客もあなたを忘れてる。飛込みなんてこんなものだとあなたは思うでしょうね。そしてまた無難でまとまった演技をするようになる。でも、この試合であなたが一度でも自分の飛込みをすれば……人前で自分をだしきる快感を覚えたら、あなたはきっとそれを永遠に忘れないわ。私との約束のためじゃなく、その一瞬の快感のためにこれからも飛べる」 「一瞬の快感……」 「それはきっと、今、ここにいるあなたを肯定してくれる」  夏陽子の瞳は夕凪《ゆうなぎ》の海のように静まっていた。  その海面で飛沫の影が不安定な小舟のようにゆらめいている。 「ひとつききたい。おれはオリンピックまで行けるのか?」 「あなたが行く気でいるかぎり、私はどこまでもつきあうわ」  瞳の中の小舟が動きを止めた。  場内には試合の再開を告げるアナウンスが流れていた。  飛沫が首をかたむけ、窓からの陽光に照らされた飛込み台を見あげると、その巨大な竜はいつものように悠然と彼を待ちうけていた。 「コンクリート・ドラゴン、か」  飛沫はこのとき、初めてこのドラゴンとまっこうからむかいあった気がした。 [#改ページ]   3…THE LATTER HALF  何か大事な局面を前にして心がさざめくとき、飛沫は決まって思いだす色がある。  不穏な空の色。  黒い濁流がうずまくような暗色。  漁にでたきりもどらない祖父と父を待ちわびた、あの夜の胸騒ぎ。  飛沫は当時まだ八つだった。祖父の白波は空を読む名人だったが、あの日の嵐は急すぎた。「沖津の家は代々、命賭《いのちが》けで海に身を投じ、海神さまの怒りを静めてきた。必ず海神さまが守ってくださる」と母は蒼《あお》ざめた唇でくりかえしたものの、一夜明け、何事もなかったように空がけろりと晴れあがっても、二人をのせた船は帰らなかった。  海に神などいない。いるのは死に神だけだ。  それまで漠然と畏怖《いふ》していた海が、このときはっきりと飛沫の敵になった。その敵と戦うため、父と祖父を呑《の》みこんだ海に負けないために、飛沫はその後も飛込みを続けた。  もともと飛込みは飛沫にとって日常の一部だった。白波は箸《はし》の持ちかたを教えるように飛沫に飛込みを教えた。若くして網元を継いだ父は、付近の村からおくれをとっていた漁猟の近代化をはかることに頭がいっぱいで、子供のことは妻と父に任せきりだった。  緑に萌《も》える丘。青々と薫る風。紅に、橙《だいだい》に、山吹に、濃紫に、墨色に、そのときどきの空を映して絶えず移ろう海の色。それが飛沫の水泳場であり、切り立つ崖《がけ》が飛込み台だった。その雄大な舞台に不服はなかった。  一メートルの岩から飛べたら、次は二メートルから。二メートルから飛べたら、三メートルから。一段アップするごとに、飛沫はひとつ成長した。失敗して水に打たれるたびにたくましくなった。「危なくないの?」「怖くないの?」と友達にきかれると、「弱虫は一生、陸にいろ。空と海はおれだけのもんだ」と胸を張って答えた。  つねに目標であり憧《あこが》れであった祖父が、かつて飛込みという競技の選手であったことを知ったのは、小学校に上がった春のことだ。寡黙《かもく》な祖父は昔のことを一切口にしなかったし、家族もまるでタブーのようにその手の話題は避けていた。外部から入ってくる話の断片を頭で整理できる年頃になったとき、だから飛沫は初めてこの村における白波の微妙な立場を知ったのだ。 「沖津のじいさんが、性懲《しようこ》りもなく」  ときおり練習中の自分たちにむけられる冷笑の意味もようやく理解した。沖津白波は網元の息子でありながら、都会の誘惑に負けて海を捨てた。世界だのオリンピックだのと夢を見て上京し、しかし結局はその夢に敗れてのこのこ村へもどってきた……。  勝者はとことん持ちあげ、敗者には冷たく背をむける。白波の絶頂期には村をあげての応援にのりだした人々の豹変《ひようへん》ぶりに、飛沫は子供心にも憤りをつのらせていった。  祖父はそんな彼らの白い目に負けないため、帰郷後も飛込みを続けていたのかもしれない。海への挑戦を続けることで、まだ生きている自分を確認したかったのかもしれない。白波の死後、年を経るにつれて飛沫はそんな思いに駆られるようになった。  飛沫にとっての飛込みは、そんな白波から受けついだ海への挑戦、そして海に散った祖父と父への鎮魂の儀式でもあった。海面をつらぬくたびに腰が割れるように痛むようになっても、だから飛沫は飛込みをやめる気にはならなかったし、まして海を離れようなどとは思いもしなかった。  あの嵐の夜から数年後、スポーツメーカーの会長と名乗る男が、どこで話をききつけたのかスカウトに訪れたときも、飛沫は東京へ行く気などさらさらなかったのだ。 「沖津白波は破天荒《はてんこう》なダイバーだった。あんな鬼才《きさい》は二度と現れないと私は思っていたよ。しかし、君の飛込みを見て心がゆらいだ。君なら白波のような……いや、白波以上のダイバーになれるかもしれない」  男はその老齢にもかかわらず熱心に通いつめ、言葉を尽くして説得に努めたが、しかし、飛沫は天才ダイバー沖津白波の顛末《てんまつ》を知っている。帰郷後のみじめな姿を見て育った飛沫には、男の語る白波など脳天気な虚像としか思えなかった。 「目の前にバカでかい海がある。なんでわざわざプールで飛ぶんだ?」  飛沫が飛込み競技への嫌悪感をあらわにしても、男は忍耐強かった。 「昔は飛込みの試合も海で行われていたようだが、ダイビングプールが造られてからはそっちが主流になった。きりんの首が長くなったのと一緒でな、そのほうがなにかと好都合だったのだろう」 「海に不都合はないよ」 「しかし、海には審判員がいない。観客もいない。戦う相手もいない」 「おれは海と戦ってる」 「勇ましいな。だが、ときには人間と戦うのも悪くないぞ。君は飛込みの試合を見たことがあるか?」 「テレビで一度だけ。子供が砂場で遊んでるみたいだった」  四辺を囲まれたプール。空も雲も見えない箱。祖父はあんな狭苦しいところに押しこめられ、素質があったにもかかわらず好機を戦争にさらわれて、ただの敗者として村にもどってきた。 「おれは海でしか飛ばない。ジジイの二の舞になる気はない」  飛沫は頑として入会を拒んだ。プールだのダイビングクラブだのは自分と無縁の世界だし、一生、縁など持つまいと決めていた。男の死後、その孫娘——麻木夏陽子が突然、目の前に姿を現すまでは。 「つまり、あなたは怖いのね」  おれは祖父とちがうし、海を離れる気もない。そもそも飛込み競技になどまったく興味がない。いつもと同じ文句ではねつけた飛沫に、夏陽子は挑発的に言ったのだ。 「海を離れるのが怖い。新しい世界へ踏みだすのが怖い。あなたがおじいさんと積みあげてきたものを壊されるのが怖い」 「どういう意味だ?」 「伝説の天才、沖津白波の孫。海でしか飛ばない幻のダイバー。たしかにかっこいいわよね。ここにいればあなたはいつまでも幻でいられる。だれに負けることも落胆されることも、失敗して嘲笑《ちようしよう》をあびることもない。なにも危険を冒してまでプールへ行くことないわよね」 「ジジイはべつに危険を冒そうとして東京へ行ったわけじゃない。そこへ行けばなんかすごいことがあると思って、期待して、わくわくして行ったんだ。でも、何もなかった。ジジイには何も残らなかったし、ジジイも何も残せなかった」 「残したわ。たとえメダルや記録は残さなかったとしても……」 「人の記憶に残した、なんて言うなよな」  飛沫は笑い飛ばした。 「記憶に何を残しても、形がなけりゃダメなんだ。目に見えなきゃ負けなんだ。村のやつらがいやみたっぷりに建てた二宮金次郎の銅像を見りゃわかる。見えなきゃ、負けなんだ」  白波の過去をまっこうから否定する飛沫に、 「じゃあ、見せてあげる」  夏陽子が決然と言い放ったのは、このときだった。 「あなたのおじいさんが残したもの、私が見せてあげるわ」 「なに?」 「ただし、あなたが私の祖父の残した願いをかなえてくれるなら」  再び踏みしめた十メートルの台上で、飛沫はその日のことを思い起こしていた。  結局のところ、自分は夏陽子にまんまと釣られたのだろう。挑発され、餌をまかれて、食いついた。そうして引きずりこまれたプールの世界は、意外なことに飛沫が思っていたよりも、深かった。  後半戦に突入した選考会。この試合に勝って北京へ行けば、もっと深い何かが見えてくるのだろうか?  すでに自由選択飛びの一回目を終えた上位陣は皆、めだったミスもなく慎重に点を重ねていた。そんな中でひときわめだっていたのは、難易率3・2のスーパーダイブに挑み、こっぱみじんに玉砕《ぎよくさい》した炎のジローだ。天ぷら油に落ちる海老のごとく墜落した天下無敵のスーパーミスダイブは感動的ですらあった。なるほど、ここまで潔く失敗すればかえってすがすがしいだろう。飛沫は妙に感心し、自分の前半戦を後ろめたくさえ思った。  たしかに自分は恐れていたのかもしれない。  初めての試合を。  プールを。  ジャッジを。  観客を。  ライバルを。  海にはないすべてを。  未知の一歩を。  ずっと恐れていたのかもしれない——。  そんな自分を認めたとたん、ふっと体が軽くなった。全身からよけいな力がぬけ、必要な力だけがシンプルに残った。  今なら飛べる。飛べそうな気がする……。  飛沫は威勢よく助走を駆けぬけ、プラットフォームの先端を力まかせに蹴《け》りつけて、飛び立った。  前宙返り一回半二回ひねり自由型。  得意な第五群を後半戦の初回に置いたのは夏陽子の作戦だ。良質の筋肉をたくわえた飛沫の体が縦の回転を刻むとき、大気は竜巻に襲われたかのごとく渦を巻いて震える。閉ざされた会場にそこだけ風が起こる。野性の薫る潮風。津軽の海の匂いだ。  だれもが一瞬、時や空間を忘れた。  そして飛沫の吹きあげた盛大なスプラッシュに、再び我に返った。  いつにも増して荒々しい入水。会場に爆音さながらの地響きが駆けぬけ、高々と水柱が立ちのぼる。全力で飛びこみ、入水も美しくまとめるほど、飛沫はまだセービングの技術に長《た》けてはいなかったのだ。  しかし、それは覚悟の上。ありったけの力を吐きだした飛沫はさばさばした気分で水から上がった。プールサイドのライバルたちがあっけにとられている中、炎のジローだけが握手を求めてきたのが印象的だった。  あっけにとられていたのはライバルだけじゃない。この回、電光掲示板に得点がでるまでに時間がかかったのは、飛び散ったしぶきをまともに浴びたジャッジ陣の当惑のせいだろう。前半戦とは打って変わった飛沫の演技に混乱していた彼らは、頭の整理がつかないままにコンピューターのキーへ指を這《は》わした。現れた結果は予期した以上に厳しいものだった。  5点。  5・5点。  4・5点。  6点。  4・5点。  4点。  5点。  得点36・75点。  この回で飛沫は一気に四位へ転落した。  会場のあちこちで小さなため息がもれたが、しかし飛沫がふりむくと、夏陽子は満面の笑顔で親指を突きたてていた。  波乱ぶくみの幕開けとなった自由選択飛び。その後も試合は一進一退の激動をくりかえした。  飛込みとは一瞬の気のゆるみが命とりになる競技であり、たとえ上位についていても、そこからいつ転がり落ちるかわからない。そのいい例がピンキー山田だった。  やや集中力の薄れてくる自由選択飛びの第三回。逆立ち前宙返り一回|蝦《えび》型に挑んだピンキーは、プラットフォームの先端に両手をつき、下半身を押しあげようとしたところでバランスをくずし、両足を台にもどしてしまった。失敗。選手はこの時点で2点の減点を受け、改めて「立ち直し」をすることになる。  この立ち直しにあせりは禁物だ。乱れたリズムを修正し、落ちついて演技をやりなおすために、選手は一度、起立の体勢にもどって頭を冷やしたほうがいい。とはいえ、出鼻をくじかれた選手の動揺は大きく、わかっていてもなかなかこの「間」が置けないのだ。ピンキーもご多分にもれず、気の逸《はや》りから台につけた足をすぐさま再び押しあげてしまった。  不安定な体勢のまま宙に浮いた下半身は、腰のあたりから頼りなくふらつき、それでもなんとか上をめざすのかと思いきや、ぽきっと枝が折れるように腕からくずれおちた。  二度目の立ち直しにより、彼の演技はこの時点で0点。スタンドから黄色い歓声を飛ばしていた女子高生たちが、いきなり地声でジャッジ席にブーイングを送りはじめた。  こうしてピンキーは下位へ転落し、代わりにじわじわとスコアを伸ばしてきたのが慎重派の松野と辻だった。ぶっちぎりでトップを守っていた要一をはじめ、やはり試合慣れしたベテラン陣は勝ちかたを知っている。  知季も引きつづき好調を保っていたものの、ここにきて難易率の差が徐々に響いてきた。麻木夏陽子の指導を受けはじめてまだ五か月、しかも相手は年上の強者《つわもの》ぞろいである。そんな中で五位以内に留まっていたのは、それだけで大変な快挙といえたが、三位以内に入らなければ合宿参加の望みはない。  一方、津軽の野生児はその後も怖いもの知らずの大スプラッシュを連発し、確実に順位を落としていった。が、それでも四回目の演技が終わった段階でまだ六位につけていたのは、彼の空中演技にそれだけの底力があったからだろう。 「これで入水もまとめてりゃ、二位は楽勝だったのに。いい思い出を残してやれたんだが……」  スタンドで未練を引きずる大島に、夏陽子はぴしゃりと言い返した。 「思い出なんてほしがらないわよ、あの子は」 「記録にも残る」 「紙の上のスコアなんてあの子は信じない。ね、それより……」  大島の沈んだ声色とは裏腹に、夏陽子の顔にはこれからはじまるショーを待ちわびる子供のような輝きがあった。 「気がついてる? さっきから沖津くんの番がまわってくるたびに、このうるさい場内が一瞬、静まるのよ。メインプールの人たちが動きを止めてあの子を見つめてる。あの子に惹《ひ》きつけられている」  大島がはじかれたように目をやると、五回目の演技に現れた飛沫を、たしかにメインプールにいる一般客の半数以上が見上げている。 「自由演技に入ったころからよ。一回目よりも二回目。二回目よりも三回目。注目は伝染して、あの子を見つめる瞳《ひとみ》はどんどん増えていく。沖津飛沫……やっぱり恐ろしい子だわ」  そのとき、試合中はめったに口をきかない富士谷コーチが横からぼそりとつぶやいた。 「水に映える選手がいる。まるで水の粒子がその子にだけスポットライトを浴びせているように、だれもがその選手に注目せずにいられない。水に愛されているのか……」  水に愛された男の第五回。  飛沫の体がまたもや水面に大波を起こすと、メインプールの一般客からほうっと大きなどよめきが起こった。  そのどよめきが要一の闘志に火をつけたのだろうか。  第六回。最後の自由選択飛び。むだな贅肉《ぜいにく》のかけらもない肢体《したい》を台上に現した要一は、本来は笛の音とともに踏みきるタイプであるにもかかわらず、この回はいつになく精神統一に時間をかけていた。  恐らく彼は気づいたのだろう。メインプールから飛沫を見つめる人々の姿に。トップの自分にはそそがれない視線に。  しかし、ここで腐らないのが要一のすごさである。嫉妬《しつと》や屈辱。波のように襲いくるそれらを、要一は精神力ではねかえした。そのくやしさをにごりのないエネルギーへ転化し、最後の最後で最高の演技を見せつけたのだ。 「リップ・クリーン・エントリー!」  後踏切前宙返り二回半蝦型。難易率2・8のその技を軽々とこなした要一の体が水中へ消えると、普段は冷静な富士谷コーチまでも思わず驚愕《きようがく》の声を上げた。 「あいつ、いつのまにこんなことを……」  リップ・クリーン・エントリーとは、微塵《みじん》も音を立てない、闇夜を裂くような入水を指す。ノー・スプラッシュのはるか上をいく最高の技術だ。海外のトップ選手でもめったに見せないこの入水を、要一はこのとき、初めて表舞台で成功させたのだ。  9点。  9点。  10点。  9・5点。  10点。  9・5点。  10点。  電光掲示板に三つの満点がきらめき、要一はこの時点で不動の一位をものにした。  その後も選手たちが次々と最後のエントリーに臨んだものの、要一の演技のあとのせいか、いまひとつ冴《さ》えない得点が続いた。  十一人目までが最終演技を終えた時点での、トップスリーはこの三名。  富士谷要一 550・23点。  辻利彦 439・91点。  松野清孝 438・59点。  松野は最後の最後で痛恨のミスをして、セコくのしあがってきた辻にぬかれた。  ちなみに、最後の演技を残した飛沫の五回目までの合計得点は、337・61点、知季は378・73点だ。飛沫はすでに圏外だが、知季は最終演技で59・86点以上をだせば松野に、61・18点以上を出せば辻に追いつき、三位以内に食いこむことができる。  その知季がラストにもってきたのは、いちかばちかの大勝負。  前飛込み前宙返り三回半抱え型——。  難易率2・7のこの技で知季が三位以内に入るために必要な平均点は、約7・4点である。  ついひと月前、この三回半がどうしてもできずに悩んでいた顔とダブらせながら、飛沫は台上の知季をふりあおいだ。見たところはふつうの中学生で、実際、中身もふつうの中学生である知季だが、ひとたびその体を空中に放れば、ちかちかと非凡な何かをきらめかせる。知季の最大の欠点はその非凡さを自覚できていないところだが、今、十メートルの高みに堂々とたたずむ彼はいつにない自信を帯びていた。知季は自分の才能をようやく受けいれたのかもしれない……。  知季はくいっとあごを上げ、鳥を追う猫のように助走を駆けぬけると、ふわりと宙に浮きたった。重力を感じさせない跳躍。二重関節のもたらすしなやかな身のこなし。多くの選手が力で体をねじこむように宙返りをするのに比べ、知季の回転には高いところから落ちたらただなんとなくまわってしまったというような天性の軽やかさがある。それは彼の秀でた動体視力によるところが大きいのだが、知季はその天分をいかんなく発揮し、観ている者までが宙に浮きたつような三回半を見事にまわりきった。  最後の入水は細かいブレがあった。  そのせいでいくらか水しぶきが上がった。  しかし、なにはともあれ中二の知季が公式戦で三回半を成功させたのだ。  水から上がった知季が、「やった!」という顔をスタンドの夏陽子にむける。  無名中学生の快挙にライバルたちがどよめく中、やがて電光掲示板に運命の得点が表示された。  8点。  7点。  7点。  6・5点。  7・5点。  8点。  6点。  得点、58・32点。  眠れる獅子《しし》はまだ目覚めて間もない。いったん覚醒《かくせい》すればどこまでも突進していきそうな勢いを感じさせながらも、知季はわずか1・54点の差で三位入賞を逃した。  そして十五番目、飛沫の最終演技——。  飛沫はとうに合同合宿への参加権など捨てていた。もはや順位にも興味がなかった。上位入賞の望みとともに勝負へのこだわりは消え、飛沫の中には今、自分の持ちうるすべてを燃やしつくそうとする胸の高まりだけが残っていた。  試合後半からほとんど麻痺《まひ》した状態の腰をなだめすかし、あと一本、これでラストだと自分を奮わせて十メートルの階段を上る。その頂上にたどりついたとき、飛沫は思いがけない光景を眼下に見下ろした。  メインプールの一般客たちが拍手で彼を迎えていたのだ。  小さな子供たちも。  若いカップルも。  高校生のグループも。  ダイエットめあてのおばさんも。  ゴーグルをつけた熱心なスイマーも。  水中ウォーキング中の老夫婦も。  プールサイドの監視員さえも。  趣味や遊び、運動不足解消のために来ていた人々が、その本来の目的を忘れ、あるいはこの一時《いつとき》だけどこかへ追いやって、台上の彼に見入っていた。好奇心と期待、そして憧憬《どうけい》の入り混じった視線。さっきまではバラバラだった何か———そして一寸先には再びバラバラになるであろう何かが、今、ひとつになって自分へむかってくる。  ぞくっとした。  赤潮に燃える海を見るようだった。  そこで異常な何かが起こっている。起こしたのは自分だ。そう思うと体の芯《しん》が熱い。言葉にならない衝動がこみあげて、演技開始のホイッスルが待ちきれないほどだ。  ——血管がね、満ち潮みたいになって血が暴れだすの。体が熱くなって、力がみなぎって、今の自分ならなんでもできそうな気がする。  飛沫は初めてMDCを訪れた日、夏陽子に突きつけられた言葉を思いだした。  たしかに、今の自分ならなんでもできそうな気がする……。  大きく息を吸いこみ、両腕を広げた。ひざをかがめて弓のようにはずませた。人々の熱い注目を背に、飛沫はその巨体を宙高くはねとばした。  後踏切後宙返り二回半|蝦《えび》型。  二十五メートル四方のプール上で、褐色の肢体が稲妻のような燐光《りんこう》を放つ。  その大きさ。その高さ。その力強さ——。  午後の陽がさしこむ会場は静まり返り、観衆と化した一般客たちは微動だにせず息を殺していた。  完全燃焼。  その驚異的な脚力でこの日、最も天井に近づいた男は、回転を終えて水面へと急降下しながら、ジジイのやつ、と心の中でつぶやいていた。  ジジイのやつ、この快感を知っていやがったな……。 [#改ページ]   4…FINAL RESULT 「おい、マッサージしてやるよ」  その夜、試合後のほてりと高揚を引きずっていた飛沫の腰を、大島は丹念にもみほぐしてくれた。 「これまでもな、おまえがしんどそうにしてるのを見るたびに、なんかしてやりたいって衝動と闘ってたわけだよ、おれは。腰をもめずに気をもんでたってわけだな、はは」 「知ってて、なんで黙ってた?」 「麻木コーチに釘《くぎ》を刺されてたんだ、今日の試合が終わるまでは黙ってろって。理由は言おうとしないけど、きっとなんか思うところがあるんだろうって、富士谷コーチがさ。富士谷コーチはあの娘に弱いから」 「あいつが元ミズキ会長の孫だからか」 「いや、あの娘にコーチとしての天分があるからさ。少なくともおれの数倍は、な」  乾いた笑いを立てながら、大島は腰の方々を親指で押さえ、「ここは痛むか」「ここは?」などと問いかけてくる。そのたびに飛沫は「イッ!」と大きく身をよじった。 「ひどいもんだな。いつからだ?」 「ジジイが死んで一、二年経ったころ。今から思うとジジイは慎重だったよ。やたら高いところから飛びたがるおれを、もう少し待てっていつも制してた」 「体への負担を考えて、おまえの成長を待ってたんだろうな」 「なあ、ジジイがおれに基本種目しか教えなかったのも、そのためだと思うか?」 「たぶんな。飛込みの技は高度になるほど危険度が増すし、おのずと失敗率も上がる。失敗は多かれ少なかれ体を痛める原因になる。時代柄、セービングの技術がぬけてたのはやむをえないとして、おまえの言うとおり、沖津白波はかなり慎重だったよ。おまえを長い目で育てようとしていた」 「何に?」 「きくなよ、ボケ。おまえも今日の試合でちっとはじいさんの気持ちがわかったんじゃないのか」  飛沫が黙りこむと、大島はその背中をぽんとたたいて腰を上げた。 「とにかく、まずは医者に行くことだな。今後の対策はそれからだ」 「……たら」 「あ?」 「合宿メンバーが決まったら行くよ。今はなんとなく、落ちつかない」  消えいりそうなその声に、ドアへと足をむけかけていた大島が止まった。飛沫をふりかえるその目にはいつにない憂いが宿っていた。 「期待するなよ、飛沫。合宿メンバーの決定は明日の板(飛板飛込み)の結果を待ってからだが、ハイ(高飛込み)一本で、しかも七位のおまえに勝ち目はない。奇跡でも起こらないかぎりは、な」  忠告しながらもその声にいまひとつ力がなかったのは、現役選手ならだれしも、たとえ最下位に終わった者でさえ、その奇跡を願わずにいられないことを知っていたからだ。 「期待なんかしてねーよ。ただ落ちつかないだけ。べつに、もともと北京なんか行きたかないし」  飛沫の強がりを背に、大島は静かに部屋の戸を閉ざした。  大島自身、明日の飛板飛込みの試合でとてつもない番狂わせが起こることを祈っていたが、しかしそれはついに起こらなかった。 『八月に中国北京で開かれるアジア合同強化合宿。その参加権を巡る選考会が二十九日と三十日、東京辰巳国際水泳場にて行われた。男子高飛込みの部、男子飛板飛込みの部ともに制したのは、桜木高校へ通うミズキダイビングクラブ所属の富士谷要一くん(十六)。二位以下に大差をつけて圧勝した富士谷くんは、「高校総体も日本選手権も捨ててこの大会に賭《か》けた。賭けるほどの試合でもなかったけど」と余裕の笑みを広げた。尚、男子高飛込みの部の二位は辻利彦くん、三位は松野清孝くん。男子飛板飛込みの部の二位は松野清孝くん、三位は辻利彦くんと続いた。女子の部は……』  三十一日の朝、某スポーツ紙の片隅を飾った記事が伝えたとおり、飛板飛込みの部でも要一は会心《かいしん》の演技を披露して快勝。その実力を見せつけ、オリンピックの有力候補との前評判を勝ちとった。また、二位と三位の入れかわりはあるにしろ、それに続く松野と辻の顔ぶれもかわらず、結局のところ高飛込みも飛板飛込みも三位以内は同じ面子《メンツ》で占められたことになる。これは、高飛込み一本に賭けた飛沫と知季には不利な展開だった。  アジア合同強化合宿に参加できるのは、男女各三名。順当にいけば、高飛込みでも飛板でも安定した成績を残した要一、松野、辻の三人が選出されるのは目に見えている。  実際、だれもがその人選を予期していた三十一日、日水連の選考委員会は協議の末に合宿メンバーを内定した。はずだったが、ここでなんらかのハプニングがあったと思われる。  というのも、日水連はその日、なぜだか内定の発表を見送り、翌日に再び選考委員会の招集をかける、という不可解な動きにでたからだ。  再度にわたる会議の結果、改めて正式な決議がなされたのが八月一日の午後。三十一日から一日にかけて何が起こっていたのか、もちろん選手たちには知らされていない。MDCの飛沫たちもその間、妙に落ちつきのないコーチ陣を横目に黙々と練習に打ちこんでいた。じっとしていられなかったのだ。  そしてついに、一日の夜。日水連からの通知を受けた富士谷コーチから、飛沫、知季、要一、レイジ、陵の五人に招集がかかった。  すでにその日の陸トレを終え、帰り支度をしていた五人が視聴覚室へむかうと、そこにはいつになく厳しい富士谷コーチと夏陽子の顔があった。  飛沫はその前夜、めずらしく深酒をして帰ってきた大島に、 「いいか、飛沫。アメリカにはな、大学から飛込みをはじめて、オリンピックで金メダルをとった選手だっている。おまえはまだ高二だ。いったんゼロにもどったって、それだけの素質があればいくらでもやりなおせるんだぞ」  などとへんな励ましを受けたのを思いだし、不穏な胸騒ぎを覚えた。 「先程、日水連より合宿メンバーの最終的な発表があった」  飛沫ら五人が着席すると、富士谷コーチはおもむろに口火を切った。  午後七時。生暖かな風を吹きこむ窓のむこうは、すでにおぼろな闇に沈んでいる。まだ夏のさかりだというのに太陽は少しずつ早仕舞をはじめ、それはMDCの彼らにめぐりくる長い冬を思わせた。どのみち合同合宿への代表選手に選ばれないかぎり、彼らの夏はここまでだ。一年間、秋も冬も春も地道に練習を重ねてきたその成果が、ひと夏の一瞬に泡と散る。わずか一・四秒で運命がゆれうごく。  メンバー入り確実とだれもが認める要一は、一刻も早くそれを知りたいと急《せ》いた瞳《ひとみ》で父親をせっついていた。  飛沫は腿《もも》に置いた拳《こぶし》をかためて床をにらんでいた。  知季は心持ち瞳を潤ませて富士谷コーチを見つめていた。  レイジはさほど構えたところもなく、ただその結果を静かに見届けようとしていた。  最も落ちつきがないのは陵だった。床を踵《かかと》で蹴《け》ったり、きこえよがしなため息を吐いたりと、片時もじっとしていなかった陵は、富士谷コーチの発表を待たずして堪えかねたように席を立った。 「やっぱおれ、帰ります」 「なに?」 「おれは絶対、選ばれない。それくらい自分でもわかってっから」  そっけなく言い、出口へむかっていく。  夏陽子がその背中を呼びとめた。 「待ちなさい。今まで一緒に練習してきた仲間よ。だれが選ばれたのか知りたくはないの?」 「知ったら、くやしくて、またやめられなくなる」 「なにを?」 「飛込み」  皆が一斉に陵をふりむいた。 「陵!」 「飛込み、やめる気か?」  知季とレイジの呼びかけにも応えず、陵は足早に廊下へと立ち去っていく。  この夏のすべてを賭けた選考会で、高飛込みでも飛板飛込みでもぶざまな惨敗をした陵。プライドを打ちくだかれたその後ろ姿を、この大事な局面でなかったらだれかが追っていたかもしれない。あるいは、やはりだれも追わなかったかもしれない。長年この過酷な競技に携わっていると、飛込みをやめることと続けることと、どちらが仲間を苦しめるのかわからなくなってくる。 「ああいう子だ。しばらくそっとしておこう」  小さいころから陵を見てきた富士谷コーチが言った。 「話をもどそう。代表選手の発表だ」  室内に再び緊張が走る。 「日水連の代表選考委員会は、告知通り、男女各三名を北京へ送ることに決定した。男子の一人目は……」  富士谷コーチの目線がその名の主を示した。 「一人目は、富士谷要一」  要一の呼吸が止まった。 「おめでとう。選考委員会は全員一致できみを一人目のメンバーに決定した。ハイと板、ふたつの優勝は大きかったな」  長く呼吸を止めたままでいた要一は、窒息する直前で大きく息を吸いこみ、空気の味でも噛《か》みしめるようにまた止めた。紅潮していた頬は何度か深呼吸をくりかえすうちに平常の色をとりもどしていった。 「そして二人目は、ハイで三位、板で二位の松野清孝に決まった。堅実で安定した演技とキャリアが評価されたようだ」  富士谷コーチの声が続き、これまで微動だにしなかった知季の首がぐらついた。  飛沫は右手の拳で無意識に腿をこすっていた。  残された北京行きのチケットは、あとひとつ。  ひんやりとした沈黙が部屋を支配する。 「そして三人目は、ハイで二位、板で三位の辻利彦……となるはずだった」  ところが、と富士谷コーチは言った。 「中国の孫コーチがこれに反対した」 「孫コーチが?」 「日水連が孫コーチの助言をあおいでいることは麻木コーチにきいただろう。君らに言うとかたくなると思って黙っていたんだが、孫コーチは今回の選考会にもいらしてたんだ。いや、孫コーチの来日に合わせて日水連が試合日程を組んだと考えるほうが自然だろうな」 「孫コーチが、試合に……」  一同の顔に感動とも畏《おそ》れともつかないわななきが走った。  アジア随一の名指導者と謳《うた》われる孫コーチ。雲の上——いや、宇宙のはてのような存在であったその人が、あの日、自分たちのダイブを見ていた……。 「あの日の試合内容を検討した上で、孫コーチは辻の選出に猛反対をした。あれでは世界に通用しない、とな。いくら作戦とはいえ、五メートルと七・五メートルを行き来する選手など国際試合にはいない。世界レベルの舞台で競り合う力が辻にはないんだよ。ならば成績よりもむしろ未知の可能性に賭けるべきじゃないか、と孫コーチは説いたんだ」  未知の可能性。  その一言に、飛沫も、知季も、レイジまでもが一縷《いちる》の望みをつないだ。 「日水連の選考委員会はその考えに従った。三人目の合宿メンバーは、事実上、孫コーチの一声で決定したと言ってもいい。無論、孫コーチはこれまでも数々の有力選手を見いだしてきた慧眼《けいがん》を持っているからして……」 「いいから、早くその三人目を教えろ」  飛沫がいらだちの声を上げた。  ふだんはどんな話も我関せずという顔で流している飛沫に、知季やレイジが驚きの目をむける。飛沫自身、ふいにこぼれた自分の声をいぶかっているようだ。  ただ一人表情を変えず、疲れのにじむ瞳を飛沫へむけていたのが富士谷コーチだった。 「君だよ」 「は?」 「孫コーチは、君を三人目の合宿メンバーに推薦した」  鼻先で拳銃《けんじゆう》でも暴発したかのように、飛沫がぴくんと顔を上げた。  しかし、話はまだ終わっていなかった。 「だがな」と、富士谷コーチは哀しげに続けたのだ。「だが、我々はその内定を辞退したんだよ」 「なに?」 「日水連から内定の連絡を受ける前から決めていた。大島コーチや麻木コーチと何度も話しあい、万が一、沖津が合宿メンバーに選ばれることがあっても、今の君には無理だろうとの結論を下していたんだ。その旨を日水連に伝えたところ、彼らは即刻、三人目の代表を決めなおした。孫コーチが次に推薦したのは、君だよ」  今度は知季の鼻先で火薬がはじけた。 「坂井知季。三人目の代表選手は君に決定した」  ぽつん。ガラスのように危うげな飛沫の横顔を映しだす窓を、一粒のしずくが伝っていった。忽然《こつぜん》と降りだした雨が瞬く間にその音を強めても、開け放たれた窓から吹きこむ雨粒を気にする者はいなかった。 「どういう……ことですか」  最初に口を開いたのは知季だった。 「孫コーチは沖津くんを選んだんでしょ? なのになんでぼくが……」 「たしかに孫コーチは沖津を選んだ。沖津の破格なスケールに新たな息吹を感じた、とな。その直感ははずれていないと私も思うよ。だが、しかし……」 「あの日の試合を観ただけの孫コーチには、沖津くんの故障までは見抜けなかった」  言いづらそうに語尾をにごした富士谷コーチに代わり、夏陽子が話を引きついだ。 「沖津くん、あなたの腰……自分でもわかっているわよね。今のあなたに合同合宿への参加は危険すぎるわ。孫コーチの特訓は毎年、脱落者が続出するほど厳しいと言われてる。そんなところでますます腰を悪化させるより、今は日本での治療に専念すべきだと私たちは考えたの」 「腰?」  要一がはじかれたように飛沫をふりむいた。 「腰を痛めてるのか?」  飛沫は答えずに床をにらんでいる。  雨音がさらに強まった。あるいは室内の沈黙がそう錯覚させているのかもしれない。夏陽子も富士谷コーチも要一も、だれもが息をひそめて飛沫の反応を待っていた。まるで彼がいつ暴れだすのかと恐れているかのように。  しかし、飛沫は海底の錨《いかり》にでもなったように動かず、意外にも、暴れだしたのは知季のほうだった。 「いやだよ、おれ、沖津くんの代わりなんて、絶対、いやだ」  自分の置かれた状況を呑みこんだとたん、知季は猛然と抗議にでた。 「こないだの試合のあと、みんなは四位ですごいとかほめてくれたけど、おれ、すごくくやしかった。試合に負けるのがあんなにくやしいなんて知らなかった。くやしくてくやしくて眠れなかったよ。だって要一くんはぶっちぎりのトップでおれなんか全然歯が立たなくて、観客はみんな沖津くんを見てた。メインプールにいた人たちまで、いつのまにか沖津くんの観客になってた。要一くんも、沖津くんも、すごすぎるよ。でも、おかげでわかったんだ。おれだってがんばったけど、まだ足りない。まだまだ足りない。だから今は、沖津くんの代わりに北京なんて行くより、もっと地道に練習して、力をつけてから世界に……」 「甘いわね」  夏陽子がぴしゃりとはねかえした。 「たしかにあなたには足りないものがごまんとある。それを少しでも早く埋めるために北京へ行くんじゃない。日本にいるより合宿へ参加したほうが上達するに決まってるでしょう。富士谷くんや沖津くんに負けてくやしかったなら、むこうで少しでも多くを学んでらっしゃいよ」 「でも……」 「忘れないで。あなたにはダイヤモンドの瞳《ひとみ》があるのよ。今はまだその原石を磨きはじめたばかりで、たしかに富士谷くんや沖津くんにはおくれをとっているかもしれない。でも、半年後のことはだれにもわからないわ」 「けど……」 「北京へ行きなさい」  知季の頭は夏陽子の言う意味を理解していた。けれど、心のほうがどうしてもうなずこうとしない。 「でも……やっぱりいやだよ、沖津くんの代わりに行くなんて」  知季はつぶやき、まだ何か言いたげな夏陽子から逃げるように席を立った。 「とにかく、ぼくはいやだ」  だれにともなく言い残し、小走りに視聴覚室をあとにする。陵のときとちがうのは、そのすぐあとを要一が追っていったことだ。  足音の消えた室内には、富士谷コーチと夏陽子、飛沫、レイジの四人だけが残された。 「仲間を踏み台にはできない、か。あれがあの子の命とりにならなきゃいいんだが」  富士谷コーチの弱気なつぶやきに、 「坂井知季は北京へ行きます。必ず」  夏陽子は強気に言い返し「ところで……」と飛沫へ目を移した。 「沖津くんと二人で話をさせていただけますか」 「ああ、そうしなさい。それがいいよ」  力なく廊下へ立ち去った富士谷コーチは、後ろからひっそりとついてくるレイジの気配に気づくなり、数歩、引きかえしてその肩に手をのせた。 「ごくろうさん。君にはつらい結果だったな」 「勝負の世界ですから」  レイジの返事は簡潔だったが、その目には暗いものが沈んでいた。 「でも、ときどき思います。六人でやるバレーとか、九人でやる野球とか……みんなで戦ってみんなで勝てるスポーツはいいな、って」 「みんなで戦ってみんなで勝てる、か」  富士谷コーチの目にも同じものが沈んでいた。 「そうだな。それはいいな……」 [#改ページ]   5…WHERE TO GO?  雨は一時の夕立だったのだろうか。激しく降ってすぐにやみ、何事もなかったように通りすぎていく。この部屋に来てからもうどれくらいになるのだろう。さほど時間は経過していないはずなのに、二人きりの視聴覚室には深夜のような静寂が降り積もっていた。  足下の暗がりからひたひたとよせてくる、真夏の夜の特別な匂い。けれどそこには故郷の夏ほど強烈な香気はない。  まだ若い草の匂い。湿った土の匂い。肌に染み入る日向《ひなた》の匂い。さすらう野良犬。だれかが道端に落としたアイス。ぱっかり割られた海辺のスイカ。花火の火薬臭。虫の死骸《しがい》。そのすべてに、死骸にまでもみずみずしい命が宿っていた、津軽の夏——。  浮かんでは消えるそれらを追いながら、しかし夕立のあとだけは都会も故郷も同じ匂いがする、と飛沫はなんの気なしに思った。  思考があっちこっちに飛ぶ。今、考えねばならないことがほかにあるのはわかっているけれど、どうやら自分はそれを考えたくないらしい。回避せよ。目をそらせ。脳が指令をだしている。  しかし、相手は麻木夏陽子だった。二人きりになるなり目の前にパイプ椅子を運んできて腰かけ、根比べのように無言で額を突きあわせている彼女の肝《きも》のすわりかたを見るにつけ、たとえ自分をごまかせたとしてもこの女からは逃げられない、と飛沫の心はあきらめへかたむいていく。 「本当は、あなたに相談してから決めるべきだった。それはわかってるわ」  沈黙をやぶったのは夏陽子が先だった。 「でも、相談すればあなたは、どんな無茶をしてでも北京へ行こうとしたでしょう? そんな自殺行為をさせるわけにはいかなかった。たった一度の合宿のために、ダイバーとしての未来をだいなしにするリスクを負わせるなんてできないわ」 「そのたった一度の合宿が、オリンピックへのたったひとつの近道じゃなかったのか?」 「オリンピックは来年だけじゃないわ。五年後にも、九年後にもめぐってくる」 「つまり来年は絶望的ってことか。おれの腰はそんなに悪いのか?」 「それは専門家に診てもらわなきゃわからない。ただし、その損傷がどの程度であれ、いったん痛めた腰を完治させるのは難しいと思うわ。あとはその腰とどう折りあいをつけていくかってことよ」 「折りあい?」 「それ以上悪化させないようにだましだまし練習していくってこと。その状態で新しい技にはとりくめないし、はっきり言って今のあなたに三回半はまわれない。それよりも、今は少しでも腰への負担を減らすために、セービングを完全にマスターすることが先決ね。それでも痛みはきっとついてまわる。そうして腰痛と闘いながら活躍している選手は少なくないけど、問題は、あなたがそれに耐えられるかよ」 「……」  知季に教えた三回半を夏陽子がなぜ自分には教えなかったのか、その理由を今、飛沫は初めて理解した。そしてその理解は彼の絶望を深めた。  新しい技に挑むのはダイバーの本能だ。スイマーがより速く泳ごうとするように、ダイバーはより高度な技で飛ぼうとする。それを奪われた自分に何が残るというのか? 「本当は、もっと早くこうして話をするべきだったのよね」  夏陽子の声はいつになく憐憫《れんびん》の色を帯び、それもまた飛沫を絶望させた。 「その腰の問題を知ったときから、いつかはこうして話しあわなきゃならないとわかっていた。でも、怖かったのね。言えば、あなたは飛込みをやめて津軽へ帰ってしまう気がした。だから私は賭《か》けにでたの」 「賭け?」 「あなたにこの話を切りだすのは、合宿メンバーの選考会を待ってからにしてほしいって富士谷コーチにお願いしたのよ。厳しい現実を突きつける前に、一度でもあなたに試合を体験させたかったから。私は賭けたの。あなたがあの試合で一瞬の快感をつかむことができるかどうか」 「一瞬の……快感」 「もしもそれをつかんだら、あなたはその後の長い試練にも耐えられる。一瞬の快感のためにやっていけると信じたのよ」  教えて、と夏陽子はささやいた。 「あなたはあの日、一瞬の快感をつかまえたの?」  飛沫は否定も肯定もしなかった。  しかしその心は正直に答えていた。  感じた。  たしかにあの日、一瞬の快感に包まれて燃えた。  メインプールからの歓声。拍手の波。不特定多数の視線に負けじと鼓動を整え、ふだんの自分を死守して気力を奮いたたせ、すべてをだしきって飛翔《ひしよう》する爽快《そうかい》さ。そこには海にはない何かがたしかに存在した。自分を圧倒し、魅了したその何かを、再び味わいたいと飛沫は渇望さえしたはずだ。それも、できるならばもっと大きな舞台で、もっともっと大きな快感を——。  あれだけプールを毛嫌いしていながら、どうやらおれはたった一度の試合で飛込みの魔術にやられてしまったらしい。自分の単純さにあきれつつ、飛沫は自分の胸奥に無視することのできない願望がめばえたことも認めていた。願わくは北京へ行きたい。いや、その先のシドニーまで突っ走りたい、と。  しかし、そのためにはより高度な技の修得が不可欠であることも承知していたのだ。 「教えて。あなたは一瞬の快感をつかんだの?」  腰を壊したのはあくまでも自分の責任だ。執拗《しつよう》に問いつづける夏陽子を、飛沫はべつにうらんではいなかった。が、自分の知らないところで勝手に物事を進める彼女のやりかたには、いつもながらむかつきを抑えきれなかった。 「おれはこれまであんたとの契約のために、あんたの言いなりになってきた。上京しろと言われれば上京したし、練習しろと言われれば練習した。試合にでろと言われれば試合にでた。だから北京行きを辞退しろと言われれば、辞退するよ」  ただし、と飛沫は言った。 「ただし、これからはちがう。故障を抱えたおれに来年のオリンピックは狙えない。あんたとの契約をはたせなくなった以上、もう利用価値もないわけだろ。あんたももうおれにかまわず、富士谷や坂井に望みを託せよ」 「まったく希望が消えたわけじゃないのよ。北京へ行けなくたって、根気強く治療と練習を続ければオリンピックに間にあう可能性だって……」 「とにかく」  飛沫はもう何もききたくないというふうに話を打ち切った。 「しばらく時間をくれ。これから先のことはおれが決める」  一瞬の幻と化したアジア合同強化合宿。  大人の男ならこんな夜、やけ酒を飲んでぐでんぐでんになって我をなくして、ようやく家に帰れるのだろうか。酒が苦手ならパチンコという手もあるし、賭事が嫌いなら風俗という逃げ場もある。人はいやでも年をとるのだから、飛沫はこれまで「早く大人になりたい」などとせっかちな考えは抱いたことがなかったが、この日は初めて未成年であることを不便に感じた。  しかも、行き先を探しあぐねた末にやむなく帰宅した飛沫が目にしたのは、なんとも言えずシュールな光景だった。  狭苦しいダイニングキッチンの卓上に、エプロン姿の大島がコンロをセットし、すきやきの準備にいそしんでいたのだ。  男二人の同居である。長らく手料理から遠ざかっていたのはもちろんのこと、彼らの食卓にコンビニ弁当以外の主食がのるのも久しぶりだった。栄養のことを考え、週に一、二回は大島が野菜中心の外食につれだしてくれてはいたが、この見るからに不器用そうな男が夕食の用意などしていたのは初めてのことだ。 「不自然だよ」  まるで食欲などなかったものの、飛沫はしかたなく大島とすきやきの鍋《なべ》をはさんだ。が、合宿の件にはいっこうに触れず、芸能人のだれとだれが結婚しただの、離婚しただの、わざわざ遠いネタをふってくる大島のわざとらしさは腹にすえかねた。 「すきやきといい、その遠慮してんだかしてないんだかわかんない態度といい、あんた、かえって不自然だよ」  大島はむっとして下唇を突きだした。 「すきやきの何が悪いんだよ。せっかく奮発していい肉、買ってきたのに」 「だから、問題はすきやきじゃなくって……」 「はい、はい、どうせおれはさりげない気づかいってのができない男だよ。気のきいた文句も言えないし、料理といえばすきやきくらいしか思いつかないダメ男だ」 「すきやきは料理じゃない」 「なに?」 「肉と野菜を切って鍋にぶっこむだけじゃ、料理とは呼べない」 「じゃあ、すきやきとでも呼んでくれ」  大島はやけくそ気味に大量のしらたきをほおばり、ビールの大ジョッキでそれを流しこんでから、げぽっと腹をへこませた。 「で、おまえ、どうすんだよ、これから」 「なにが」 「なにって、あほ、飛込みのことだよ」 「それ、きかないつもりじゃなかったわけ?」 「そりゃ不自然っておまえが言ったんだろ。おれは小学生の担当だし、おまえがいやなら家庭にまで飛込みの話は持ちこまない。でも、おまえが話したいなら好きなだけ話せよ」 「これって家庭か?」 「憧《あこが》れてんだよ、おれ、バツイチで子供もいないだろ。息子との対話ってやつにさ」 「あんたの息子じゃなくてよかったよ」  にくまれ口をたたきながらも、飛沫の箸《はし》は次第に勢いづいてきた。二人は黙々とすきやきの鍋をつつき、具が少なくなるとうどんを入れてつゆにからませ、また黙々とすすった。 「医者にだけは行っとけよ」  再び大島が口を開いたのは、飛沫が食器を流しへ運ぼうと席を立ち、その瞬間に腰を押さえて目の下をひきつらせたときだった。 「合宿メンバーが決まったら行くはずだったろう」 「合宿メンバーに決まったら行くしかないと思ってたけど……」  飛沫は言いよどんだ。 「もうそんな必要もないような気がする」 「どういう意味だ?」 「……」 「おまえ、まさか……」  大島がその先を言うよりも早く、飛沫は自分の部屋へと踵《きびす》を返していた。  豆腐としらたきだけが残された鍋を前に、そのとき、大島の胸をよぎった悪い予感は、早くも翌日、リアルな形となって的中することになる。  飛沫はその日、MDCの練習を初めて無断で休んだ。のみならず、夕方になって大島が家に帰ると、きれいに磨かれたすきやき鍋の上に一枚の紙きれがのっていたのだった。 『ちと津軽に帰ります。SHIBUKI LOVE』 [#改ページ]   6…GOOD-BYE, TOKYO  ラブはよけいだったか……。  大宮駅から新幹線こまちにのった飛沫は、高速で遠ざかる景色をながめつつ、黙って家をでてきたことに少しばかりの後ろめたさを感じていた。  今ごろ桜木高校で小学生たちのコーチをしている大島は、まさか同居人が里帰りの道中にいるなど夢にも思っていないだろう。夜、仕事からもどった彼の困惑を思うと、なんだかすまない気もする。が、しかし夏陽子との契約を白紙にもどした今の飛沫にとって、東京はなんの用もないただの蒸し地獄にすぎなかった。  灼熱《しやくねつ》の夏。日向も影もないのっぺりした暑さ。アスファルトが、ビルが、駆けぬける車が、うごめく人の波が、すべてがピンボールのようにはじきあう熱気——。  初めて経験する都会の夏は、飛沫にとってなにもかもが不快だった。 「だったら帰ってくれば?」  昨夜遅く、ひさびさに電話をかけた恭子《きようこ》にあっさり言われたとき、なるほどそれはいい案だとすぐに思ったのは、しばらく触れていない彼女の声に欲情したせいだけではなく、この不慣れな夏から逃げだしたかったからでもあるかもしれない。  もう少し気どって言うならば、海が見たかった。  しかし、飛沫にはその前に片づけておかねばならないことがあった。  帰郷シーズンのためか混みあっている自由席を離れ、仕切りを隔《へだ》てたデッキにどっかり腰を降ろしながら、飛沫はその朝、訪ねた知季のことを思い返していた。  知季の住所はMDCの名簿で調べた。かつて近所の公園ではちあわせただけあって、そこは飛沫のマンションからそう遠くなかった。とはいえ、土地勘のない町で番地を頼りに自転車を走らせるのはたやすいことではない。なぜ八番地のとなりがいきなり二十二番地になってしまうのか? 「田代《たしろ》のじいさんちは?」ときけばだれもが即座にその方向を指さし、じいさんの健康状態までも教えてくれる村に育った飛沫にとって、東京の入りくんだ町並みは不可解そのものだった。  それでもかろうじて坂井家を発見できたのは、その家の門から見覚えのある顔がのぞいていたからだ。  むくむくとした毛むくじゃらの犬。たしか以前に知季がつれていた。名前は……。 「チクワ!」  飛沫が自転車をおりて歩みよろうとしたとき、家の玄関から知季とよく似た少年が顔をだした。 「待て」  餌を手にした少年が命じても、チクワにはまったく待つ気がないようで、鼻を鳴らしながら尻尾《しつぽ》をふりみだして催促をしている。  少年はあきらめてチクワの足下に餌の皿を置いた。それからふと顔を上げ、飛沫に気づいて言った。 「なんか用っすか?」  門前にたたずむ飛沫を怪しんだのだろうか。  飛沫が知季に会いに来たことを告げると、少年は「ああ、トモね」と表情をやわらげ、玄関のむこうへ引き返していった。そして数秒後、いきなり体脂肪を激減させてもどってきた。わけではなく、現れたのは知季だった。 「沖津くん?」  白いトレパンにTシャツ姿の知季は、餌をがっつくチクワと飛沫の慣れない組み合わせをぽかんとながめている。  飛沫は「よっ」と軽い調子で片手を持ちあげた。 「ちょっと話があってさ」 「あ……うん。えっと、じゃあ、上がってよ」 「いや、歩きながらでいいよ。すぐ終わるから」  飛沫が自転車を引いて歩きだすと、知季もそのあとを追ってきた。しばらくはどちらも口をきかず、無言で朝の陽を浴びていたものの、知季は飛沫が何を話しに来たのかを察していたし、飛沫も知季が察していることを察していた。なんせ昨日の今日である。 「腰、大丈夫なの?」  先に口を開いたのは知季だった。あてもなく歩いているうちに神社へさしかかり、自転車を停めた飛沫が境内へと続く石段に足をかけたときだ。 「これしきでへばってたら、十メートルの台なんて上れないって」  飛沫が言って、大股《おおまた》に石段を上りだす。 「これまでずっと、台に上るたびに痛かったの?」 「そんなことはいいよ」 「でも……」  飛沫はいらだちの目で知季をふりかえった。 「あんたさ、北京に行けよ」 「え」 「そんなふうに他人のことうじうじ気にして、自分のチャンス逃して、そういうの、かなりうざいぜ。あんた、飛込みでなんかを越えたいって言ってただろ? その前に自分のそういうとこ越えろよ」 「……」 「ほんとは行きたいんだろ、北京。行けよ。行きたいとこ行かないでどこ行くんだよ」  石段を上りきった二人を、前後左右から鳥のさえずりが包みこむ。境内を囲む木立がそれに伴奏でもつけるように、さわさわと青葉を鳴らしている。 「きのう、要一くんにも言われたよ」  飛沫と知季は石段の最上段に並んで腰かけた。 「せっかくのチャンスを蹴《け》るなんてダイバー失格だ、って。ここで辞退するくらいなら最初から勝負なんてするな、カエルと一緒に近所の池にでも飛びこんでろ、ってさ」 「辛辣《しんらつ》だな」 「もしぼくが辞退しても、日水連はまたべつのだれかを代わりに選ぶだけだって、要一くん、それも癪《しやく》にさわるみたいでさ。次の候補はピンキー山田だって思いこんでるから」 「あのピンクの?」 「あのピンクの海パンだけは海外にだしちゃいけない、日本の恥だって……要一くん、やけに海パンにこだわってるんだよね。べつにぼくは何色でもいいと思うけど」 「まあな。それに富士谷の海パンも……」 「レモンイエロー。だからいやなのかな、キャラかぶるから」  二人は声をそろえて笑った。  その笑顔のまま知季は言った。 「でも、ちがうんだ。沖津くんも、要一くんもぼくのこと買いかぶりすぎ。ぼく、沖津くんに悪いからとか、ほんとはそんなんじゃないんだよね。沖津くんの身代わりで行くのがいやだったのは、なんかもっとべつの、プライドみたいなもんで……。孫コーチは高飛込み四位のぼくより、七位の沖津くんを最初に選んだ。それがくやしかったんだと思う」 「……」 「でも、いやだって言いながらも、結局、自分は北京に行くんだろうなって思ってた。すごく行きたくて、結局は断れないことも知ってた。ずるいよね」  ふっと苦笑して、飛沫に目をもどす。 「行くよ、北京。心配かけてごめん。つべこべ言わずに行って、もっともっと大きくなって、帰ってくる。沖津くんや要一くんと互角に戦うために」  ほんの数か月で急激におとなびた知季の横顔に、飛沫はまじまじと見入った。 「やっぱあんた、変わったな」 「そうかな」 「ああ。あんたはくやしがってたけど、この前の試合だって、あんたマジですごかったぜ。初めて会ったころとは別人みたいだった。何があったんだって驚いたよ」 「なにって……」  綿毛のような蜂が二人の頭上を飛びまわっていた。知季は一瞬、その蜂に刺されたような顔をしたけれど、痛んでいたのはもっと内側の見えないところだった。 「失恋だよ」 「失恋?」 「さっきうちの弟と会ったでしょ」 「ああ、やっぱあれ、弟か」 「あいつに彼女をとられたんだ」 「……」 「おれが飛込みに夢中になってるうちに、いつのまにか弟の彼女になってた。おれと手をつないだこともない彼女が、いつのまにか弟とキスしてたんだよ」  知季は「はーっ」とひざのあいだに額を押しつけた。 「好きだったのか? その女のこと」  話の思わぬ飛躍にとまどいながらも飛沫が尋ねると、 「わかんない。つきあってるときはそんなに好きじゃなかったけど、でも弟にとられてから、がぜん好きになったっていうか……前に作ってくれた弁当とか、今さら思いだすんだ。あの玉子焼きしょっぱかったよなあ、とか」 「ふうん」 「へんかな、おれって」 「いや、そんなもんだろ」 「でもこのごろおれ、会う人会う人、この話してるんだよね。きのうも要一くんにした。麻木コーチにもした」 「ちょっとへんだな」 「要一くんにも言われたよ。ほら、恋に恋してる、とかよく言うじゃない。ぼくは失恋に失恋してる、って」 「失恋に失恋……」 「でもね、それでもぼく、飛込みしてるときだけは未羽のこと忘れてられる。なにもかも忘れて真っ白でいられる。飛込みばっかやってたせいで彼女をとられたけど、救いになったのもやっぱ飛込みだったんだよね。北京に行けばしばらくは弟からも離れられるし、だからどうしても合宿行きたかったっていうのもあるのかも。こういうのって、不純?」  飛沫はやや考えてから首を横にゆらした。 「いや、純粋すぎてうらやましいくらいだ」  つぶやくなり、ジーンズの尻《しり》をパンとはたいて立ちあがり、ポケットの中をまさぐる。数枚の十円玉をとりだした飛沫は、朽《く》ちかけたお堂の前にある賽銭箱《さいせんばこ》へと目をむけた。 「ついでにちょっと祈ってくか」 「えっ、沖津くん、神さま信じるの?」 「いや、たんなる習慣だよ」  二人して賽銭箱へ歩みより、ぱらんと十円玉を放った。閉ざされたお堂の奥にいる神さまに捧げる、習慣としての祈り。 「何を祈った?」 「弟と未羽が早く別れるように」 「心、ちっこいな、あんた」 「いんだよ。沖津くんは?」 「だから、ポーズだけ」 「長いポーズだったね」 「真剣にポーズとらなきゃ伝わんねーだろ」  ぶつくさ言いあいながら石段を下っていく。三つ年下の知季は友達というには頼りないものの、話をしているとその単純さに救われるところがある。わざわざ失恋の悩みをききにつれだしたようなものだが、飛沫の足どりは来る道よりも軽かった。 「じゃあな。これから練習だろ。遅れんなよ」  別れぎわ、飛沫がそう言って自転車にまたがると、知季は「あれ」とふりかえり、 「沖津くんは練習、でないの?」 「ちょっと行くとこあってさ」 「ふうん。気をつけてね」  そう、この単純さ。  飛沫は「合宿、がんばれよ」と言い残して自転車を走らせた。  そうしていったん家にもどった飛沫は、リュックに最小限の荷物をつめこんで再び外へ飛びだし、小田急線、埼京線と経て新幹線こまちにのりついだのだった。  故郷への道のりはまだまだ遠かった。秋田まで三時間半におよぶ新幹線の旅を終えると、今度は各駅停車で一時間、さらにローカル線にのりついで二時間、本来ならばその上またバスにゆられるところだが、飛沫が最終駅にたどりついたときにはすでに終バスが去っていた。  夜の七時半。夏のさかりとはいえ、田舎の夜は都会よりも涼しい。舟明かりの灯《とも》る海をめざし、海岸沿いに村まで約二十キロの道のりを歩けないこともなかったが、十時間近い旅は飛沫の腰に少なからぬダメージを与えていた。  飛沫は駅のベンチにリュックを放り、褪《あ》せたピンクの公衆電話から恭子に電話をした。 「おれ。今、駅」 「わかった。行く」  飛込みにつまずき恋人のもとへもどってきた自分と、恋につまずき北京へと旅立つ知季と、一体どちらが恵まれているのだろうか。  ほんの一瞬、そんな疑問がよぎったものの、比べてもしかたのないことを比べるのはばかばかしい、とすぐに頭から追いやった。  恭子のバイクが到着するまで、飛沫は駅前のベンチでぼうっと夜空を仰ぎながら、足下の砂を転がす風の中に、恋しかった潮の香りを探していた。 [#改ページ]   7…ONLY TWO  津軽の夜は静かで、海から離れた丘上にある恭子の家にまで潮騒がきこえる。風の吹く日にはその波音にさざめくブナの葉音が重なり、夜の深淵《しんえん》で何かがうごめいているような二重奏を奏でる。朝と夜、光と影の境界が、晴れた日の水平線のようにくっきりとまぶしい。その鮮やかなコントラストの中にいると、東京は人の住むところではないというのもわからないではないけれど、田舎には田舎の住みにくさがあることも飛沫は骨身に染みている。  津軽にもどって以来、飛沫は毎日の大半を岩場で海をながめながらすごした。恭子以外のだれかに会いたいとは思わなかったし、会っても同情の目をむけられるか、あれこれきかれてうんざりするだけだと知っていた。  子供が年々減っていくこの村で、なぜだか飛沫の同級生だけ頭数が多く、しかもそのほとんどが八月生まれである理由が十八年前の秋、二十日間にもわたって村を襲った停電にあることを知ったとき、飛沫は「本当に小さな村なのだ」と観念したような気持ちになったものだが、早くも自分の帰郷についてあれこれ邪推《じやすい》しあっている暇人たちの目はやはり不快だった。  その点、海はいい。なんの詮索《せんさく》も深読みもしないし、飛沫を好きなだけ一人にさせてくれる。 「海を見てるとなんで飽きないのか、今日、わかった。波は規則的によせてくるけど、ある一点で急に不規則な動きをする。決まりきった動作からぬけだして、高々と身をよじらせて、くだける。その一瞬がおもしろいんだ」  夜になるとそんな話をとりとめもなく恭子にきかせた。 「でも、その不規則な一瞬っていうのも、本当は規則的に起こってるんじゃないの? 波が生まれて何回目かのうねりのあとでくだける、とか。あんまり遠くで生まれた波は、岸までたどりつかずに消えちゃうのかも」 「だったら海はたどりつかなかった波だらけの墓場みたいなもんだな」  恭子とそんな話をしていると飛沫の心は安らぎ、静かに満たされた。そのまま布団の上へもつれこみ、豆電球のおぼろな明かりの下で二人の肌を波打たせていると、飛沫の体も満たされた。そうしてセックスに打ちこむ日々が健全であるとは思わないけれど、飛込みだけに打ちこんでいた日々が健全であったともかぎらない。要はバランスなのだろう、と飛沫は思った。自分に最も欠けているものだ。  上京中、ほとんど電話もよこさなかったかと思えば、まるでシーソーのようにバタンと倒れて、突然、自分へかたむいてくる。そんな飛沫をふたつ年上の恭子は寛容に受けいれた。三か月前、やはり突然上京を思いたった飛沫とこんなにも早く再会できたことを、単純に喜んでいるようでもあった。  今年高校を卒業した恭子は海岸沿いのスーパーマーケットで働きながら、祖母の文《あや》さんと暮らしていた。物心のついたときから文さんと二人きりだった彼女の、行方も知れない両親については村人たちが諸説を飛び交わしていたものの、恭子自身はさして興味を抱いていないようだった。少なくともそのようにふるまっていたから、飛沫もあえて触れずにいた。人の噂に上る数では沖津家も恭子に引けをとらない。  飛沫と恭子の関係も、見る人が見れば『未成年者の乱れた性! 三年ごしの半|同棲《どうせい》』ということになるのだろうか。もちろんそんなに大仰なことではなく、すべてはなんとなく成りゆくものだが、恭子とつきあいだした三年前から、飛沫はたしかにほとんど家に帰らなくなっていた。網元を継いだ叔父《おじ》になにかと気をつかう母の姿を見たくなかったからだ。  父と祖父の死後、高校へ進学せず働く気でいた飛沫を母は止め、保険金と貯金で十分にやっていけると説得したのだが、本当のところ、彼らの生活が同じ村にいる叔父の援助でなりたっているのはあきらかだった。故郷に錦を飾れずに終わった白波を親戚《しんせき》の恥と公言するその叔父を、飛沫はどうしても好きになれない。 「ちっと夏休み、もらってさ」  飛沫が先日、そう言って突然の帰郷をしたときも、母は「そう」と何もきかずに迎えてくれたけど、陰で叔父がどんないやみを言っているのかと思うと(「だから言わんこっちゃねえ」「どうせ爺様《じさま》の二の舞だ」等々)、実家にいても落ちつかず、たったの一日で逃げだした。  その叔父を「私《わ》のこと、名前《なめ》で呼ばねで婆様《ばさま》と呼ばるのは、あの下品《うだで》男だげだね」とののしる文さんは、幸い飛沫の味方だった。彼女は若者の自由恋愛に賛同するほどラジカルな思想の持ち主ではなかったものの、女が若くして嫁いだ時代をぬってきたせいか、飛沫と恭子の関係を早すぎるとは言わなかった。中学時代から数々の男を家につれこみ、釣った魚をろくに味わいもせず捨てるような恋愛をくりかえしてきた恭子が、飛沫と出会って以来ぱたりとその悪行をやめたことで、飛沫には一目置いている節もある。  丘上の家で目覚め、文さんの作ったトーストと卵料理の朝食を食べて、恭子がスーパーのレジに立っているあいだじゅう、近所の岩場でげっぷがでるほどに磯の香りを吸いまくる。そうしていると飛沫は「ふえるワカメ」が増えていくように上京前の自分にもどっていく気がした。ああ、おれはここでこんなふうに生きてきて、これからもこんなふうに生きていくと信じてたんだ、と他人事のように思う。  夏陽子の出現は、いわば突発的な事故だった。父と祖父が嵐の海に呑《の》まれたように、飛沫も運命の波に呑みこまれた。  はたして自分は再びあの波に飛びこんでいくのだろうか?  新学期までにはその答えをださねばならないことを知りながらも、飛沫はそれをあとまわしにしつづけた。 「恭子と毎晩セックスして、高校卒業したら漁にでて、結婚して正式にここで暮らして、ガキつくって、いつかは自分の船を買って、その日に釣った一番うまい魚は家族へのみやげにして、みんなでわいわい食って……。おれ、そういう人生ってのが一番、飽きない気がすんだよな」  ときおり飛沫が口にする夢に、恭子はほほえみながらも疑問をさしはさんだ。 「飛込みは? あんたの未来には登場しないわけ?」 「飛びたくなったら、海がある。おれはジジイみたいに飛込みを人生のすべてにはしたくない」 「飛込みがジジイのすべてだったとしたら、ここにいるあんたはなんなわけ? 上京して、飛込みに打ちこんで、そのあと恋をして結婚して、子供をつくって、孫まで育てた。ジジイは人生のフルコースを食いつくしてると思うけど」 「でも肝心の勝負所では負けた。戦争のせいだろうがなんだろうが、そこでしくじったら永遠に人生の敗北者だ。少なくともこの村の連中はそう思ってる」  巨人が噴《ふ》きあげるスプラッシュのような入道雲の下、防波堤をずんずん進んでいた恭子の爪先が止まった。飛沫の口にこの手の怨《うら》み言が上るのは今にはじまったことじゃない。けれども今回の帰郷中はとりわけ頻繁《ひんぱん》で、最初は鷹揚《おうよう》にききながしていた恭子も、二週間目にしてついに腹にすえかねたのだった。 「ねえ、飛沫」  二宮金次郎の銅像の話がはじまる前に恭子は先手を打った。 「あんたはいつもそうやってジジイを被害者みたいに言ってきた。ジジイが村を離れたのは、東京のスカウトマンにそそのかされたから。ジジイが無冠で終わったのは、戦争のせい。でも、ほんと? あんた本気でそんなふうに思ってるわけ? そうやってなんでもかんでも何かのせいにしてるだけじゃないの?」  海面をなでて吹きあがってくる潮風が、恭子の淡いパープルのキャミソールをぱたつかせていた。村で一番|垢《あか》ぬけている恭子とこの海辺で初めて出会ったとき、飛沫は女優がロケでもしているのかと思ったものだ。が、着飾った女たちであふれた都会を見れば恭子などまだまだ素朴なほうで、その人工的でない美しさにあらためてほれなおした。  今、こうして怒りをあらわにしている瞬間でさえ、その顔はじつに愛らしい。  飛沫は恭子に見とれながら言った。 「じゃあ、なんのせいなんだ? 天才だのなんだのっていまだに騒がれてるジジイが、何も残さずに選手生命を終えた。いったい何が悪いんだ?」 「そう、そこんとこ。あたし、ずっと考えてたんだけど……」  恭子はこのときを待っていたように言った。 「腰」 「腰?」 「ジジイは子供のときからあんたと同じようにこの海で飛んできた。あんたの痛めた腰を、ジジイも痛めてなかったとはかぎらないじゃない」  規則的なうねりをくりかえしていた波が、二人の眼下でにわかに不規則なくだけかたをした。  飛沫はその波に足下をさらわれていく思いだった。 「そんな……まさか」 「もしもそうだったら、ジジイはあんたが言うみたいに戦争の犠牲になったわけじゃない。やるだけやって、もうこれ以上はできないってところまでやって、自分でやめたんだよ。だからこそ、あんたを二の舞にしないように慎重に育てた。ありえると思わない?」 「待てよ」  おいおい、ちょっと待ってくれ。混乱する頭を飛沫は必死で鎮めようとした。  沖津白波は戦争の犠牲になったわけではなく、腰を痛めて自分からやめた。恭子の言うことが事実なら、これまで自分の信じてきたことが根底からくつがえされることになる。 「ね、調べてみよう」  恭子は早くも踵《きびす》を返していた。 「ジジイの選手時代のこと、二人で調べてみようよ」  恭子に言われるまでもなく、飛沫もかつて白波の過去を探ろうとしたことはあった。沖津白波とはどんな選手だったのか。どんな飛込みをして、どんな暮らしをし、遠く離れた東京で何を思っていたのか。知りたくて知りたくて、その手がかりを求めて家中を隈《くま》なく探索した。写真でもいい。手紙でもいい。日記ならばなおさらいい。しかし祖父は見事に過去を葬っていた。飛込み選手であった自分を根こそぎ抹消して死んだのだ。  だから探してもむだなんだ、といくら言ってもきかず、恭子は飛沫を強引にバイクの後ろにのせると、でこぼこの坂道を飛ばして飛沫の実家へと急いだ。  元網元の家だけあって、飛沫の家は古いながらも広々としていた。一週間ぶりに帰ってきたかと思えば、いきなり家中を荒らしはじめた息子を怪訝《けげん》がる母の目も気にせず、恭子は必死で白波の足跡を探しまわった。軒下《のきした》。屋根裏。仏壇の引きだし。今や物置と化している蔵《くら》。白波が使っていた部屋はとくに念入りに、たんすの裏から賞状入れの奥まで目を光らせてまわった。  しかし、飛沫がかつて何倍もの時間をかけて探しつくしていた家の中からは、結局、何も現れはしなかった。 「だから言ったろ。なんかありそうなとこはとっくにおれが探してんだよ」 「あとは畳をはがしたり、床板をはいだりするくらいしか思いつかないけど……」 「そこまでしてなんもでてこなかったら、おふくろだってさすがにキレるぞ。のちのちの嫁|姑《しゆうとめ》問題にも発展しかねない」  痛いところを突かれた恭子はしゅんとなり、しぶしぶと来た道を引き返したものの、内心ではまだあきらめていなかったらしい。  その翌朝も飛沫は強引にバイクの後ろへのせられた。 「なんだよ、今日は」 「昨日の続き」 「だからうちには何も……」 「今日は浦井《うらい》さんちよ」 「浦井さん?」 「ほら、あのいつも海岸のゴミ拾ってくれてる浦井さんちのおじいちゃん。あの人、若いころはジジイの親友だったんだって。ジジイの試合を東京で観たこともあるらしいって、文さんが言ってた。だったらジジイのもの、何か残してるかもしれないじゃない」  しかし、その期待もむなしく裏切られた。浦井家を訪ねた二人に、その老人はたしかに白波の試合を観に行ったことがあると認めたが、その記憶はあまりにも頼りないものだった。白波はすばらしかった、第三のコースから後半ぐいぐい追いあげてだれよりも早くゴールした、などと興奮気味に語られる話はあきらかに競泳と混同されていて、飛沫と恭子はその長話にひとしきりつきあったのち、すごすごとその家をあとにした。  それでも恭子はあきらめようとしなかったのだ。  浦井家をでてから一言も口をきかなかった恭子が、「ねえ」とふいに飛沫の腕を引っぱったのは、丘上の家の庭先でバイクを停めてからだった。 「水泳とか飛込みとか、そういう資料をいろいろ残してる組合ってある?」 「日水連のことか」 「そう、そこにならジジイの資料も残ってるんじゃないの? ね、電話して調べてもらおうよ」  この執念深さはだれかに似ている。ふと麻木夏陽子の顔を思いうかべながら、飛沫は頭をふった。 「むだだよ」 「なんで?」 「もうおれがずいぶん前に電話した」 「……」  さすがに脱力したのか、恭子の瞳《ひとみ》が力を失った。 「ジジイが上京して飛込みの世界に入ったのは昭和十一年頃だ。当時は日本飛込み界の絶頂期だったらしいけど、八王子に保管されてたそのころの記録は米軍の空襲で焼けている。日水連の本部は丸ビルにあったけど、当時の事務局員が戦火を恐れて自宅の土蔵にしまいこんだのが、かえってあだになったんだ。焼け跡からでてきたのはロンジンのストップウォッチだけだったらしいぜ」 「それ以後の記録は?」 「戦後、ジジイは昭和二十一年に兵庫で開かれた第一回国体にでてるけど、その映像は残されていない。たぶんそれがジジイのでた最後の公式戦だった」  恭子はくやしげに唇を噛《か》んだ。感情の高まりがある沸点に達すると、彼女は決まって暴走する。はずしたばかりのヘルメットをかぶりなおした恭子は、派手なエンジン音を吹かしながらバイクを始動させ、どこを走りまわっていたのかその日は一晩中、もどってこなかった。  悶々《もんもん》と帰りを待ちながらも飛沫はいつのまにか眠ってしまい、朝、目覚めていつもどおり横にいる恭子に気がついたときは、安堵《あんど》と懺悔《ざんげ》(寝るなよ、おれ……)で思わず肩を抱きよせた。  パジャマを着ない恭子はいつもタンクトップと短パンで布団にもぐりこむ。しかし昨日はよほど疲れていたのか下着しか身につけておらず、胸元のきめこまやかな肌がタオルケットからのぞいていた。三年前、そのすべすべした表面に初めて触れたとき、飛沫は海の外にもこんなに魅力的な生き物がいたことに驚嘆した。その思いは今も変わらない。だからこそ恭子にはなんでも打ちあけた。だれにも言わなかった腰の問題さえ彼女にだけは話していた。  しかし、ただひとつだけ、その恭子にも秘めていたことがある。 「どうしたの?」  恭子の赤い髪をなでていた飛沫に、いつのまにか薄目を開けていた彼女がささやいた。 「考えてた」 「なにを?」 「恭子がなんでそこまでむきになってジジイのことを調べるのかって」  恭子はミルク色のタオルケットを鼻の上まで引っぱった。肌ではなく、その充血した目を隠すためだった。 「飛沫を、へんな呪いから解放してあげたいから」 「呪い?」 「ジジイを被害者扱いして、そのうらみつらみにいつまでも縛られて……そんな飛沫は見たくない。このままじゃあんたは自分のことも、腰のことも、北京に行けなかったことも、ぜんぶ何かのせいにしちゃいそうな気がする。ジジイの人生はだれのせいでもなく、ジジイが自分で選んで生きたんだって、あんたに認めさせてやりたいの。そうすれば……」 「そうすれば?」 「飛沫はもっとまっさらになって、東京へ帰れる気がする」  タオルケットが恭子の額のあたりまでを覆った。涙を隠すためだった。  飛沫が上京してMDCに入ると決めたとき、恭子は一度だけ短く泣いた。恭子が泣くのを見るのはそれ以来だった。  飛沫は身を起こし、タオルケットをそっとわきへよせて、恭子の涙に唇をあてた。  海水よりも辛かった。 「昔の記録はぜんぶ空襲で焼けたって言ったけど……」  飛沫は意を決して言った。 「本当はぜんぶじゃなかったんだ。日水連も知らない話だけど、選手時代のジジイを映した十六ミリを個人的に保管していた男がいた」  恭子の嗚咽《おえつ》が止まった。 「だれ?」 「水城真之介《みずきしんのすけ》。MDCを設立したミズキの元会長だよ。ついでに昭和十年代の日本の飛込み界を代表するダイバーの一人でもある」 「……」 「その孫娘である麻木夏陽子がおれに会いに来た日、水城真之介の遺品の中から見つけた十六ミリの話をして、言ったんだ。もしも……」  もしもあなたが来年のオリンピック出場権を獲得してくれたら、私もあなたのおじいさんが残したものを見せてあげるわ。  若かりし日の祖父を映した十六ミリフイルム。赤の他人にはなんでもないものだろうが、飛沫にとっては奇跡の形見である。東京では天才児ともてはやされ、村では後ろ指をさされつづけた祖父の、祖父だけの真実がそこにある。飛沫は知りたかった。祖父がどんな思いで上京し、どんな思いで帰郷し、そしてどんな思いで孫の自分に飛込みを教えていたのか。他人の口からは語られなかった何かがそのフイルムには宿っていると信じた。  わかった、おれはオリンピックに行く。その代わり、そのときはその十六ミリをおれにくれ。  それが、飛沫と夏陽子の交わした契約だった——。 「でもさ、今考えると、おれがああして上京したことこそ、ジジイの気持ちを知る一番の近道だったのかもしんないな。たった四か月だけど、飛込みって競技を実際やってみて、少しはジジイのことがわかった気がする。少なくともジジイはそんなにつまんねーことやってたわけじゃなかった、ってさ。なんも知らない村のやつらにいろいろ言われるのは癪《しやく》だけど、でも、本当のところはおれだけがわかってればいいのかもしんないな」 「飛沫……」 「それがわかったから、十六ミリはもういいや。どのみち麻木夏陽子との契約はもう切れた。今のおれに一年後のオリンピックは無理だ。それだけは自信がある」  飛沫の自信が恭子の胸をうずかせた。がんこで、負けず嫌いで、一度走りだしたら転ぶまで止まらない飛沫が無理と言う。恐らく本当に無理なのだろう。恭子が探そうと思いつく前から、ずっと前から飛沫の追い求めていたものがたしかにそこにあるのに。 「でも、ほんとは見たいんでしょ、その十六ミリ。なんとかほかの方法で見せてもらえないの?」 「麻木夏陽子に頭を下げて、か。おれにもプライドがあるからさ」 「いいじゃん、この際、プライドなんか」 「それをよしとしたら、おれじゃなくなる」 「じゃあ、あたしから頼もうか? あたし、プライドないし」 「これはおれと麻木夏陽子の問題だからさ」 「意地っぱり」  そう言いつつも恭子はその意地を慈しむように飛沫の髪を抱き、その手を徐々に下ろしてうなじのあたりをさすった。互いにやるせないこの思いをなんとかするにはセックスが最も手っとりばやそうだが、考えてみるとそれも腰に悪い気がして、さらに下ろしかけた手を飛沫の腹のあたりでもてあました。  思えば飛沫が帰郷して以来、二人は抱きあいながらもずっと時間をもてあましてきた気がする。  この大きな夏を。たった二人きりで。  この夜から恭子は白波の名を一切、口にしなくなった。例の十六ミリが話に上ることもなく、二人はそれまでどおり抱きあって眠り、朝が来ると文さんの作った朝食を食べて、恭子はスーパーへ出勤し、飛沫はむせかえるような磯の香りを吸いこみながら陽が沈むまで岩場をうろついた。そうこうしているうちにも時はすぎ、「陽の入りが早まった」だの「だいぶすごしやすくなって」だのの挨拶が人々の口に上りはじめたが、飛沫はまるで季節の変化など感じず、恭子と二人きりでまだ夏のじめっとした日陰にとりのこされている気がした。  真っ白いかいこの繭。小学生のころ、無理やり学校で飼育させられたあの奇妙な虫を思いだす。自分の体を白い糸で包みこんで眠り、その背に羽をさずかって目覚めるあの一瞬。しかし、中には目覚めることなく繭の中で干涸《ひから》びていくものもいる。  飛沫は恭子と二人きり、自分自身の巻きつけた糸の中で静かに死んでいく気がした。  その繭はあくまで自分のものであり、恭子は道づれにすぎないのだと自覚していながらも、恭子が必要で、手放せなかった。  飛沫不在の沖津家に突然、思わぬ珍客が訪れたのは、二人がそうして完全に身動きのとれなくなっていた夏の終わりだった。 [#改ページ]   8…SO I ENVY YOU! 「あんたの友達が来てらよ」  ある午後、母親から恭子の家にかかってきた電話でそう告げられ、徒歩二十分の坂道を駆けおりて海に近い実家の門をくぐり、ふと目をやった庭先の縁側で知季と要一がスイカをかじっているのを見たとき、飛沫が驚いたのは二人の唐突な出現だけではなかった。  昨日までは光と影だけで編みこまれていた夏。そこに彼らの姿が加わったとたん、なぜだか急にまわりの風景が鮮やかな色彩をともなって動きだしたのだ。  空はあくまでも青く。  雲はあくまでも白く。  スイカはあくまでも赤く。  見慣れぬ異物がひとつふたつ入りこんだだけで、見慣れすぎたものたちがこんなにも新鮮によみがえっていく。  そのくらくらするような変化についていけずに立ちつくしていた飛沫に、要一が「よっ」と口から黒い種を飛ばして言った。 「おととい、北京から帰ってきたんだ。孫コーチにしぼられてもうへっとへと。つーことで、三日間の休暇をもらったわけ」  その三日分の荷物がつめこまれたリュックをかたわらに、二人は実際、合宿でしぼられたのがありありとわかるほど痩《や》せていた。完璧《かんぺき》なプロポーションを誇っていた要一はやや肉が落ちすぎ、知季も頬骨の下がげっそりとそげている。 「いきなり来ちゃって、ごめんね。要一くんが、こういうことはいきなりでなきゃパッとしないっていうからさ」  知季が言いわけでもするように言うと、「ほんとはさ」と横から要一が続けた。 「安い宿にでも泊まろうと思ってたんだよ。でもさっきおばさんにきいたら、このへんには宿なんてないって言うじゃん。で、ここんちに泊めてくれるって言うんだけど、マジでいいのか?」  飛沫が返事をするよりも早く、「遠慮しねで」と麦茶のおかわりを運んできた母の美由紀《みゆき》が言った。 「せっかく東京から来たんだもんね。部屋っこはなんぼでもあるんだし、こんなところでえかったら遠慮しねで。なんもおかまいできねばって」  悪いっすね、と要一が悪びれない笑顔で二杯目の麦茶に手を伸ばす。 「部屋っこは、南の客間を使ってもらえばいい。岬《みさき》や美波《みなみ》の部屋のそばじゃうるせえし、西の客間は湿気があるし……。風呂《ふろ》っこは好きなときに入ればええよ。夕食ができたら呼びにくる。そうだ、恭子も呼んだほうがいいんでねか?」  てきぱきと話を進める美由紀に、要一は再び「悪いっすね」とニヤつき、知季は「恭子って、だれ?」と好奇の目を光らせ、飛沫がまだ一言も発言していないうちに、こうして彼らとの三日間がはじまっていた。  この一方的な展開に飛沫が抗議をしなかったのは、抗議どころか自分がどこかしらうきうきしていることを自覚していたからだ。  知季と要一がどんな気持ちで何をしに来たのかはわからない。  しかし何はともあれ、二人の訪問はたしかに、なんというか、パッとしていたのだ。  この日はすでに三時をまわっていたため、どこへも行かずに早々に入浴し、沖津家の座敷でのんびりと食卓を囲むことになった。  沖津家の夕食は早い。午後五時には支度が整い、六時にはすべて平らげ、八時には家中の明かりが消えている。それも飛沫を実家から遠ざける原因のひとつだが、この日は母が叔父《おじ》から仕入れた鮮魚を調理し、大人数での晩餐《ばんさん》はめずらしく七時すぎまで続いた。美由紀は途中で急に思いたち、めったに作らないじゃっぱ汁(タラのあらを使った味噌《みそ》味のあら汁)を作りだしたりもした。  小さいころから自分のことをほとんど話さなかった飛沫のことを、美由紀はよく「なに考えてんだかわかんね」とこぼしていたけれど、飛沫にしてみればあまり喜怒哀楽を表さないこの母親こそ、何を考えているのかわからない。白波の生きかたを否定し、その反対をいくように漁業に打ちこんだ頑固者の父を支えつづけた女。献身的で我慢強いがおもしろみに欠ける人、というのが主なイメージだが、しかしこの日の美由紀はやけに上機嫌で、ときおり少女のような笑い声を上げたりもした。  二人の妹は二人の若い男に対照的な反応を示した。中学二年生の岬はよそゆきの服まで着こんで迎え、皆の皿を替えたりとこまめに動いていたが、小学五年生の美波は照れているのか一言も口をきかず、ごくたまに恭子にだけこっそり何かを耳打ちしていた。  かたくなっていたのは美波だけではない。案内された座敷でいきなり三人の若い女に迎えられた要一も微妙にぎこちなく、かえって知季のほうが早く場に馴染《なじ》んで、酒も飲んでいないのに一時間もすると自分の失恋話をとうとうと語りだした。  美由紀をはじめとする女性陣の見解は一致していた。 「電話もデートもしなきゃふられてあたりまえ」 「あたしでも弟のほうをとる」 「とりあえず二股《ふたまた》をかけてみて、どっちかいいほうを選ぶ手もあったのに、すぱっと弟に乗りかえた彼女はまだ誠実だ」  最後の見解は恭子のもので、飛沫は慣れていたが美由紀は複雑な様子だった。  夜の七時をすぎると窓からは良い風が入りだし、そのむこうで白い輪郭を震わせる茂みの合間をぽわぽわと鈍い光が漂いだす。生まれてはじめて蛍を見たと大騒ぎをしていた知季も、けたたましい蝉の鳴き声には閉口したようだ。波音も風鈴の音も樹木のさざめきも、なにもかも呑《の》みこみミンミン一色に塗りつぶす大音響。美由紀が布団を敷いてくれた客間へと移動する途中、知季は廊下の柱に張りついて鳴いている蝉を見つけ、そのたった一匹が耳をつんざく大音響の犯人であることを知って、「君、一人で……?」などとあっけにとられていた。  気をきかせたのか恭子は一人で家に帰り、三つの布団が並んだ客間に男三人が残ると、彼らは同時に同じことを考えた。まるで修学旅行の夜みたいだ、と。当然、すぐに就寝するわけもなく、三人は布団の上でぼそぼそと語らいつづけた。  最初のうち、話題はもっぱら恭子に集中した。 「いつどこで出会ったのか」 「どこまでいってるのか」 「将来は結婚するのか」  知季と要一は飛沫を質問ぜめにしたが、しかし飛沫は恭子のことを二人の世界から切りはなして人目にさらす気はなく、照れもあって曖昧《あいまい》にかわしているうちに場は盛りさがっていき、「けど未羽と弟はさ……」と知季が再び失恋話をはじめようとしたところで、要一が機敏に話題を切りかえた。 「それにしても参ったよ。さすがは中国、恐るべしって感じでさ」  飛沫が内心、最も気にしていたアジア合同強化合宿の話だった。 「やっぱ世界はちがうよな。おれ、今回の合宿でつくづく思い知ったよ。っていうか、かなりへこんだね」  もしかしたら二人は合同合宿の話を遠慮しているのでは……。  ひそかにそんな懸念も抱いていた飛沫に、要一はごく自然に話を切りだした。 「とくに中国の選手はちがう。試合でのあの安定感ってのは、やっぱ徹底的に鍛えあげられた筋力と柔軟性のなせる業だよな。そもそも練習内容からして全然ちがうしさ。おれたちが合宿中、何度も吐きながら死ぬ気でこなしたメニューを、やつらは毎日余裕でこなしてんだから。ま、柔軟性って面ではもともと素質のあるやつばっかが選りすぐられてるわけだけど」  そう。中国におけるダイバー養成のシステムは徹底している。まずは初級スポーツクラブのコーチたちが器械体操の選手などから見込みのある子供たちをスカウトし、さらにテストで本当に素質のある者だけを迎えいれる。その後も厳しい特訓でふるいにかけ、生き残った者だけが各地方チームへの所属を許される。地方チームの選手は寮に入り、朝から陸トレ、午前中は学校で午後はプール……と飛込み一色の毎日を送ることになるが、その寮というのも選手専用食堂やら専門病院やらがそなわった至れりつくせりの施設なのである。それでも国際大会などに出場できるのは、その地方チームからさらに優秀なエリート選手だけを集めたナショナルチームに選ばれた者だけ。まるで砂時計を逆さにし、最後の一砂に残るような確率だ。 「そりゃ、いやでも強くなるよなあ。ま、同じアジアでもタイやインドネシアの選手なんかはわりとへらへらしてたけど、中国や韓国の選手はなんつーかこう、びしっと顔つきもちがってさ。コーチの指令どおりに動くマシンみたいで、ちょっとびびったよ」 「それでも要一くんはいいよ、孫コーチから『中国人にならないか』なんてむちゃ言われるくらい目をかけられてたし」  ぼやく要一の横から知季がさらなるぼやきを重ねる。 「合宿の最後の日にみんなで試合をやったんだけど、要一くん、なんと三位だよ。四十人中の三位。ぼくなんて三十三位でぼろかすだったのに」 「最初の国際試合であれだけのびのびやれりゃ十分だよ。だいたいおれの三位だって、あくまでアジアの若手にかぎった順位だろ。中国だって本当にすごい選手はまだ隠してるって噂だし」 「でも要一くん、英語もべらべらしゃべれるんだよ。孫コーチは練習中、中国語と英語をごちゃまぜにしてるし、ぼくなんか怒鳴られてもなに言われてんだか全然わかんなくて、『ホワット』『ホワット』って、そればっか。ミスター・ホワットとかあだなつけられて、恥ずかしかったよ。要一くんが通訳してくれなかったら泣いてたと思う」 「英語はおれ、家庭教師までつけて猛勉強したんだぜ。アメリカの合宿に参加するためだけど、国際試合でもライバルの言葉がわかんないと弱気になるもんな。今回だって、言葉が通じたおかげで雲の上の孫コーチともぐっと近づけたし。……合宿所のメシがまずいって泣き言こぼしたり、わりと人間っぽい人だったなあ」 「はあ、ぼくももっとがんばろう。英語も飛込みも」 「飛込みに関してはおまえ、あんな大物たちにずっと囲まれてたから、自分がどれだけ伸びてるか気がついてないんだよ。日本のプールで飛んでみな。きっと驚くぜ」 「そんなあ」 「マジ、マジ。だいたいおれだってトモの体力には参ったよ。こっちがへとへとでもう立てないってときに、パンダ観に行こうとか言ってんだから」  まだ合宿の余熱を引きずっている二人が話に花を咲かせているあいだ、飛沫は黙って耳をかたむけながらもかすかに顔をこわばらせていた。嫉妬《しつと》ではない。もしも飛沫の中に二人への嫉妬があるとしたら、それは合宿に参加したことに対してではなく、彼らがなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく発することのできる飛込みへの情熱に対してだ。あの一瞬。たった一度の試合で感じたあの快感を思いだすと、本当のところ、飛沫は今すぐにでもあのドラゴンの背をよじのぼっていきたくなる。おれはここで何をしているんだろうと考えてしまう。  やがて二人は飛沫の沈黙に気づいてハッとなり、すぐ顔にでる知季はろこつに口を押さえたが、要一は表情を変えずに飛沫を見すえて言った。 「おれたちと一緒に行った松野な、あいつ、合宿の終わりまでもたなかったんだ。途中で肩を痛めて帰国した。もちろんメディカルスタッフもついてたし、毎晩、超音波の治療なんかも受けてたんだけど、なにしろ練習量が半端じゃないからさ。ほかの国にも故障が原因でぬけてく選手が何人かいた。正直、おまえは行かなくてよかったと思うよ」  飛沫は首をかたむけ、うなずいているといえなくもないしぐさを示した。 「沖津、おまえは海で飛んでたのか?」 「いや……今はいろいろ、見合わせてる」 「いろいろ、な」 「女とセックスにふけっていた」 「それはそれでいい夏だ」  しんとなってむかいあう三人の鼻先を、奇妙な渦を描く蚊取り線香の煙がかすめていく。彼らはそろってくんくんとその香を嗅《か》いでいたが、数秒後に知季が我慢しきれず、 「っていうか、うらやましすぎるよ」  と正直なコメントを口にするなり、鉄のマスクでもはがしたように歯をむいて一斉に吹きだした。 「マジ、おれもバカらしくなってきた。寝るか、そろそろ」 「ああ」  笑いながら布団に入り、部屋の明かりを消した。 「真っ暗だ」  蛍や蝉と出会ったときのように、知季は闇にも感動した。 「なんでこんなに暗いんだろ」 「夜だからだよ。おやすみ」 「おやすみ」 「おやすみ」  波の音だけが部屋を支配しはじめると、飛沫は今ごろ恭子は何をしているのだろうと考え、おやすみ、と心の中でもう一度つぶやいた。いつも横にいる相手がいないのはやはりおかしな感じで、恭子もさびしがっているのではないかと思うとすまない気がしたが、さらにすまないことにその夜はいつもよりぐっすりとよく眠れた。 [#改ページ]   9…SUMMER VACATION 「三日間の休暇とか言ってもさ、行きと帰りを除いたら、まるまる遊べるのなんてたった一日なんだよな」 「せっかくの一日なら、せいぜい、たらたらすごしたいよね」  とのリクエストにこたえて、飛沫はその翌日、恭子とともに二人を近くの滝へと案内し、そこでたらたらと午前中をすごした。近所のスーパーに勤める恭子もこの日から一週間の夏休みに入っていた。  知季と要一にとってはこの夏初めての、恭子にとってはようやくの夏休み。しかし津軽の夏は東京のそれよりも逃げ足が早く、日中はまだ残暑が居座っているとはいえ、海にはもうクラゲがでるので泳ぐ者もいない。少し前までは海で真っ黒になるまで遊んでいた子供たちも、その縄張りを川や山へ移し、あるいは家で宿題に追われているのか、あまり姿を見かけなくなった。  滝は子供心にも「やや渋い場所」というイメージがあるのだろうか。さほど大きくはないその滝の周辺はいつも静かで、この日も岩陰でデッサンをする女の子の二人組と、川瀬の大岩から釣り糸を垂らす老人がいるばかりだった。 「うわっ、なんか鳥がいる」 「うわっ、なんか魚がいる」 「うわっ、なんか死骸《しがい》があるー」  はしゃぐ知季を横目に藪《やぶ》中の野路を踏みいって進むと、やがてザザザザザ、と飛瀑《ひばく》のうなりが耳をかすめ、近づくとそれはダダダダダに、さらに進むとドドドドドに変わった。切り立つ崖《がけ》から滝壺《たきつぼ》へと急降下するその迫力の演技に四人は目をこらした。 「富士谷コーチなら、ここで『滝の心を知れ』とか言いそうだね」 「親父なら言うな。ま、最近は麻木夏陽子のアメリカ流に圧倒されてっけど」  知季と要一がにやにやと笑いあう。  ひとしきり滝を見物すると、彼らはそのとどろきに背をむけ、水音がほどよいBGMとなる川瀬へと進んだ。  沢を吹く風は涼やかだった。真緑の葉陰からもれる木漏れ日が、川瀬の岩場に腰かけた彼らに澄んだエメラルド色をそそいでいる。 「もう我慢できない!」  知季が靴と靴下をぬぎすて、「気っ持ちいーっ」と足首までの川にダイブした。あとに続く者はなく、恭子は要一にむかって「芸能人を見たことがあるか」「ディズニーランドへは何回行ったか」などと熱心に尋ね、飛沫はそんな彼女の横顔を苦笑まじりにながめていた。望みどおりのたらたらしたひとときだった。  たらたらを満喫して家へもどり、昼食の冷やしそうめんを食べると、生暖かい昼下がりの中でだれもが睡魔に襲われた。  四人そろって座敷の畳に横たわり、小一時間ほどの心地よい午睡《ごすい》。  目覚めるともう二時で、知季がふいに思いついたように言った。 「ねえ、沖津くんがいつも飛んでた断崖《だんがい》につれてってよ」  その名のとおり、まさしくそれは険しく断たれた崖だった。  海と陸とを絶ち、分かつ壁だった。  荒くくだける波頭をつゆもよせつけず、その尖端《せんたん》を高々と天に突きあげている断崖の絶壁——。 「これが二十メートルか……」  飛沫の家から歩くこと四十分、ようやく行きついたその尖端で、彼らはプラットフォームとは異なるごつごつとした足場を踏み敷いた。はるか下方でうねりを上げる海を見下ろすと、高みには慣れているはずの知季と要一もそろって息を殺し、しばし言葉を失った。ぐらぐらと世界の磁場がゆらめき、大地そのものが安定を欠いていくようだった。 「なんか薄気味わりいな。こんなとこでおまえ、いつから飛んでたんだよ」 「十三歳。昔は沖津家の長男が十五歳になったとき、成人の儀式も兼ねてこの断崖につれてこられたらしいけど、うちのジジイがその風習をやぶって十四でここから飛びこんだ。けっこうひんしゅく買ったらしいけど、親父の代ではすっかりそんな風習もなくなって、でもおれはジジイを越えたくて十三歳で飛んだんだ」 「十三……ぼくよりひとつ下のときか」  ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》みこんだ知季の横から、恭子の挑発的な声がした。 「飛んでみる?」 「えっ」 「よせよ」  飛沫の制止もきかず、恭子は虚空の一歩手前まで足を進めると、その突端に両ひざを抱えてしゃがみこんだ。 「三年前、私とつきあいはじめたころね、飛沫が村のみんなに宣言したの。もしも私を奪いたいやつがいたらここに来い、ここから飛んだら相手になってやる、って」 「すっげー。かっこいい」  尊敬のまなざしを飛沫へむける知季に、恭子は「全然」とそっけなく言った。 「村のみんなは引いてたし、あたしだって引いたよ。だってそんな、だれもあたしを奪いたいなんてまだ言ってないのにさ。そういうことはそういうやつが現れてから言うもんだって、あの文さんにまで笑われたくらいだもん。ま、今から思うと飛沫もまだ子供だったんだけど、あたしはいまだにそのことで恥ずかしい思いをしてるわけ」 「つまり、いまだに現れないわけか。ここから飛ぶやつが」  要一がにやけた目つきをむけると、恭子は「そう」と不本意そうにうなずいて、 「だれも飛ばない。今日まではね」 「今日まで?」 「東京からダイビングクラブの友達が来たってきいたときから、あたし、わくわくしてたんだ。ついにそのときが来たかも、もうここに来るたびに赤面しなくてすむかもって」  期待のこもった恭子の瞳《ひとみ》。要一はそれを器用によけて後ろの知季をふりむいた。 「だとさ」 「って、まさか……」  恭子の視線をまともに浴びて、知季が目の下をぴくつかせる。 「ぼくたちが、ここから?」 「だってダイバーでしょ。気持ちいいよ、きっと」 「そんな、憶測《おくそく》でものを……」 「大丈夫、バンジージャンプよりは低いから。ただゴムがついてないだけで」 「ひっ」  すっかり腰の引けた知季に比べ、要一は冷静だった。 「せっかくだけど遠慮しとく。今、怪我でもしたら二週間の合宿が水の泡だ。もしも飛ぶならオリンピックのあと、海底の深さも自分の目でたしかめてから飛ぶね」  恭子はつんとあごを上げ、「がっかり」と笑った。 「けどあんた、かしこいね」  気のせいか、要一の頬がほんのり赤くなる。  切り替えの早い恭子は朱色のスカートをぱたぱたさせながら「帰ろう」と立ちあがった。 「沖津家はそろそろ夕ごはんの時間だよ」  帰り道の途中、要一は駄菓子屋でごっそりと花火を買いこみ、その日は夕食後に花火大会となった。美由紀も岬も美波も恭子も、飛沫も知季も要一も、薄闇の中で花火に照らしだされるその顔は一様に無心な幼児のようだった。夜気《やき》を乱す風に蝋燭《ろうそく》の火が消え、花火から花火へ、火種を絶やさないためのリレーがはじまると、一同はますます高揚し、何かとてつもなく大事なものを守ろうとしているかのように必死になった。 「なんか、こうやってるとぼくたちも、ふつうの友達みたいだよね」  花火の先で暗闇のボードに絵や文字を描きながら、知季がなにげなくつぶやいた一声。そのわきで飛沫も要一もなにげなくうなずいていたが、裏を返せばそれは日頃、彼らがいかにふつうの友達ではいられない関係かを物語っていた。  花火の終わりはいつもさびしい。  火が先に尽きても、花火が先に尽きても同じように物足りない。  あーあ、と一同はふいに無口になりながら解散し、はしゃぎ疲れた知季は部屋にもどるなり十秒で寝入ってしまった。 「ちょっと、いいか?」  と、要一が飛沫をまだ火薬臭の漂う縁側につれだしたのは、そのあとだった。 「一応、確認なんだけどさ」  要一は単刀直入に切りだした。 「おまえ、あと四日で新学期がはじまるの、知ってるよな?」 「ああ……数えたことないけど、そっか、あと四日か」 「ってことは、あと四日でおまえ、東京帰ってくんだよな」 「……」 「MDCにももどってくんだよな」 「……」 「な?」 「今日、行ったとこさ……」 「あ?」 「あの断崖《だんがい》、初めてあそこから飛んだとき、たしかにおれはまだ十三だったけど、でも長かったぜ、それまでがさ」  はぐらかしているのか、何かつながりがあるのか。骨太の指をひざの上で組みながら、飛沫がとつとつと語りだす。消灯の早い沖津家の窓からは次々に明かりが消えていき、二人の腰かけた縁側から見える草陰の蛍だけがぼやけた点をゆらめかせていた。 「初めはジジイに言われるままに一メートルとか、二メートルとかの岩から飛んで、ジジイが死んでからは自分で何時間も歩きまわって手頃な崖《がけ》を探して……高さをクリアしたら、今度は技の追究だ。ジジイはたしかに第一群から六群までをひととおり教えてくれたけど、回転技は一回半までだった。ジジイが死んだとき、おれはまだ八つかそこらだったからな。二回半はそれから一人でがむしゃらに練習したんだ。それで腰をやられたのかもしんないけど、しゃーないよな、もっと高くとか、もっとすげえ技をとか、そうやって上をめざすのっておれたちの本能だろ。新しいことに挑戦して、失敗して、挑戦して、失敗して……やっと成功したときのあの最高の気分のためにおれは飛んできたんだ」  けどさ、と飛沫は力なく笑った。 「けど麻木夏陽子は、今のおれには三回半は無理だって言うんだ。どこの世界に三回半もまわれずに海外で戦える選手がいるよ」 「……」 「三回半はできない。すげえ技にもとりくめない。じゃあこれから何を目的にしてきゃいいんだよって、正直、今はそれが見えないんだ」  飛沫の苦い告白に、要一は「わかるよ」と一言だけつぶやいて目を伏せた。それくらいしか言えない自分がふがいなかったが、飛沫の気持ちは本当に言葉にできないほどよくわかった。  新しい技に挑むときの心の高まり。そしてそれをなしえたときの達成感。ダイバーはその転げまわりたくなるような狂喜の一瞬を求め、痛くて寒い練習に耐えるのだ。もしもそれを奪われてしまったとしたら……。 「おれでも、おまえの立場だったらどうなるかわからない。いつかはだれにでもそんなときが来るんだろうけどな」  要一は声を曇らせ、それが決して他人事ではないことを示すように、それまで飛沫に言うべきか迷っていたことを口にした。 「麻木夏陽子は、トモに四回半を教えるつもりらしいぜ」 「四回半?」  飛沫はぽかんとつぶやき、数秒後にもう一度、「四回半?」とくりかえした。 「ああ、おれも初めてきいたときは幻聴かと思ったよ。トモ自身さえ真に受けてなかったもんな。けどトモのやつ、北京での合宿中にだんだんその気になってきたみたいでさ、やっぱこのままじゃ世界には追いつけないって実感したんだろうな」 「四回半……できんのかよ、そんなこと」 「自分の持ってるぜんぶをフル稼働させても、おれには不可能だ。自分の限界はわかる。でも、トモの限界はわからない。もしもあいつがおれには絶対できない技をやってのけたら、おれ、飛込みをやめたくなるかもしれないな」 「……」 「でも、それでもやっぱりやめられないかもしれない」 「……」 「ま、そのときになってみなきゃわかんねーよな」  弓形にカーブした眉《まゆ》を持ちあげ、要一は飛沫の顔をのぞきこんだ。 「おまえには、今がそのときなのかもな。もちろん決めるのはおまえ自身だけどさ、でもひとつだけ言っときたい。おれはまたおまえと一緒に飛びたいぜ。この前の試合、あんなに楽しかったのは初めてだし、あんなにくやしかったのも初めてだった。またやりたいよ」  どこか遠くで打ちあげ花火の音がした。音だけで火薬の花びらは目に見えない。夜は静かに更けながらその黒い口で、足下のマッチやら庭先のひまわりやら垣根にかかった手ぬぐいやら、この夏の残り香をそっくり呑《の》みこんでいく。  ややもすれば一緒に呑まれてしまいそうな今の飛沫に、要一はこれ以上、ここで答えを迫ることはできなかった。 「ま、とりあえずまだ四日あるからさ。ゆっくり考えろよ。でも、どっちにしても大島さんには電話くらいしといたほうがいいぞ。あの人、そうとうへこんでるみたいだから」 「へこんでる? あの人が?」 「おまえの辞退を決めたとき、あの人、親父の前で泣いたんだってさ。せっかくのチャンスだから北京に行かせてやりたい、でもおまえの将来を考えるとそれもできないって。よくわかんねーけど大島さん自身、現役時代はだいぶ苦い思いをしてきたらしくてさ。ま、いろいろあるんだろうな。と、それから……」  困惑顔の飛沫を残して要一は立ちあがり、廊下に放ってあったリュックを片手にもどってきた。 「麻木夏陽子から預かってきたもんがある」 「なんだよ」 「おまえに渡せばわかるってさ」  リュックから現れたのはB5版の封筒で、受けとって開くと、一本のビデオと手紙が入っていた。  ビデオのラベルに目を走らせた飛沫の指先が震えた。 『沖津白波 IN 1937』 [#改ページ]   10…FROM KAYOKO 『沖津くん。  中国から戻った二人があなたに会いに行くというので、この手紙と例の十六ミリをダビングしたビデオを託します。  あなたとの契約は白紙に戻りました。このビデオは単なるギフトとしてあなたに差し上げます。あなたはもう自由だから、これからは私との契約の為ではなく、自分自身の意志ですべてを決めてください。  でも、その前にどうしても話しておきたいことがあるの。  この十六ミリはあなたのおじいさんが上京して間もない頃の練習風景を撮ったものです。撮影者は水城真之介。私の祖父よ。  祖父の話を少しさせて下さい。  水城真之介はあなたのおじいさんより二年早い大正七年に生まれました。それは東京神田のYMCAに日本初の飛込み台(わずか一メートルのスプリングボード)が設置された翌年。大正十四年には玉川プールに本格的な飛込み台も造られて、その近くの呉服問屋に生まれた祖父は、家が裕福だったこと、好奇心が旺盛《おうせい》だったこと、それに生まれつき運動神経にも恵まれていたこと等から、同好会の大人たちに混ざってダイブの練習に通い始めたのでした。  時代が祖父の背中を押していたのかもしれません。  昭和三年のアムステルダム五輪で日本の水泳陣が大活躍を収めたことにより、その頃、国内では熱狂的な水泳ブームが巻き起こっていました。昭和五年には神宮プールが完成。その翌々年には日本人ダイバーが初の六位入賞を果たしました。ロス五輪です。  日本競泳陣のメダルラッシュに沸いたこのロス五輪によって、水泳ニッポンの名は更に世界へと広がり、飛込み陣への期待も高まっていく中、着々と練習を積んでいた祖父は虎視眈々《こしたんたん》と四年後に狙いを定めていました。そして実際、次のベルリン五輪では弱冠十八歳にして代表に選ばれたのです。しかも、祖父は日本飛込み陣のチームリーダーとしてベルリンへ臨みました。  結果、日本は飛板飛込みと高飛込みの両部門で四位入賞。今にしてみるとそれは日本飛込み界の最高到達地点で、後にも先にもこの記録を上回ったオリンピックはありません。コーチや選手を始め、日本の飛込み陣はこの快挙に舞い上がり、次こそはメダルを取れるとの自信を深めたそうです。が、ただ一人、祖父だけは冷静に日本の限界を見極めていたのでした。  世界の飛込みは今、飛躍的な進化を遂《と》げようとしている。これからはただ美しいだけではなく、技術や個性を競う時代になるだろう。その激化する戦いの舞台で競《せ》り合える選手が今の日本にいるだろうか? 四位入賞で有頂天になっているうちに、ずるずると世界から置いていかれるのではないか?  世界。それは祖父がダイブを始めた当初から漠然《ばくぜん》と目指していたものでした。日本で簡単に勝つよりは、国際試合でこっぴどく負けたほうがいい。小さな満足は一個人の思い出に留まって終わるが、悔し涙は日本飛込み界の未来につながる。祖父は常々そう口にしていたものです。自分自身の限界をも見越していた祖父は、一人胸の内に危機感を抱えつつ、世界への夢を託せる相手を無意識に探していたのかもしれません。  祖父が知人の民俗学者から一風変わった話を聞きつけたのは、そんな時でした。  何十メートルもある津軽の断崖《だんがい》から飛び込む若者がいる。どうやらその土地に伝わる儀式の一種のようだが、彼の運動能力は単なる儀式を越えて観る者を圧倒する……。  世界へ羽ばたけるダイバーを探していた祖父は、その話に興味を引かれ、津軽へ赴きました。そして当時十六歳だった沖津白波のダイブをその目で見たのです。  鳥肌が立った、と祖父は死ぬまでその衝撃を忘れませんでした。沖津白波のダイブは鮮烈だった。そこには当時の主流であった欧州の堅固なダイブとも、米国の柔軟なダイブとも違う独自のダイナミズムがあった、と。太古の昔から日本に根付いた風土や自然と共鳴した、白波の熱い血の猛《たけ》りが祖父には見えたのだそうです。  そう。沖津白波に上京を勧めたのは私の祖父だったのよ。 「東京で本格的に飛込みをやらないか」という突然の申し出に、意外にも沖津白波はふたつ返事で「やりたい」と瞳《ひとみ》を輝かせたそうです。厳格すぎる故郷の風習や伝統は、まだ若かった彼には少々窮屈だったのかもしれません。そこから抜けだしたい。もっと広い世界で自分を試したい。そんな思いを訴える白波に、祖父は都会の選手にはない未知の可能性を感じたのでした。  上京した白波を祖父は自分の屋敷に住まわせ、寝食を共にしながらの本格的なトレーニングを開始しました。白波は初めての陸トレにも積極的に取り組み、プールでは他の選手の倍近く飛び込むことで、フラットな飛込み台への違和感も克服したそうです。今では一日百回も飛べばかなりの練習量と言われるけれど、白波は多い日で二百回を飛んだという話まで残っていて、プール荒らしと呼ばれた彼の急成長ぶりが目に見えるようです。  でも、確かにあなたの言う通り、白波には不運が付きまとった。  白波の上京した翌年、日中戦争によってアジアの戦火が拡大し、日本は東京五輪の返上を決定。昭和十四年には第二次世界大戦が勃発《ぼつぱつ》し、日本スポーツ界は世界進出の機会を閉ざされたのみならず、国内での行事も一切不能になってしまったのです。私たちの祖父は二人とも戦争へ駆りだされました。  長い悪夢が終わったのは、文部省が「学徒の体育大会」のすべてを禁止した翌々年。戦争が終わり、私たちの祖父も帰国して、二人は無事再会を果たしました。祖父はその頃二十七歳で、白波は二十五歳。白波にとって最も脂の乗った時代は過ぎていたけれど、幸い、彼はまだ世界を目指す情熱を失っていませんでした。祖父は現役を引退して白波の専属コーチとなり、もう一度、二人で死に物狂いのトレーニングを開始したのです。  そしてその明くる年、兵庫の宝塚プールで開かれた第一回国体で、白波は初めて大勢の観衆を前にして飛んだ。  未だに伝説となって語り継がれている幻のダイブよ。沖津白波は敗戦のショックも一掃するような最高の舞を披露して観衆を沸かせた。ピークを過ぎた選手だなんて全く感じさせなかったわ。総立ちになった観衆から喝采《かつさい》を浴びる白波の姿に、祖父は二年後のロンドン五輪で彼は間違いなくメダルを手に入れると確信したそうです。  でも、祖父は大事なことを見落としていたのよ。  あなたのおじいさんはあなたと同様、まだ体の出来上がっていない幼年時代から、海で過酷なダイブを重ねてきた。そして、決して口には出さなかったものの、祖父に誘われて上京した時には、既に腰に爆弾を抱えていたの。国体での迫真の演技は、まさに最後の力を燃やしつくしてのものだったのね。  その後、急激に調子を崩した白波を祖父が強引に病院へ連れていき、そこでようやく腰の故障が発覚した。  祖父は自分の鈍さを生涯、悔やんで生きました。あなたのおじいさんは引退を決意した時、自分はやれるだけやった、もうこれ以上はやれないというところまでやった、だから思い残すことはないと言いきったそうだけど、祖父は自分を許さなかった。そして白波が帰郷した後、自分もすっぱり飛込み界から足を洗ったのでした。  その翌々年のロンドン五輪では、日本はまだ国際オリンピック委員会への復帰を認められず、不参加という通告に涙を呑《の》んだ選手は確かに多かったけれど、沖津白波はその少し前に現役を退《しりぞ》いていたのでした。  飛込みから離れた数年後、祖父は実家の呉服問屋を畳んで小さなスポーツ用品店を立ち上げました。今のミズキの前身です。当初はただの小さな卸売《おろしう》り店にすぎなかったけれど、祖父には思いのほか商才があったようで、海外ブランドに着目したりオリジナルの商品を開発したりしながら事業を拡大し、その後、家庭も築いた祖父は多忙な毎日の中で徐々に飛込みのことを忘れていきました。  同様に津軽で結婚し、新しい生活を始めていた白波とは時折連絡を取り合っていたものの、次第にそれも遠のいていったようです。祖父も白波も現役時代の思い出話を嫌ったそうですが、かといって他に共通の話題があるわけでもなかったのでしょう。或いは、彼らは自分たちの中に最も輝いていた相手の姿だけを記憶しておきたかったのかもしれません。まさか白波がその後、孫のあなたに飛込みを教えていたなんて、祖父は夢にも思っていなかったのよ。  だからこそ八年前、白波の死を知らされて津軽へ駆けつけた際、若かりし日の天才を偲《しの》びながら歩いた海岸の一角で、まさに昔の白波のように豪快なダイブをしていた少年と遭遇し、祖父は心臓が止まるほどびっくりしたのです。  かつて白波と出会った時、祖父はその出会いに運命を感じたそうですが、その少年……あなたとの出会いには宿命を感じたと言っていました。  宿命。そう、あなたが白波の孫であると知った時、長いこと祖父の中で眠っていた何かが一気に目覚めたのです。  飛込みへの情熱。世界への夢。祖父がMDCを立ちあげ、日本飛込み界の発展の為に力を尽くしたのは、勿論《もちろん》あなた一人の為ではなかったでしょう。しかしそこには少しだけ、亡くなった沖津白波への弔《とむら》いの意味もあったように私には思えます。  人は年齢を重ねると、それまで自分の培《つちか》ってきた何かを誰かに伝えたくなるものかもしれない。誰かの中にそれを残して死にたくなるのかもしれない。けれどそれは若い人にとってはただの傍《はた》迷惑にすぎないことも多く、だからあなたが祖父の再三にわたるスカウトを断り続けていた頃も、私はそれはそれで仕方のないことだと考えていました。  でもね、祖父の死後、祖父がいつも話していた少年を一目見たいと津軽へ向かい、あなたのダイブをこの目で捉《とら》えた瞬間、祖父がなぜあんなにもあなたに執着していたのかを私は一瞬にして理解したの。この子が欲しい。自分の手で育てたい。そんな思いが狂おしいほどに私を駆り立てたのでした。  その後のことはあなたも知っての通りです。  沖津白波の孫、飛沫を国際的なダイバーにしたいという祖父の夢を継ぐ為。  そして祖父のもう一つの夢——日本飛込み界の発展を願って創設したMDCを守る為。  私はこの二つの理由から、なんとしてでもあなたをオリンピック選手に育てあげようと決意しました。祖父の遺した十六ミリをチラつかせるという卑怯《ひきよう》な手段を使ってまで。  でもね、本当はわかっていたのよ。飛込みという競技はそんなに甘いものではない。自分自身の中から自然と込み上げる熱情なくして飛べるわけがないのだ、と。そしてあなた自身、誰かとの契約のために動ける人ではないこともよくわかりました。  腰の問題が発覚しなかったとしても、だからどのみちあなたはいつか選択を迫られたはずです。自分自身の意志で飛込みを続けるのか、或いは津軽へ帰るのか。  あなたはきっと今、生まれ故郷の海で自分の過去を見つめながら、その選択を自らに迫っているのでしょう。私にはその答えを示唆《しさ》することはできないけれど、ただこの手紙によってあなたに、もう少し遠い過去のほうまで見せてあげたかった。あなたと私の祖父たちが育《はぐく》んできた歴史を。その歴史の延長線上に今のあなたがいることを。  私個人の意見は以前に言った通りよ。今、無茶をすればそれこそあなたは沖津白波の二の舞になる。でも、腰への負担を抑えてうまく折り合いをつけながら飛込みを続けていくことはできるはず。たとえ高度な技に挑めなくても、あなたにはあなたにしかない強烈な個性が、存在感があるわ。それこそ練習では手に入らない天分のようなもの。沖津白波からあなたが受け継いだものです。  さらりと簡潔に終わらせるつもりが、ついつい長くなってしまいました。  窓の外が明らんできています。明けない夜はないというのは本当ね。  最後にひとつだけ。あなたのおじいさんは確かにダイバーとして恵まれていたとは言えません。でも、たとえ苦い結末を迎えたとはいえ、彼がすべてを賭《か》けて飛込みに打ちこんだその時間は、決して悪いものではなかったと私は信じたいです。十六ミリに映っているあなたのおじいさんは、だってとてもいい顔をしているから。  ふくれっつらで上京してきたあなたが、いつかあんな顔をしてくれるのを私はずっと待っていました。  今でも。  私はいつでも桜木高校のプールにいます。 [#地付き]麻木夏陽子』 [#改ページ]   11…DAY MUST BREAK  明けない夜はない。  たしかに夏陽子の言うとおりで、飛沫が一睡もせずにやりすごした夜もやはり明け、その翌朝、要一と知季は短い休暇を終えて東京へ帰っていった。要一は「いい骨休めになったよ。オリンピックが終わったら、あの崖から飛ぶためにまた来る」と、知季は「楽しかったー」と言い残して。  美由紀の運転する車で二人を最寄りの駅まで送ったあと、飛沫は実家の自室で恭子と例のビデオを観た。昨夜遅くに夏陽子の手紙を読み終えたあと、今すぐそれを観たいという衝動を抑えるのは容易ではなかったものの、自分のために必死で白波の足跡を追っていた恭子の顔を思いだすと、一人で観るのは裏切りのようで、ためらわれた。  小さいころから追い求めてきた白波の足跡。  祖父が形としてはっきりと残してくれたもの。  いきなり自分の手の中に飛びこんできたそれを、一人で受けとめるのはあまりに重すぎたせいでもあったかもしれない。  ビデオは十分足らずの短いものだった。昔のフイルムをダビングしただけあって、絶えずざらざらと砂の嵐が画面を覆い、ときおり映像が乱れて飛ぶ。それでも二十四インチのテレビ画面に若き日の白波が映しだされたとき、飛沫はたまらずに目頭を熱くした。  久しぶりに祖父と会った懐かしさのせいだけじゃない。夏陽子の言葉どおり、白波がじつにいい顔をしていたからだ。  十六歳。今の飛沫とちょうど同い年の白波は、いかにも野性児といった身軽さで玉川プールを所狭しと駆けずりまわっていた。三メートル。五メートル。七メートル。十メートル。徐々に高くなっていくその台がめずらしくてしかたのない様子で、何度も駆けあがっては大きく舞いあがる。白波の吹きあげる盛大なスプラッシュは、まるで自分のそれを見ているようでおかしくもあった。激しく波打つ水面が静まるのも待ちきれず、白波は飛び魚さながらに水から飛びだすと、再びダッシュで飛込み台へと駆けのぼっていく。ときおり自分の動きを追う撮影者———水城真之介をふりかえって笑った。そのはにかんだ笑顔の下で、このときすでに彼の腰がうずいているなどとだれが思うだろう。彼自身さえそんなことは忘れているかのように、白波は故郷を遠く離れた新しい世界で躍動し、全力で遊んでいた。まだ技も回転もつたない。プラットフォームからの踏みきりもぎこちない。けれどたしかに白波はそこで輝いていた。  となりでひざを抱えていた恭子が鼻水をすすりあげた。  飛沫は懸命に平静を装っていたものの、映像が終わり画面が青一色に塗りつぶされても、リモコンに手を伸ばすことができずにいた。 「ジジイが飛込みをやめた理由なんて、本当はどうでもよかったんだ。戦争でも、腰痛でも、なんでもさ」  やがてようやく飛沫の手が動いたが、その指はリモコンではなく恭子の手をにぎっていた。 「知りたかったのは、やめたわけじゃなくて、ジジイが飛込みをはじめたわけだ。ジジイが好きではじめたんなら、それでいいんだ。ジジイが東京で楽しかったんなら、もう、それでいいんだ……」  飛沫はそれから三日間を恭子の家ですごした。そして八月三十日の夜、「明日、東京へもどるよ」と告げると、恭子は何も言わずにこくんとうなずいた。飛沫が一人迷っていたときから、恭子はいつかこの日が来ることを確信していたのかもしれない。  出発を夏休みの終わる直前まで引きのばしたのは、許されるかぎり一日でも長く恭子のそばにいたかったからだ。東京にもどればまた飛込みに専心し、恭子のことをしばし頭から追いやってしまう。そんな自分のいい加減さを知っていたから、前もって少しでも埋めあわせをしておきたかった。 「恭子と毎晩セックスして、高校卒業したら結婚して、ガキつくって、船を買って、その日に釣った一番うまい魚を家族でワイワイ食って……。おれ、そういう人生ってのが一番飽きないって、今でも思うよ。でも……」  旅立つ前の晩、飛沫はそのたくましい腕を恭子の枕にしながら、正直な胸のうちを口にした。 「でも、その前にもう一度、あいつらと飛びたい。要一やトモと同じ時代に、同じ舞台でさ。おれにはたいした技もないけど、でもまだ自分をぜんぶだしきったわけでもない。だからもう少し……やるだけやって、負けるだけ負けて、気がすんだら帰ってくるよ」  迷いをふっきったその声に、恭子もトーンを合わせてさっぱりと言った。 「うん。さっさと負けて、早く帰っておいで」 「いいのか? 恭子はそれで」 「飛沫とつきあいはじめたころ、あたし、きいたよね。あたしは今までいろんな男たちと寝てきたし、それはそれで楽しかったから後悔はしてないけど、でもこのへんの男たちはもうだれも本気であたしを相手にしようとはしない。あんたはそれでもいいの、って。あんた、なんて答えたか憶えてる?」 「男の一人も知らない女より、いろんな男を知ってる女に選ばれたほうが光栄だ」  恭子はにっこりほほえんだ。 「あたしもおんなじ。なんにも知らない飛沫より、東京のことも知って、競うことも、負けることも知って……そんな飛沫のほうがいい」  飛沫の大きな掌が恭子の頬を包んだ。 「恭子」 「ん?」 「恭子がいて、よかったよ」  飛沫は苦しくもあったこの夏をその一言で締めくくり、二人はそのまま別れの感傷に呑《の》まれることもなくセックスに移って、よりそった心のまま健やかな眠りについた。  はずだったのだが、甘かった。  その翌朝、飛沫が出発する間際になって、恭子はいきなり態度を一変させたのだ。 「どうせ東京へ行ったらあんたは電話もしてこないんでしょ」 「そんな冷血漢を空港まで見送りに行くいわれはないよ」 「だいたい、嫁入り前の女の部屋に避妊具を置いていくなんてどうかしてない?」  憎々しくてしょうがないといった調子でまくしたてる恭子は、前日のものわかりのいい彼女とはまるで別人だった。よくあることではあるが、飛沫はそのたびに恭子には双子の妹がいるのではないかと本気で思う。思い返せば四か月前、飛沫が初めて上京した際にもまったく同じ経過をたどっていた。 「時間、ないからもう行くぞ」  飛沫は自分の学習能力のなさを悔いながら言った。 「見送り、ほんとに来ないのか?」 「行かない」 「玄関くらいまで来いよ」 「行かない」 「せめてこっちむけよ」 「むかない」 「一体どうすりゃいいんだよ」  四か月前と同じ質問。  恭子は飛沫に背をむけたまま、四か月前と同じ返事をした。 「そのままでてってよ。さっさと、またすぐにもどってくるみたいな感じで」 「わかった」  飛沫はうなずき、できるかぎりまたすぐにもどってくるような足どりで恭子の部屋をあとにした。  階段を下ると、玄関先で掃き掃除をする文さんに出くわした。  リュックをかついだ飛沫に気づくと、文さんは割烹着《かつぽうぎ》のポケットに片手を忍ばせ、 「行ぐんだか」 「ああ。いろいろごっそさん」 「これば持ってけじゃ」  窓からの朝日にちりちりと光る埃《ほこり》のむこうから、文さんがぶっきらぼうにさしだしたのは、この土地に伝わるお守り。殻頂の手前に穴を開け、赤い紐《ひも》を通した二枚貝の貝殻だった。 「役にも立たねばって、邪魔さもならねべ」 「サンキュ」  飛沫はつぶやき、貝殻を掌で温めた。それから再び、またすぐにもどってくるような調子で、朽《く》ちかけた引き戸の玄関をくぐった。  空港までは美由紀が車で送ってくれた。その前日まで飛沫は行きと同様、電車をのりついで東京に帰るつもりでいたのだが、実家に電話をして「明日、帰る」と告げると、なんと美由紀はすでに飛行機のチケットを用意していた。しかも、それは飛沫の予定していた三十一日の午前便だった。  さほど自分のことをわかっているとは思えない母親だが、しかし、見るところは見ているのだろうか。判然としない思いで飛沫が車にのりこむと、「恭子は大丈夫?」と運転席から美由紀の声がした。 「さあな。ったく、女ってみんな二重人格なわけ?」 「感情を表にだしてるうちはいいんだよ。腹の中にためたもん爆発させるときがおっかねんだ」 「おふくろは表にださなかったな」 「爆発させるまえに死んでまったからな、あんたの父ちゃん」  車は順調に進みだしたが、空港まではまだ時間があった。この際なので飛沫は今まで気になっていたことをきいてみることにした。 「あのさ、まわりの親戚《しんせき》どもからさんざんジジイの悪口きかされて育った親父は、ジジイの生き方を否定して、そんで自分は地道に漁業をやろうって気になったわけだろ。だったら息子のおれにも飛込みなんてさせたくなかったんじゃないのか? 親父はなんでジジイがおれに飛込みを教えるのを止めなかったんだ?」 「止めたさ」  美由紀はあっさりと言い返した。 「でも、なんぼ止めてもあんたはきかんかったから」 「おれが?」 「忘れたか? 父ちゃんがなんぼ怒っても言うこときかねで、あんたは爺様《じさま》の腕を引っぱって海へ出てった。怪我しても、あざ作っても飛込みをやめなかったんだよ。あの頑固な父ちゃんが根負けしたぐらいだ」 「……」 「だから母ちゃん、あんたが今回もどってきたときも思ったんだ。母親の勘でさ、あんたはまた東京へもどっていくなって」 「八月三十一日に?」 「それは女の勘だ」  青森空港の駐車場に到着すると、美由紀はトランクから大きな紙袋をとりだし、「鯨餅《くじらもち》、四箱入ってるから、お世話になってる皆さんに配るんだよ」と飛沫の右手に握らせた。米と小豆で作られた鯨色のういろう。たしか四か月前も飛沫は「東京の皆さんへ」とこの手土産を押しつけられた憶えがある。こんなもんだれが喜ぶかよ、とそのときは強引に突き返したはずだが、今回は黙って鞄《かばん》に忍ばせた。 「おれ、故郷に錦は飾れないけど、東京で好きなだけやって、そのあとはこっちで漁師をやるよ。いつかは船も買って、だれの世話にもならずにすむくらいの暮らしをあんたにもさせるから」  空港へと足をむけながら飛沫が最後に言い残すと、美由紀は目尻《めじり》を光らせ、「体にだけは……」と声をつまらせた。ついに最後まで彼女は飛沫が帰郷した理由も、飛込みの状況も尋ねようとはしなかった。  東京行き旅客機の離陸時間は午前十時十六分。  飛沫が空港でチェックインをすませたのは九時三十三分。  出発までにはまだ余裕があったため、飛沫はジーンズのポケットから小銭をかきあつめ、空港ロビーの公衆電話から大島の携帯に電話をした。 「はい、もしもし大島……」 「沖津ですけど、これから飛行機で帰ります」  開口一番に告げると、大島は一瞬めんくらったように黙りこみ、それから「そうか」と空元気ならぬ空平気のようなさりげなさで言った。 「気をつけて帰ってこいよ。落ちないようにな」 「機長に言ってください」 「機内食が楽しみだな」 「七十分じゃでないって」 「そりゃ残念。よし、じゃあ今夜はすきやきでもするか」 「……あんた、それしか知らねーな」  あいかわらずの大島にあきれながらも、こうして一か月前となんら変わらぬ会話を交わしていると、あのマンションの匂いや感触、生活のすみずみにあるなにげないものたちが一気によみがえり、飛沫の胸を満たしていく。  おれはあそこに、東京に帰るのだと実感した。  自分の意志で。  たぶん、負けるために。 [#改ページ]   12…SWAN DIVE  八月三十一日。夏休み最後のこの日、桜木高校のダイビングプールに一人残った麻木夏陽子は、プールサイドのベンチで沈みゆく陽をながめていた。すでに私服に着替え、メイクも見事に整えている彼女だが、数分ごとに視線をそわそわ泳がせたりと落ちつきがないわりに、なかなかその腰を上げようとしない。  彼女の心がざわめいているのにはふたつの理由があった。  ひとつは、昼前に大島からもたらされた吉報。 「飛沫が今日、帰ってくるぞ」  プールサイドですれちがいざま、耳元で大島にささやかれた瞬間から、夏陽子は不覚にも練習にふだんほど身が入らなかった。まだ家にも帰りついていないはずなのに、飛沫が今にもやってくるような、このプールにあのふてぶてしい顔を見せるような気がして、じっとしていられない。  一か月間、待ちつづけていたその姿が現れないままに時が経ち、練習を終えた桜木高校飛込み部員たちの姿がプールから消え、一時間後にはMDCの面々も消えて、「すきやきの準備をしなければ」と大島までがいそいそと帰ってしまっても、夏陽子はまだ飛沫がここに来るという予感を捨てきれなかった。  しつこい。執念深い。食らいついたら放さない。夏陽子は自分のそんな傾向を決して美点とは思っていないが、こう生まれついたからにはスッポンのように生きていくしかないと覚悟は決めていた。  茜《あかね》色をたたえるプールのまわりを何周も歩いた。もっと紅い空を見に飛込み台へも上った。みんなの帰った公園で遊びつづける子供みたいにそうして一人さまよっていると、いつもだれかを待ちくたびれていた少女時代を思いだし、もうだれも永遠にここには現れないような心細さにひたされていく。小一時間ほどでベンチに座りこんだ夏陽子は、それでもその視線をまだ腕時計と携帯電話のあいだでさまよわせつづけた。腕時計を見るときは飛沫の、携帯電話を見るときは富士谷コーチのことを考えながら。  富士谷コーチからのラブコールを待っていたわけではない。例の会議の結果について、まだなんの連絡もないことが不穏に思えたのだ。  会議。夏陽子が落ちつきを失っていたふたつ目の理由は、現在、日水連の本部で開かれている臨時会議だった。メダルの鬼と称される新日水連会長は、アジア合同強化合宿のあと、就任三か月目にして次期オリンピックの実行委員会を組織し、今日、早くも代表選定の方針を定める第一回会議を開いたのだ。  公にはされていないこの会議の情報は、日水連の事務局に勤める富士谷コーチの妻からもたらされた。新日水連会長が今からメダルの獲得に躍起になっているのはだれもが知るところだが、しかし、あまりに早急な今回の会議とその密室性に対しては、日水連の内部からも疑問の声が少なくないという。  来夏に行われるシドニー五輪の飛込み代表が決定するのは、来春の四月か五月。これまでそう見なされていたものの、今日の会議次第ではそれもくつがえされる可能性がある。そんな話を知らされた夏陽子は、今日一日、いやな胸騒ぎにおびえつづけた。  吉報と凶報。  心配事がひとつ去ったかと思えば、また新たな心配事が訪れる。  オリンピックがさほど遠くない未来へと迫ってくるにつれ、夏陽子を襲う不安や焦燥も威力を増してきた。それをはねかえすには今まで以上のパワーと信念、それにスッポン根性が必要だ。はたして自分はMDCからシドニー五輪の代表を育て、ぶじ重責をはたすことができるのだろうか?  オリンピックへの道など、思えば奇跡の積みかさねだ。肉体的な適性と精神的な適性。毎日の練習とそれを許す環境。優れたコーチとの出会い。家族の理解——。そのひとつでも欠けたら奇跡の条件はそろわない。そして最後に強運という味方を引き入れてこそ、初めて選手はその夢の舞台に立つことができるのだ。  夏陽子は軽く目を閉じ、一年後のオリンピックを頭に描いた。  はたしてその最高の舞台で飛込み台の頂《いただき》に立つことができるのはだれなのか?  日本が確保した代表枠は三つだが、飛沫、知季、要一の三人がそろって出場できるとは思えない。なにしろ日本には寺本健一郎というけたちがいの実力者がいて、代表枠のひとつはすでに彼の指定席、クッションまで置かれていると言われる。オリンピックの代表争いは事実上、残るふたつの枠をめぐっての戦いとなるはずだ。  残るふたつ。  それを手に入れるのは、一体……。  夏陽子は喝采《かつさい》に包まれたオリンピックプールを見るように瞳《ひとみ》を開いた。  そこには観客も横断幕もはなやいだ熱気もなかったけれど、暗闇の中に一人、夢の舞台とはまだ遠いところで戦いをはじめようとしている一人の選手がいた。 「おかえりなさい」  夏陽子がほほえんだ。 「ひとつだけ、どうしてもききたいことがあってさ」  闇のむこうからひそやかに歩みよってきた飛沫は、一か月前とどこがどう変わったというわけではなく、いつものふてくされた目つきで夏陽子の前にいた。あえて変わったところをあげるなら、「これ、おふくろから」と柄《がら》にもない手土産などを持参したことくらいだろうか。それでも、元ダイバーの夏陽子には彼がどれだけの迷いと葛藤《かつとう》の末にここにいるのか痛ましいほどにわかった。 「おれはもう、あんたのじいさんが願ってたような、国際的なダイバーにはなれないよ」  弱音ではなく、ただ事実を述べるように飛沫は言った。 「あんたのじいさんが興《おこ》したMDCを守るって役目も、やっぱり富士谷か坂井にまかせたほうがいい。あんただってそんなことはわかってるはずだよな」 「……」 「なのに、なんでまだおれを飛ばせようとするんだ?」  彼女の真意を探る飛沫に、夏陽子は「なぜなら」と迷わず即答した。 「なぜなら、あなたがまだ飛ぼうとしているから。そしてあなたの飛込みがおもしろくてたまらないからよ」 「おもしろい?」 「初めてあなたのダイブを見たときから、私はずっとそのおもしろさに惹《ひ》かれつづけている。技の難易度を競うだけがダイブのおもしろさじゃないわ。あなたを見ていると心からそう思えるし、できれば世界中の人たちにもそれを教えてあげたい。高度な技だけがすべてではない、と」  飛沫の唇が嘲笑《ちようしよう》をともなってゆがんだ。 「坂井知季に四回半を教えようとしてるあんたが、よく言うぜ」 「人には適性ってものがある。アクロバティックな技に適した選手がいるのなら、私はコーチとしてその能力を限界まで引きだしてあげたい。それだけよ」  夏陽子は強いまなざしをぴくりともさせずに「そして」と続けた。 「そして、あなたにはあなたの飛込みを教えたい」 「おれの飛込み?」 「今の飛込みはたしかに、回転の数や種目の難易率、入水技術の競《せ》り合いが主流になっている。自分にはできないすごい技を見たいっていうのは人間の自然な欲求だから、それはそれでいいと私は思ってるわ。でもその一方で、飛込み本来の美しさに立ち返るような演技があってもいいと思うの」  夏陽子の声が熱を帯び、瞳は猫のように光りだした。飛込みについて語るとき、彼女は狙った獲物しか目に入らない野生動物のようになる。 「飛込みとは本来、ただ高所から飛びこむだけの単純なスポーツだったのよ。でもそれが長い年月をかけて全世界へ広がっていったのは、そのシンプルな躍動の中に人々を魅了する何かがあったからだわ。ただ飛ぶだけ。なのに人々はその一瞬に惹きつけられてきた」 「ただ飛ぶだけ……」 「今の種目に当てはめるならば、前飛び伸び型。なんの変哲《へんてつ》もないこんな技、今じゃだれも飛ぼうとしないけど、百年前のダイバーたちはこの前飛びで勝敗を競っていた。日本に飛込みが伝わる以前の話よ。当時の二強はイギリスとスウェーデン。イギリス勢はそのころ、のちにイングリッシュヘッダーと呼ばれることになったスタイル——両腕を頭上に伸ばした姿勢で飛びこんでいたの。これに対してスウェーデン勢は、腕を真横に伸ばして飛ぶスウェディッシュスワローのスタイルで応戦した。難度はイングリッシュヘッダーのほうが上だったにもかかわらず、試合はいつもスウェーデン勢の圧勝だったそうよ。なぜなら、彼らのスウェディッシュスワローは美しかったから。まさに舞いあがる白鳥のようだったというその技を、のちに人々はこんなふうに呼んだの」  夏陽子は挑むような目をして言った。 「スワンダイブ、と」  スワンダイブ——。  その舞を、もちろん飛沫は見たことがない。話にきいたのもこれが初めてだ。にもかかわらず、夏陽子の口からこの言葉をきいた瞬間、飛沫はまさに自分の内側から数千の白鳥が一斉に飛び立つようなざわめきを覚えた。  スワンダイブ。  あるいは、この一言に運命の出会いを感じていたのかもしれない。 「私の祖父は若いころ、そのスワンダイブを見たことがあると言っていたわ。そしてそれをもう一度見たいというのが祖父の口癖だった。ただし、それができるダイバーが今ではいるかわからない、と」 「いるかわからないって……ただ飛ぶだけなんだろ?」 「ただ飛ぶだけのシンプルな演技だからこそ、どんなごまかしも通用しない。その単純なラインの中に飛込み本来の美しさと力強さを凝縮させて、さらにダイバー自身の強烈な存在感を光らせなければ、ただの前飛び伸び型なんて見向きもされないでしょう」 「美しさと力強さ。強烈な存在感……」 「四回半を成功させればだれだって人々を感動させられる。ちょっと器用なダイバーなら三回半で観衆をわかせることもできるわ。でも、ただ飛ぶだけ。それだけで人々の心をつかむことができるのは、私の知る中で一人だけ……沖津飛沫、あなただけよ」 「!」  これまで飛沫の行く手をふさいでいた壁が、夏陽子の強引な投石でガラガラとくずれていくようだった。  目の前に開けたそこにはまだ頼りない、得体の知れない羽が一枚落ちているだけだ。が、これをつければ自分はまた飛べる。また新しい挑戦へと自分を駆りたてることができるのだ。  飛沫は一寸の迷いもなくその羽に手を伸ばした。 「それを……そのスワンダイブをおれに教えてくれ」  ベンチのわきに投げだされた夏陽子の携帯電話が甲高いメロディを奏でたのは、そのときだった。  ぶるぶると全身を震わせる携帯電話。  緊迫した空気を一瞬にしてさらった〈ロッキーのテーマ〉。  なんとも彼女らしい着メロに思わず聴き入る飛沫の前で、大事な話をさえぎられた夏陽子はいまいましげに携帯電話を持ちあげた。 「もしもし?」  不快感をあらわにしたその声は、しかし相手の声をきくなりトーンダウンし、「はい……はい……」と幾度かの冷静な相槌《あいづち》のあと、再びいらだちの色を強めた。さっきまで彼女をほてらせていた熱が、たちまち氷点下まで下がっていくのを見るようだった。 「なんですって?」  五分少々の会話のあと、夏陽子は飛沫にむきなおり、ひどく空虚な表情で告げた。 「日水連は来年の四月を待たずに、次期オリンピックの代表を内定したそうよ。選ばれたのは、二人だけ。寺本健一郎と、そして富士谷要一……」  一人で迷って、一人で決めた。つもりでいた飛沫だが、世界はそんな一個人の感情とはかけはなれたところで冷徹に回転を続けていた。  一体、何があったのか。  なぜシドニー代表がこんなにも早く決まったのか。  こみあげる疑問を飛沫は口にだしかけたが、夏陽子と目が合うとハッとなり、あわててそらした視線を宙高く放りあげた。冷たくそびえ立つコンクリート・ドラゴンの頭上には、今見た夏陽子の不似合いな瞳《ひとみ》のように、赤く潤んだ月がおぼろに浮かんでいた。 [#地付き](下巻へ続く) 角川文庫『DIVE!! 上』平成18年6月25日初版発行              平成18年12月10日3版発行